~アダルトチルドレン~
1982年5月31日。
大阪府で生まれた。2歳の時、弟が誕生。
3歳になる前に父親の地元に引っ越し。祖母の住居にしばらく居た。
大阪で生活していた時の、うっすらと記憶に残っている、寂しい気持ち。
男の子の幼馴染がいた。毎日、近所にある公園で遊んでいた。その記憶だけは鮮明に残っていた。
帰りたいと強く思った。泣いていた。
なんとなく、自分の人生がどうなっていくか察していたのかもしれない…
4歳、2番目の弟が生まれた。しかし、弱小未熟児として生誕。
すぐに会うことも出来ず、母親もつきっきりで入院していて家にいなかった。
どういうふうに、生活しているのかは記憶に残っていない。
父親のことも、祖母のことも、自分のことも…なにもかも記憶にない。
4歳だから、当たり前のことなのだろうか?多少は覚えていてもいいような気もするが…
寂しい気持ちを抑え込むため、感情を閉じ込めていたのかもしれない。
5歳、新居が出来た。2番目の弟も退院してきて、家族が揃った。
弟はまだ小さく生まれたばかりのようで、可愛かった。すごく可愛がった。
4月、幼稚園に入園。
友達はすぐ出来た。私は、明るくて元気で誰とでも仲良くなれる人気者になった。
それは小学校でも変わらなかった。男子とも仲良く、半分冗談で取っ組み合いの喧嘩をしたりしていた。
ショートカットで、服装も男子っぽく、女子からも人気者だった。
嫌なことも多少あることはあったが、少しくらいなら平気なふりして、いつも笑顔で振るまっていた。
泣かされていた女子を助けたりしていた。私は人前で泣くことなんて全然なかった。
泣いてはいけないと思っていた。何故だか分からない。
家では、弟たちが悪さをしたら、一緒に怒られていた。一人で怒られる時もあった。
”お姉ちゃん”だから…
なんで、ちゃんと見ていなかったんだと、怒られることがあった。
家を3人で追い出されることもあった。夜まで入れてもらえず、弟二人は泣いていた。
私は、自分の状況を、よく理解できずにいた。”どうしてだろう?”ただ、それだけしか頭になかった。
家は、壮大な敷地で、祖母の家、自宅、祖祖母の家、父親の弟家族の家と並んでいた。
父親と父親の弟(叔父)は、二人とも料理人で土日祝日の休みがなかった。
そのため、父親たちが居ない中、叔父の嫁、従妹二人、母親を含めた私たち兄弟で遊びに行くことが多かった。遊園地や公園、庭園など行っていた。行く場所はいつも、叔母が決めていた記憶がある。
従妹は、私の2歳上と3歳下の女の子二人だった。
出掛けたら写真など撮っていたが、一緒に撮影することはなかった。写真が残っていなかった。
叔母は、自分の子供たちのほうが可愛く撮れていると、自慢そうにしていた記憶がある。
一緒に出掛けた時の写真撮影はすごく嫌な気持ちになっていた。
花の前で、女の子だからと、一人ずつ撮影した時があった。
従妹のお姉ちゃんが先に撮影して、叔母がポーズを決めて撮っていた。
その後、私も同じようにさせられたが、ぎこちないなど、なんか違うだの言われて笑われて見られていて、ものすごく嫌で、早く撮影してと催促して終わらせた記憶が鮮明に残っている。
なにかと、自分の子供と比べて、私たちは見下されていた。
母親にも、育児のことを言ったりとしていた。それでも、母親は、笑顔で頷きながら聞いていて、私たちが悪い、と、いうことは絶対なかった。
祖父が自分が幼稚園の時に病気になって酸素をもって生活しなくてはいけないくらいになった。
肺の病気だった。内容は詳しく覚えていないが…
祖母は、祖父を嫌っていて、悪口ばかり言っていた。祖父は婿養子だった。
病気になった祖父の面倒を見ることもなく、早く亡くなればいいのにと言っていた。
子供ながらに、なんでそんなこと言うんだろう…怖い…そう感じた。
祖父が寝たきりになり、介護は、ずっと母親が行っていた。
家事とパート、祖父の介護と行っており大変そうだった。
それでも、祖母は知らんふりをしていて、祖父が入院するまで何もしなかった。
それは、叔父の嫁もそうで、父親の妹もそうだった。ただ、父親の妹(叔母)は近くに住んでいなかったので仕方なかった。休みの日に来たときは、面倒を見ていた気がする。
