01 後輩
平日になった。
「あぁ……」
平日になったのである。
「だりぃ……」
平日になったというのに、この有様だ。
「動きたくねェ……」
床をごろごろと転がる。
つくづく、無気力になっていっている。
社会人をドロップアウトした今、平日との付き合い方がわからなくなっていた。
朝早く起きて、身支度を整えて、会社に行く——そんな当たり前を、今ではすっかり忘れてしまっていた。
「柳川さん。さっさと起きてください」
くいくいとオレの手を引いてくるのは春野だ。
彼女はずっとマスクを付けていたが、最近は外すようになった。
それが心を開いている証拠かどうかはわからないが。
「いつまでも寝てたら、悪い大人になってしまいますよ?」
あまりにもきれいすぎる春野の顔は、困ったような表情を浮かべている。
オレは若干ドキリしながら苦笑する。
「身体が言うことを聞かないんだ」
「朝からダメな大人ですね」
「悪かったな」
てきぱきと動く春野によって、部屋はすでに片付いていた。
その上、テーブルには卵焼きと味噌汁が置かれていた。
匂いからして美味そうだ。
「一緒に食べましょうよ」
「先に食っててくれ」
「ダメです。ご飯は一緒に食べなければいけません」
「はい……」
よっと声を出して起き上がる。
オレたちは声を揃えて「いただきます」と言った。
春野の料理は、やっぱり美味い。
卵焼きは絶妙に半熟だし、味噌汁はダシが効いている。
文句のひとつもない、最高の朝食だ。
「めっちゃウメェ……」
「ふふ。そうでしょうね」
春野はもうマスクで顔を隠すことなく、オレと同じように飯を食べている。
つややかな唇が、味噌汁をすすっている。自分でも自信のある出来栄えのようだ。
それを見ていると、春野と目があった。
春野がにっこりと笑う。柔らかな笑みだった。
オレはすぐさま視線を外した。顔が熱くなるのを感じた。
(何をドキドキしてるんだ、オレは……)
春野が素顔を出してくれたのはいいが、目の前にあるとドキドキしてしまう。
女子高生だろうと、美人は美人で。
男であるオレは少なからず、春野をいい女だと思ってしまっているのだ。
オレはその気持を紛らわせるように飯を頬張った。
「うまかったよ、ごちそうさま」
「はい。朝ごはんはちゃんと食べなきゃダメですよ?」
「いつも抜いてたからなぁ」
「これからは毎日一緒に食べますからね」
食器を流し台に持っていくと、春野が洗い物をしてくれた。
てきぱきと効率的に皿を洗っていく。
その横に立つと、なんだか家族のように思えた。
「まるで家族みたいだな」
あっ、と口を閉じたが、遅かった。
じっと春野がこちらを見ていた。
「べっ、別になんとなくそう思っただけで」
「急がなくていいとは言いましたけど」
春野が洗っている箸をオレに向けてきた。
話が噛み合ってない。どうやら今のは聞こえなかったらしい。
「時間は限られてるんですからね。大事に使いましょうよ」
「お前……昨日とはえらく別人だな」
「昨日のわたしは昨日のわたし。今のわたしは、今のわたしです」
「時間は限られている、ねぇ」
考えてみる。
無職のオレが次にやるべきことは、仕事を見つけること。
そのために行くべきなのは、ハローワークだろう。
そして次の仕事が見つかるその間には、なんと「失業手当」なるものが出るらしい。
その存在を知ったのは、小林の届けてくれた荷物の中にあったメモだった。
そろそろ次の仕事を見つける時か。
「そうだな。時間を大事にしないとな」
すぐに仕事を探す必要はないが、もらえる金はもらっておこう。
こちらは養う人間がひとり増えたのだから、文句は言わせない。
「じゃあ、行ってくるわ」
服を着替え、玄関で靴を履く。
「はい、行ってらっしゃい」
春野はまだ洗い物を続けていた。
外に出ようとするオレに、目も向けなかった。
「お、おい……携帯と財布は?」
その衝撃の反応に、思わずオレは訊いた。
「何言ってるんですか? さっきポケットに入れてたじゃないですか?」
「じゃなくて……その、持ってなくていいのかよ。逃げるかもしれねぇぞ」
オレを散々脅した手口だ。
逃げないように財布やら携帯を人質に取るやり方。
しかし春野はふわりと目元を緩ませていた。
笑顔に近い表情だった。
「もう必要ありません。わたしは柳川さんを信じることにしましたから」
「信じるって……逃げてもいいのかよ」
「いいですよ。柳川さんが“それで良ければ”」
オレは絶句した。
どうやら春野は、今までと脅し方を変えたらしい。
これからは簡単に逃げることはできる。
だがオレの良心はどうだろう?
