一、その少女には声がない
保護者不在。えも言われぬ甘美を湛えたその言葉を前に、少女は沈黙していた。
遊びたい盛りの十代の男女、大人の眼がない、二人きりの部屋。やや硬めのソファーに身を投げ出したる幼馴染みの空蝉時雨はというと、呑気に端末をいじくっていた。今、彼の腰に、刀はない。
自分も端末を取り出して確認するが、今日は朝方の一件を除いて通報はなし。そちらはすでに処理済で、新たに緊急の呼び出しを受ける気配は、ひとまず薄い。
最後の通知をもう一度見返す――『今夜は遅くなりそうだから夕飯は時雨と二人で好きに食べて』。
具体的な時間の記載はない。ただ文末に鎮座する虎の絵文字が、本来の無表情を歪めてにやりと笑っている気がした。
「……」
少女は沈黙したまま時雨の肩をつつく。
否、――黙っているのではなかった。形のいい唇を開き、咽頭を震わせても、音が出ないのだ。
原因はわかっていない。検査しても神経や声帯には異常は見つからず、心因性ではないかと言われてはいるが。
「ん、わーってるよ飯だろ。調べたけどいつもの町中華は定休だった」
「……」
「どーすっかねぇ。金は預かってるし、適当に作るより食いに行きたいよな~。蛍はなんか希望ある? 中華ダメだからそれ以外な、もうラーメンの舌になってんのに参るけど、まあオレはこのさい麺なら溜飲下げるわ」
「……」
「へ? いいけど」
声は聞こえていないけれど、時雨はちゃんと蛍の唇を読んで、こちらの言いたいことを察してくれる。もう長い付き合いだからお互い慣れていた。
「……」
「ああ、一応祓念刀持ってくか。戻るの面倒だしな」
少年少女は家を出る。見た目は小さなアパートで、門扉には『隊舎〈薫衣荘〉』の札。
二人の衣装は揃いの詰襟である。時雨は下がパンツ、蛍はスカートの違いはあれど、お互い同じ仕立ての軍帽と軍刀も身に着けて、いかにもな出で立ちだ。
職務のない時でも緊急の招請に備えるため、外出時には制服着用の定めがある。
……数十年前より、人の強い思念が怪物化するようになった。この奇怪な現象は人びとの心を恐怖と不安で満たし、ますます異形を生みやすくするばかりで、事態はゆるやかに悪化の一途を辿っている。
市民は法を超えて武装し始め、治安までもが危うくなった。
蛍と時雨は、例外にして全き正当な公権力である葬憶隊に所属する、いずれも身寄りのない孤児である。
まだ十代半ばの若年だ。ときどきは学校に行くが、任務が最優先で、もはや学業は第二の身分にすぎなくなった。
本来なら子どもに任せるべきでない、楽でも安全でもない仕事だ。対価は班長という名の保護者と、不自由のない衣食住と、わずかな特権だけ。
むろん養護施設も選べたけれど、あまり良い噂を聞かないのは今やどこも同じ。
さて、そんな二人がてくてく歩いて訪ねたのは、川向こうにある一軒のうどん屋だった。
「いらっしゃいませー、空いた席に……」
こちらを見ずにテーブルの片づけをしていた店員の声が途切れる。入ってきたのが武装した、仰々しい黒装束の二人組と気付いたからだ。
どうしてもこの服装は非日常と緊迫感をはらんでしまう。商売屋としては招きたくない客だろう。
任務じゃないよ、と言わんばかりにニコッと笑って手を振る時雨を見て、アルバイトらしい若い女性店員は明らかにほっとした顔つきになった。
蛍は少しムッとしながら、時雨の向かいに腰を下ろす。……隣だと彼が唇を読みづらいから。
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