2月16日 日常の片鱗
全身が酷い筋肉痛だ。
この一週間、毎日筋肉痛みたいなものだったけど、今日は体中の筋と言う筋が痛いように感じられる。
ちょっとでも身体を動かしたら「ピキッ」と強張ってしまうような。
もしくは「ブチッ」と切れてしまいそうな。
学校へ来るのも億劫だったけど、今日も今日とて学習塾は開校されるので、這ってでも登校するしかなかった。
二次試験を目前に、一分一秒だって無駄にはできない。
勉強だけは、三年間ずっと真面目に積み重ねて来たのだから、ちゃんと結果を残したい。
だけどやっぱり、身体は痛い。
「うぇーい。へへーい」
アヤセがさっきからずっと、私と心炉の身体を交互につついているのがこの上なくうざったい。
ただ、下手に声をあげるとお腹の筋肉に響くので、これまた耐え忍ぶほかない。
心炉も全く同じ状況のようで、引きつった顔で終始肩をプルプルと震わせていた。
「覚えとけ」
「いや、私は忘れる」
酷い会話を交わしながら、姉たちが生徒会室にやって来るのを待つ。
入校証を貰うのにどれだけ時間がかかってるんだ。
こっちは早いとこ、この仕打ちから開放されたいのに――なんて思っていると、ガチャンと扉が開いた。
談笑しながら部屋に入って来る姉と続先輩。
その後ろから、三人目の陰が姿を現す。
「えへへ……おはよ」
ユリだった。
突然のことに、私は朝の挨拶もままならずにただ彼女を見つめる。
ああ、いや、声出せないのは筋肉痛のせいだっけ。
「そこで会ったから一緒に来たよ。ユリちゃんも二次試験もうすぐだし、一緒に勉強した方がいいよね」
事情を知ってるのか知らないのか、続先輩はのんびりと語りながらユリを部屋に招き入れる。
ユリは、いくらか遠慮がちではあったものの、長テーブルの一角に腰を下ろして、鞄から勉強道具を取り出し始めた。
「約束、ちゃんと守ってくれましたね」
「うん、約束だからね」
心炉とユリとの間で交わされた会話は要領を得なかったけど、約束――と言うならきっと、昨日のことが関係してるんだろう。
仔細は知らないけど、とりあえず心炉は、ユリのことを学校に来させたかったらしい。
それは、私にとってもありがたいことだった。
これまで取り付く島も無かったところに、助け舟を出されたようなもの。
やっぱり、ちゃんとみんなで卒業したい。この四人で卒業式で写真を撮れたら、それが一番の思い出になるだろうと私は思う。
「誘ったのは良いけど、ユリちゃんはどうしよう? 星ちゃんたちと同じことやっても意味ないよね……?」
「えっと、あたしは、基本自習で大丈夫ですよ。でも、分からないとこは教えて貰えると嬉しいかも……?」
「わかった。じゃあ、何かあったらいつでも声をかけてね。私でも、明ちゃんでも、気にしなくていいから」
「はい」
ユリと続先輩との間で、朗らかな会話が交わされる。
バレンタインの日、結局二人で何を話していたのか、私は知らない。
たぶん、知らなくていいことだと思う。
本当のことを言えば、ユリのことは何でも知っておきたいところだけど……でも、私もユリ離れをしなければならない。
終わったことは過去にして、これから先の未来のために。
何でもかんでもユリが一番だった自分を、変えていかなくちゃなんだ。
それから、チャイムの音でハッとする。
気が付いたらあっという間に昼休みだ。
ひとつイベントが終わった達成感か、いい具合に集中ができている。
ある意味で吹っ切れたと言ってもいいのかもしれない。
ずっと放置していた宿題を、ようやく片付けたような気分だ。
「みんな、今日のごはんは?」
続先輩の問いに、私は痛みに障らない程度に首を振る。
「動けないから、ここで食べます」
コンビニとかに寄るのも辛いので、母親に頼んでおにぎりをふたつ握ってもらった。
お弁当なんて贅沢は言わない。
この梅干しとおかかのおにぎりふたつが、どれだけありがたいことか。
「私も持ってきてるし、今日はみんなでここで食べようか」
という先輩の鶴の一声で、今日は生徒会室でのランチタイムとなった。
みんなそれぞれ弁当なりなんなりを用意しているので、ほとんど流れるようにという形だ。
「こうしてると、在学中のこと思い出すな」
ランチボックスを広げながら、先輩がしみじみとこぼす。
「いやぁ、先輩たちの代はいろんな意味で伝説ですよ」
「怖いねぇ、それは聞いていいやつ?」
「少なくとも悪い話じゃないですから、安心してくださいよ」
お気楽トークを繰り広げる姉とアヤセは放っておいて、私はサクッと食べ終えたおにぎりの銀紙を片付けて、水筒のお茶で一息つく。
「すみません。動けたら、お茶のひとつでも淹れてさしあげたんですが」
「いいよ。心炉だって、昨日は大活躍だったわけだし。てか、鼻大丈夫?」
「はい。医者も行ってきましたが、異常はありませんでした」
「ごめんね、心炉ちゃん」
ユリが申し訳なさそうに手を合わせる。
心炉はにこやかな笑顔で返そうとしたけれど、すぐに筋肉痛で痛そうに顔をしかめた。
「ただ、勝てたのはほとんど運でしたよ。一緒に倒れたぶん、どっちが先に手がつくかわかりませんでしたし」
「それでも、心炉のほうが『勝たなきゃ』って執念があった気がするよ」
少なくとも私からはそう見えた。
私も経験したからわかるけど、相撲における執念の差ってのは結構大きい。
相手より一瞬でも残ってやるっていう、一瞬の耐えきり。
受け身を取ろうと思わず手を伸ばしてしまうところを、打撲覚悟で身を任せるだけでも、一秒そこらの滞空時間を稼げるだろう。
心炉にはそれがあった。
真っ向から誉められたのが恥ずかしかったのか、彼女はいくらかほほを赤らめながら顔をそらして――やっぱり痛そうに、眉をひそめた。
今日はきっと、互いに一日中こんな感じだろう。
それを見たユリは苦笑して、しんみりとため息をつく。
「執念の差だったら、確かにあたしの負けなのかなぁ」
「あんなに、冬場所は勝つって息巻いてたのに」
「それはちゃんと、三位に輝いたよ! 星たちのクラスの横綱に負けちゃったけど」
結局、あのリーグはユリが勝ち抜いて決勝トーナメントに進んでいたらしい。
観戦しに行けばよかったかな。
けど、昨日の私はいっぱいいっぱいだったよ。
「なんか、こういうの久しぶりだな……」
ぽつりとつぶやいた言葉は、たぶん、誰にも聞こえてないだろう。
まだまだ課題はあるけれど、望んでいた日常の片鱗が、少しだけ戻ってきたような気がしていた。