祖父が入院してからは、父親の弟の嫁、祖母の妹、その娘、叔母は人が変わったように病院に通い始めた。祖母ですら病院に行くようになったのだ。
幼いながらに、あまりの変わりように疑問しか湧かなかった。
祖父は結局、自分が小学校3年の時に亡くなった。夕方の時間だった。そろそろ危ない、と連絡がきたと、皆で病院にかけつけた。
父親の妹の子供、3人居たのだが、一番上が自分と同い年の男の子で、二番目が自分の二番目の弟と一緒で、一番下が、ダウン症を患っていた7歳下の女の子だった。
祖父が息を引き取った後だった。「ご臨終です」という、病院の先生の言葉を発していた時、従妹の姉と、叔母の二番目の従弟が二人で下を向いてクスクスと笑っていた。
信じられない光景だった。それは、葬式でもそうだった。うちは神社だったのだが、神宮さんの読む言葉を、何がおかしいのか分からないが笑っていた。
普通の感覚じゃない…そう思った。人が亡くなって、しかも自分たちの祖父が亡くなって悲しいという感情がないことが信じられなかった。少し、怖いと思った。
夏休みなどに入ると、父親の妹家族が、祖母の家に泊まりに来ていた。
皆で集まると、親たちの飲み会が始まる。準備するのは母親と叔母二人の三人でやっていたが、なにかと、母親は叔母二人に難癖付けて言われている光景を目にした。
片づけになると、ほぼ母親が一人でやっていたが、食器の洗い方が悪いだの置き方が悪いだのと言われているのが聞こえていた。なんだか不快な気持ちになった。
それは、親戚一同で集まるたびにあった。正月なども集まっていたが、子供ながらに、皆で集まるのが嫌になってきた。叔母たちには、自分の子供と比べられるし、平等に見られることはなかった。
叔母二人は仲良く、自分の子どもたちの話をしていた。いとこ達と近くの川に遊びに行ったり、敷地が広かったので庭で遊んだりと仲良くはしていたが…
小学校高学年、中学校になってくると、叔母になんだかんだと、立ち振る舞いや行動や、母親の文句を聞かされたりし始めた。従妹の姉は、私を遠回しに避けている感じで、見下されていた。
なんだかんだと、私は嫌な顔一つせず話を聞いたりしていた。ただ、その後、自宅に戻って母親に言っていたりした。その時の母親の顔は、少し悲しそうに寂しそうにしていた…
母親の地元は奄美大島で、遠く、何年かに一回夏休みを使って行くという感じしかできなかった。母親の兄弟たちも、皆、離れていて会うことが中々なかった。
だが、父親の親族とは違い、大らかで面白く明るい人達ばかりだった。私は、そんな母親の叔父、叔母、従妹たちと居るのは居心地がよかった。
今思うと、顔色うかがって、話さなくてよかったからだと思う。
そんな感じで、母親もこっちにいて、相談したりする人がいなくツラかったんだと思う。
元々、お金に余裕がある家では無くて、最初は、母親の兄が失踪して車の借金の肩代わりをしていて苦しかったみたいだ。それが、父親が仕事を辞めたり、給料が少なかったりで、やりくりできなくなってきたのだろう…
おやつ、というおやつを買ってもらうことはなく、兄弟三人でジャガイモを薄切りにして、両親が居ない中土曜日の昼は、揚げ物でポテトチップスを作って食べたり、みそ汁が、乾燥いりこで出汁をとっていたので、いりこをたべたりしていた。でも、それが、苦だとは思わなかったし、楽しかった。
小学校低学年からそうやってやっていた。毎週金曜日の夜は両親がおらず、晩御飯の準備を私がしなければいけなかった。ただ、弟二人はまだ小さく暴れて遊びまわって言うことを聞かずイライラしていた。
でも、文句も言えず我慢してやっていた。
しかし楽しいこともあった。
父親が平日しか仕事が休めないので、小学校までは、平日に休んで家族で出かけたりしていた。学校を休めて遊びに行けるのが嬉しかった。
夏は、夜釣りに行ったり、カブトムシを取りに行ったり、川の下流から上流に向かってウナギを捕りにいったりとしていた。海に行って、牡蠣も捕りに行っていた。
家族だけの思い出で楽しいこともたくさんあった。
ただ、いつからか、そんな楽しい家族生活も崩れ始めた…