06 手
結局、逃げることもできずに家に帰ってきた。
いったい何をしているんだ、オレは。
「はぁ……疲れた……」
携帯と財布をテーブルに投げる。
春野はずっと、ドレスの入った紙袋を抱きかかえていた。
紙袋はすでにくしゃくしゃになっている。
「それ、着んのか?」
「着ない服なんて買いません」
「買ったのはオレなんだが」
「ありがとーございましたぁ」
「言い方が適当すぎる」
マスクで表情はわからないが、声は弾んでいるように聞こえた。
いつになく上機嫌らしい。
色々大変な目に遭ったが、まぁ。春野が嬉しそうなので良しと……、
(しねぇよ! だから同情なんてすんなよ、オレ)
女子高生相手に、おっさんは振り回されてばかりだ。
「でも、どうして二着も買ってくれたんですか?」
春野が不思議そうに訊いてくる。
オレはあの黒いドレスも一緒に買っていた。
試着はさせなかったが、偶然にもあのベージュのドレスと同じサイズだった。
「スーツは二着ぐらい買っておくもんだ」
「柳川さん、これドレスですけど……」
「いいんだよ。制服だって二着あるだろ」
そういうものですかね、と春野。
「だけどドレスなんて普段着れるものでもないだろ。ちゃんとしたの買えよ」
「ちゃんとしたの、とは?」
「部屋着とか、パジャマとか、下着とか……」
そう言ってからオレは気付いた。
春野がくすくすと笑っていることに。
「ここに置いてくれる気ですね」
「……オレの服とかドレスで過ごされても困るってことだ」
「黒い方のドレス、今すぐ着てほしいですか?」
「ちげぇっての」
オレは照れ隠しで水を飲みながらも、ベージュのドレスを着た春野を思い出した。
やっぱり、あの時の春野は、美しかった。
そしてあの時のオレは、認めたくないが——。
「柳川さんあの時、ドキドキしてましたよね?」
「ぶっ!?」
「顔に出てましたよ」
飲んでいた水が変な方向に入った。
「し、してねぇよ!」
「ほら、今だって。顔が真っ赤になってます」
「そういう春野だって、顔、赤かったじゃねぇか」
「ドキドキしてましたよ、私は」
「…………」
はっきりとそう言う春野に、オレは視線をそらした。
こいつは警察に平気で嘘を付くような女だ。信用してはならない。
「い、いいから飯食うぞ」
「さっき食べたばかりじゃないですか?」
「腹減ったんだ。食いたい時に食う」
オレは逃げるようにして冷蔵庫を漁った。
食えそうな物は少なく、奥からいつ買ったかわからない玉ねぎが出てきた。
「根、伸びに伸びてますね」
隣に立った春野は、刃物も持ってないのに、どことなく距離が近かった。
腕に抱きつかれていた時の柔らかさを思い出してしまう。
「切れば食えるだろ」
意識してたまるか、とオレは吐き捨てるように言った。
「雑ですね」
「男の料理なんてそんなもんだ」
他には賞味期限ギリギリのカレー粉が出てきた。
備蓄用のパックの白米も出てきた。
「カレーですね」
「カレーだな」
「こっちにじゃがいもありましたけど、芽、伸びに伸びてます」
「取れば食えるだろ」
「雑ですね」
「そんなもんだ」
鍋を取り出し、水を張る。
その間に、春野が包丁で野菜を切っていた。
ストン、ストンと軽やかな音。
「上手いな」
春野の包丁さばきは見事なものだった。
「やっていればこうなりますよ」
当然と言えば当然か、笑えない。
「何事も経験だな」
野菜を切り終え、鍋に投入し、火にかける。
オレたちはふたり並んで、じっと台所に立っていた。
「…………」
「…………」
会話もなく、ゆっくりと時間が流れていく。
隣にいる春野の息遣いがはっきりと聞こえる。
「なぁ、春野」
「なんですか」
「ほんとうに、人を殺したのか」
なにげなくオレは訊いた。
ぼんやりと、深い意味もなく。
「殺しました」
春野もなにげなく、そう返した。
「どうして殺したんだ」
「今日はやけに訊いてきますね」
「答えたくなかったら答えなくていい」
オレが春野を見ると、彼女は鍋の中を見つめていた。
「どうしようもなかったんです」
「解決できなかったのか」
「殺すしか方法がなくて、しかたなく、そうしました」
初めて触れた、彼女の内心。
どうしようもなかった、という言葉。
他人とのすれ違いを解決できず、そうするしかなかった結果の、殺人。
「そうか」
わからなくはない。
オレだって、上司を殴った。
話し合いで解決できず、そうするしかなかった結果の、暴力。
「柳川さんは、どうして上司を殴ったんですか」
春野がオレを見てくる。
今度はオレが鍋の中を見つめた。
ぽこぽこと浮かぶ水泡と一緒に、答えが浮かんでくる。
春野が鍋を見つめていたのは、どうやらそういうことらしい。
「お前と同じだ」
「どうしようもなかった、と」
「殴るしか方法が思い浮かばなかった」
ぐつぐつと鍋が煮え、野菜が水の中で踊りはじめる。
春野がそれ以上訊いてくることはなかった。
また会話が途切れる。重い雰囲気ではない。
「……本当にどうしようもない奴だな、オレたち」
オレが上司を殴ったこと。
春野が人を殺したこと。
程度の差はあれ——オレたちは他人を傷つけた。
その行為は当然、許されてはいけない。
それでも。
オレたちは、変えたかったのだ。
できることならば、別の手段を使って。
「……本当に、どうしようもないですね」
春野が菜箸で鍋をかき混ぜる。
じゃがいもをつまむと、ほろりと崩れた。
「私たちには罰が当たりますね」
鍋の火を止め、カレールゥを入れる。
透明の水が少しずつ、褐色に染まっていく。
「オレはクビになった。罰はもう十分受けた。春野はこれからだろ」
「……さぁ。どうでしょうね」
加害者は裁かれるべきだ——そうに決まっている。
春野に訪れる罰は、まだ来ていない。
それとも、もうすでに始まっているのか。
「できましたよ、柳川さん」
「あ、あぁ。食べようか」
春野と作ったカレーライス。
それは、オレが普段作るものよりも、はるかに美味かった。
同じ材料、同じ調味料、同じ作り方なのに、どうしてだろう?