2月12日 ゴースト
まだまだ空気が凍り付くような早朝。
私は姉の運転する車で、市内の住宅街を疾走していた。
いつの間にか免許を取っていたらしいことにも驚いたが、その(私にとっての)初ドライブがキンキンに凍ったアイスバーンの上というのが、さらに寿命を縮ませる。
安全運転は心がけてくれているし、全く危なげはないのだけど、普段運転をしていない相手に対して信頼を抱くことはできないものだ。
ちなみに、車自体は親のものである。
危険を冒してまで車が必要なのには理由がある。
遠出をするわけではないが、大荷物を運ぶ必要があったのだ。
「お願いします」
一例をして、大きな引き戸の玄関をくぐる。
外よりも一層空気が凍っているように感じるのは、暖房が無いこの空間には、夜中の氷点下の空気が籠っているからだろう。
だけどその澄んだ空気は、私たちにとってある種の神聖さすら感じさせる。
「お久しぶりです。お世話になります」
出迎えてくれた初老の男性に、深く一礼する。
真っ黒な道着に身を包んだ彼は、この道場の主だった。
大昔に通っていた町道場。
日曜の午前中である今日この日は、高校生を含む、一般の門下生の稽古日である。
小学校卒業以来だから、実に六年ぶりに足を踏み入れることになる。
ワックスでピカピカの床板に包まれた小さな体育館のような景色は、記憶の中のそれと寸分なく重なって見えた。
「あれ……おはようございます」
稽古場の端から、驚いたような声が上がる。
驚いたのは、こっちだって同じだ。まさか懐かしの道場に、穂波ちゃんの姿があるとは思わないじゃないか。
「やー、来てたんだね」
「はい。この時期は、日曜の部活がないので」
軽いノリで声をかける姉に、穂波ちゃんは一礼しながら返事をする。
私はと言えば、かける言葉も見つからずに口をぱくぱくさせることしかできなかった。
「えっと……なんでここに?」
ようやく口にできたのは、そんな当たり障りのない言葉だけ。
穂波ちゃんは、竹刀の柄に鍔を差し込みながら、やんわりと微笑んだ。
「春から、部活の無い日は通ってるんです。学校から一番近い道場なので」
「ああ、そう」
曖昧な返事をしながら、私は姉のことを見る。
もしかして知っていたのか、という抗議の眼差しだ。
姉は苦笑しながら首を横に振った。
「私だって来るのは卒業以来なんだから、知らなかったよ」
「ならいいけど」
このタイミングで目標と相まみえるなんて、タイミングが良すぎる。
どこか作為的なものも感じていたものの、どうやら本当に偶然のようだ。
竹刀の準備を終えた穂波ちゃんは、改めてじっとりと私の姿を見つめる。
「もしかして稽古に来たんですか?」
「まあ、そうだね」
「へぇ」
表情の薄い彼女のそれが、いったいどんな感情を持っているのか全くもって読み取れない。
ただ少なくとも、さっきから胃の辺りがざわざわしている私とは違って、全く脅威を感じていないことだけは理解できた。
準備を終えて、軽い準備運動としての打ち込みを経て、地稽古――互角稽古へと移る。
普段は師範や警官の門下生を相手に稽古をつけて貰うのだけど、今日は私たちというイレギュラーな参加者がいることもあって、とりあえず門下生同士で試合う形式に。
となると必然的に、穂波ちゃんとも相対することになる。
結果は、秋の二の舞だ。
「メェェェェエエエエン!!」
鋭い気合と共に、彼女の姿が視界から消える。
直後、頭を確かに打ちぬかれた感触と、視界の端を吹き抜ける一陣の風。
文句を付ける余裕もなく、一本取られたことを実感する。
地稽古は試合形式というだけであって、何本先取で終了という取り決めはない。
制限時間をいっぱいに使って、互いに力を出し尽くすだけだ。
勝敗がつかないのならいくらでも足掻けそうなものだけど、それは同時に否応なく時間いっぱい戦わなければならないということでもある。
体力と気力の差が如実に現れるというわけだ。
もうとっくに、彼女の疾さについていけていない。
脚が動かないならまだマシなくらいで、無理に動かそうとするものだから、もつれて不格好なステップを踏むことになる。
その隙に穂波ちゃんは遠慮なく打ち込んでくるものだから、自覚できているだけでも七本か八本は有効打を奪われてしまっていた。
ぜーぜーと肩で大きく息をする。
互いに一本を自覚し合ったあとの、示し合わせたような仕切り直しが唯一の休憩時間だ。
頭はとっくに空っぽである。思考を働かせるだけの酸素を脳みそに供給する余裕もない。
対する穂波ちゃんは、まだまだ余裕がありそうだ。
記憶に残るのは、インターハイ予選で倒れそうになりながら試合を終えて、負けた悔しさでわんわんと泣きじゃくっていた彼女の姿。
穂波ちゃんだって、体力が無尽蔵なわけじゃない。
ただ私が、彼女の体力を奪うほどの活躍をできていないというだけだ。
悔しいと思うことすらおこがましい。
これは剣にすべてを捧げた彼女と、サボってばかりいた私との、純然たる実力差だ。
挑んだって、勝てないことは分かり切っている。
だから勝つことが目的じゃない。先輩としての意地を見せる――いつかアヤセに言ったその言葉は、負けてもともとで頑張るという意味でもあった。
トンタタントン。
穂波ちゃんが跳ねる。
竹刀が閃く。
トントンタトン。
防ぐのがやっと。
でも、〝防ぐこと〟はできる。
トトントトン。
なぜだろう。
頭が空っぽになってみたら、彼女の動きが少しだけクリアになった。
読めるとか、そういうわけじゃなくって……見たことがある?
そりゃ大会だって観たし、一緒に稽古だってしたことがあるわけだから、当たり前の話だけど、もっと違った感覚。
彼女の動きが、別の誰かに重なって見えるような不思議な気持ち。
レースゲームでベストタイムのゴーストを相手にするのに似ているような気もした。
再び竹刀が閃く。
だけどその閃きは、ゴーストのものだった。
私の反応速度じゃ、どう足掻いても防御が間に合わないタイミング。
だけど実際の穂波ちゃんの竹刀は、それよりも幾分遅かった。
あれ、これなら――無我夢中で竹刀を振り返す。
稽古時間いっぱいの太鼓が鳴ったのは、ほとんど同時のことだった。
ぶはっと、お腹の中の熱を吐き出すように大きく息を吐く。
互いに竹刀を収めて、相手を敬うように一礼。
いいかげんに体力の限界が来ていた私は、ギブアップを宣言するように稽古場の端に引っこんで、面を外した。
握力のなくなった手に、じんわりと打突の感触が蘇る。
一本取れたわけじゃない。
だけど、今のは確かに、相打ちの感触だった。
「星先輩、突然強くなりませんでした?」
稽古が終わった後、穂波ちゃんが首を傾げながらそんなことを口にする。
「突然強くなるなんてことは、あり得ないよ」
「でも最後の一瞬だけ、私、どこに打ち込んでも一本取れないような気がしました」
そんなのは結果論だって言ってしまうのは簡単だ。
でも、あの瞬間に関しては、私も全く同じ意見だった。
たぶん、どこに打ち込まれても相打ちに持ち込めた。
それは予感というよりも、核心だった。
「先輩の意地ってやつだよ」
自分でも説明がつかないので、精一杯の含みを持たせてそう返しておくことにした。
本番は今日じゃない。
来る勝負の日に、今度こそ、僅かでも脅威を感じて貰えるように。
私にできる、精一杯の殺し文句だった。