あんな約束をしたのだから、逃げられるはずもない。
物理的な脅しから精神的な脅しに。春野はより高度な脅しをかけていたのだ。
「……なんつー女子高生だ」
「がんばってくださいね。柳川さん」
春野に見送られ、オレは逃げるように家を後にした。
§
やってきたハローワーク。
だがオレは、自分が甘すぎることを知った。
「自己都合による退職のため、3ヶ月後からの支給となります」
「え?」
失業手当は会社都合であれば給付金がもらえる。
それぐらいはわかっていたのだが……問題はこの『会社都合』という文言。
どうやらオレは『自分の都合で会社を辞めた』ことになっているらしい。
「そうですか……」
まぁたしかに、クビと言われてすんなりと受け入れたのもそうだし、だいいち上司を殴ってそのままってほうがおかしい。普通なら警察行きだ。
そういう意味で、この『自己退社』というのは、会社なりの「重すぎず軽すぎない罰」なのだろう。
オレの罪に対する罰は、クビだけではないようだ。
「今日は求職活動はなさいますか?」
「……いえ、また来ます」
§
「はぁ〜……うまくいかねぇもんだなァ……」
公園の喫煙所で煙草を吸う。
このまますぐに帰れば、春野にバカにされるだろう。
「早くないですか?」とか「仕事見つかったんですか?」とか。
オレは無職だが、男だ。プライドが許さない。
「焦っても良いことねぇか。金もまだあるしな」
吸った煙草を灰皿に落とす。
金欠になればこの煙草もやめることになるだろう。
それまでに仕事が見つかればいいのだが。
「さて、どうすっか」
公園を出て時間を潰そうとすると、パン屋が目に入った。
道路までパンの香ばしい匂いが漂っている。
オレはパッとひらめいた。
『うわぁ、おいしそう! ありがとうございます、柳川さん!』
オレの脳内JKが喜ぶ姿が見えた。
家を出られない女子高生のためにも、土産は必要か。
『いらっしゃいませー』
オレはパン屋に入った。
明るい店内、パンが輝いている。
トレイとトングを持ち、ざっと回ってみる。
「あいつ、何が好きなんだろう?」
とりあえず、オレの好きなソーセージドッグとメロンパンを乗せる。
さて、春野が喜びそうなものはなんだろうか——。
どんっ。
「おっ」
「きゃっ」
夢中になるあまり、人にぶつかってしまった。
「すいません。大丈夫ですか……って」
「あーっ!?」
ぶつかった人を見て、驚いた。
その背の低い女性も驚いたようにオレを見上げていた。
「パイセンじゃないっすか! お久しぶりっす!!」
女性はオレに飛びついてきた。
「いや〜こんなところで出会うなんて、なんたる奇遇!」
「ちょっ、パン持ってんだよ! 離れろ、城戸!」
城戸は「すんませんっ!」と笑った。
オレはため息をついた。
まさかこんなところで——元会社の後輩に出会うなんて。
「ってかパイセン、なんでここにいるんすか!」
「いちゃあ悪いか?」
「無職のクセに、いいご身分っすねぇ!」
「全国の無職に謝れ!」
「すいませんっした、パイセン以外の無職のみなさま……」
「あいかわらず腹の立つ奴だな、お前」
ぺろっと舌を出す城戸。
城戸は、色々と問題のあるの後輩だった。
こいつが入社してきてから、オレは先輩として一緒に業務をこなしてきた。
「ってか、なんでそんなパン買ってんすか。誰かにあげるんすか?」
「別にいいだろ、オレが食うんだよ」
「ぷぎゃー! ひとりで食べるパンはウマいっすかぁ!?」
「ピーピーうるせぇな!!」
城戸はオレのことをまるで先輩として接してこない。
それどころか、おもちゃのように遊んでいるのだ。
仕事だろうがプライベートだろうが、この舐めた態度は同じだった。
「ま、パイセンがどうしようが、あたしには関係ないっすけどね〜」
「オレだってそうだよ。お前はもう後輩じゃないんだしな」
「あはっ、そうでした! じゃあパイセンはパイセンじゃないっすね!」
ニカっと笑う城戸。
その笑顔に、オレはどこか安心した。
先輩がいきなりクビになったというのに、こいつはあいかわらず元気そうだ。
3年目にもなって社会に慣れたのだろう。
でもぉ、と城戸。
「どうして急に仕事やめたんすか?」
そうか、こいつは知らないのだ。
こいつは我が物顔で定時退社するような奴。あの残業時間に起きた事件を見てない。
てっきり公になっていると思ったが、辞めた理由は伝えられてないらしい。
「べつに……知らなきゃいいよ」
「女っすね?」
「決めつけんな」
「あっ、その反射的な言い方! 確定っす!」
「ちげぇって言ってんだろ!」
「嘘だぁ〜、絶対女だ〜!」
「うるせぇっての!!」
城戸のわめき声に、店員同士が「仲のいいカップルですね〜」と話すのが聞こえた。
オレからすれば、子どもをあやす親の気分だ。
実際、城戸は大人のクセに子どもっぽいところがある。
「じゃ、黙るっす。パンおごってくれたら!」
「強欲すぎるだろ」
「チョココロネとツイストドーナツとベーコンピザ、女子はやっぱりクロワッサンっすね」
「まだ買うと決まってねぇよ!」
「おんな……」
こいつに出会った時点で運の尽きだ。
オレはしぶしぶ、要求された物を買った。
出費にして2500円。パンは意外と高い。
「ありがとうございましたァ〜。パンうまうまっす」
店を出るやいなや、城戸はパンを食べていた。
もにゅもにゅと小さな頬が膨らんでいる。
「そりゃよかったな」
「そういえば、こうやってパイセンに買ってもらってましたね」
「まったく遠慮してなかったけどな」
オレも買ったパンを食べた。
焼きたてのチーズパンは、芳醇な匂いがした。
「でも、さみしいっすね」
「なにがだよ」
「こうやっておごってもらうことも、もうなくなるんすから」
ぽつりと言った城戸の一言が、ちくりと胸に刺さった。
思い返せば、城戸は手のかかる後輩だった。
でも同時に、可愛い後輩だった。
憎めないし、愛嬌のある奴だったのだ。
こんなナリでも、仕事はしっかりとこなすし、言われたことはしっかりする。
城戸がめきめきと成長していくのを、陰で喜んだものだ。
「もう戻らないんすね」
「……戻らねぇよ」
城戸はオレを見た。
ニヤケ顔ではない、まっすぐな目だった。
「パイセンと一緒に仕事ができて、楽しかったっす」
オレは思った。
いい後輩を持ったな、と。
「オレもだよ。面倒な後輩だったけどな、楽しかった」
「面倒は余計っすよ」
にへへ、と城戸は歯を出して笑った。
城戸とオレはパンを食べ終えた。
「というか、お前さ」
「なんすか?」
ふと、気になったことを聞く。
「どうしてこんな時間にここにいるんだ?」
今は平日。時刻は午前11時。
会社員は会社で仕事をしている時間だ。
「あ〜、ほら! あれっすよ!」
城戸は慌てていた。
「会社のみなさんに差し入れを買っていこうと!」
「お前から差し入れをもらったことなんて、一度もなかったぞ?」
「うッ!!」
「……まさか、今までもこうしてサボってたのか?」
「あは、バレちゃったっす!」
確かに会社員時代、何度か城戸の姿がなかったことがあった。
こいつはこれまでもこうして会社を抜け出していたのか。
「そうか」
しかし、怒りはやってこなかった。
辞めたから、怒る理由もない。
「あれ? 怒らないんすか? いつも怒鳴ってたのに」
城戸も意外そうにオレを見上げる。
「退職してなかったらデコピンぐらいはしてたな」
「うわ〜なつかし、あれ体罰でしたよね?」
「優しくしただろ」
「バチ!って鳴ってたじゃないすっか! めっちゃ痛かったっすよ!」
「悪かったって」
そうして分かれ道に差し掛かった。
「じゃあ、またな」
オレがそう声を上げた時。
城戸は「パイセン」と神妙な顔つきで言った。
「やっぱり、デコピンしてください」
「あ? なんでだよ?」
城戸はすでに前髪を手で上げていた。
だって、と続ける城戸。
「今度、いつしてもらえるか、わからないっすから」
そう言う城戸に、オレは苦笑した。
オレたちは、ともに戦ってきた仲間だ。
仕事を辞めても、オレは先輩で、こいつは後輩で。
その関係性はこれからも、途切れることはない。
「わかったよ」
オレは城戸の額を指で弾いた。
「頑張れよ、城戸」
バチコン、といい音がした。
あぎゃ、と城戸が鳴いた。
「いったぁ!! なっ、なんかいつもより痛すぎませんか!?」
「わりぃ、気持ちがこもっちまった」
「う、嬉しいけど……やっぱり痛いっす……」
「ごめんな」
城戸は眉をしかめつつも、にへへと笑った。
§
「クロワッサンですか?」
春野にパンをやる。
これで仕事をシてきた感を出すわけだ。
「要らなければいいが」
「食べます」
がぶりつく春野。
わかりやすく、頬がゆるんだ。
「おいしいです」
「そうか、よかったよ」
「柳川さんにしては、いいセンスですよ」
「褒め言葉として受け取ろう」
城戸、ちゃんと役に立ったぞ。