2月4日 カウンターアタック
「よいしょ……」
両手で抱える大きさの皮鞄を、部屋の真ん中にドンと置く。
勝手口に続く一階の納戸から引っ張り出してきた鞄は、うっすらと土っぽい埃を被っていた。
軽くぬれ雑巾で綺麗にしてから、固いチャックの口をあける。
同時に、古いカビの香りがつんと鼻先を掠めた。
慣れのせいか、嫌な臭いだとは思うけど臭いとは感じない。
昔、ユリやアヤセとお洒落なカフェでチーズパスタを食べた時、他のふたりはブルーチーズの香りに顔をしかめていたけど、私は全く平気で美味しく平らげさせてもらった。
袋に詰まった垂れ、胴、面、小手を順に取り出して、床に敷いた古新聞の上に広げる。
フリースの腕をまくって気持ち気合を入れると、桶のぬるま湯で濡らした新品の雑巾を固く絞った。
とりあえず表面を一通り。次第に内側の方へ。臭い臭いと言われる防具だけれど、基本的に拭くことでしか手入れができないのがニオイの原因のほとんどだ。
クリーニングしてくれる専門業者はあるらしいけど、学生の身分で利用する人はほとんどいない。
誰か、ご家庭で手洗いできる防具とか開発してくれたらいいのに。
私が知らないだけであるのかもしれないけど、週に一回でも気軽に丸洗いできるのなら、匂い問題はかなりのレベルで解決できると思う。
そうでなければ、強力ま消臭&除菌スプレーを月に一本消費する生活を続けるしかない。
雑巾はあっという間に汚くなるので、何度も桶の水を取り替えながら、丁寧に、丁寧に手入れをする。
カビのことも考えたらあまり湿らせない方がいいのだけれど、この乾燥した部屋の中ならすぐに乾くだろう。
拭き終えた小手の片方に、ずぼっと手を通す。
指先はミトン手袋みたいになっているので、基本的に握るか離すかの単純な動きしかできない。
でも、手のひらや指のどの部分に力を入れるのかっていうのは微妙に違うので、使い込んだ小手は一部が薄くなって簡単に穴もあく。
特に左手の小指と、右手の親指周り。
穴は、布切れでパッチワークみたいに補修してある。
見てくれが悪くても、塞がないと素肌が直にこすれて、マメができては破れて、最終的にガチガチになっちゃうから。
乙女的には、少しでも綺麗な肌を保ちたいものである。
一時間までは掛からないくらいで、一通りの手入れを終える。
それなりにやり切った充足感と共に、窓際の床に綺麗にした防具を並べて置いた。
次は竹刀。
弓の弦みたいに張った紐を、先の細いラジオペンチを使って丁寧に解いて、皮の留め具たちを外していく。
持ち手となる柄革もずるっと引き抜くと、竹刀を構成する四本の竹板がばらばらと分解できた。
目立つささくれは無いので、表面を磨く程度にやすりで磨いていく。
手元から剣先へ。
手元から剣先へ。
一部だけ熱を入れてしまうと、ぼこっと窪んだ歪な仕上がりになってしまうので、できるだけ全体を等間隔で削るのがコツ。
ただ、二本目くらいまでは持つ集中力も、三本目四本目となると薄れてきてしまう。
人間だもの。
もっとも考えようで、傷みやすい打面の竹板を最初にやって、ほとんど痛まない峰側を最後にすればいい。
時間が無い時なんかは打面と峰の竹板をそっくり入れ替えて、それで手入れ完了とする時もある。
練習中にささくれてしまった時なんかに有効だ。
それを見越して、予備の竹刀をもう一本用意しておくのが普通だけれど。
削り終わったら、乾いた布巾にしみ込ませた油で幕を張って仕上げる。
専用の竹刀油や胡桃油を使うのがメジャーだけど、ぶっちゃけ植物性油なら何でもいい。
小さい頃は、道場のお爺ちゃん先生に教えてもらった蝋燭でこする方法を使っていたけど、蝋が防具について汚れやすいってのを知ってから控えるようになった。
今はというと、高校で頑張ってた姉のために用意してあった専用油があるので、それを拝借した。
渋がちょっぴり香るけど、程よく落ち着いた色合いになって良い。
「よし、できた」
油を塗り終えて、出来栄えを満足げに眺める。
久しぶりの作業ということもあり、四本とも最後まで集中して作業ができた。
再び刀の形に組み上げるのは、沁み込んだ油が馴染んでからだ。
防具の隣の壁に立てかけて、明日まではそのままにしておくことにする。
作業が全部終わったころには、部屋の中がカビと渋の匂いでひどいことになっていた。
窓を開けて、寒空の下で換気を行う。
いつもなら寒さで気が滅入るものだけど、今日はすっきりとした青空に、清々しさすら感じる。
たぶん、ひと仕事終えたあとの達成感によるものだろう。
灰色の雲の切れ間から、かすかに青空がのぞく。
冬の空は遠いなぁなんてセンチな気持ちになったりもする。
予報じゃ明日からまた雪だ。
今日、手入れをしておかないと、明日寒さに震えながら換気をする羽目になっただろう。
「星ちゃん――わっ、窓開けてるの?」
部屋にやって来た母親が、窓から吹き込んだ風にさらされて小さく身震いする。
「換気だよ」
「ああ、そうね。ウイルスとか怖いものね」
彼女が言ってるのはインフルエンザとかのことなんだろうけど、今まさしくこの部屋を汚染しているのはカビ菌だろう。
カビはカビで、肺とかにあんまり良くないから注意が必要だけど。
「お姉ちゃん、月曜日に帰って来るって。星ちゃんは学校?」
「うん。行くつもりだよ」
「じゃあ帰ってからご飯食べに行こうかしら。ああ、でも、お勉強あるしお寿司とか取った方が――」
予定をブツブツ呟きながら母親は階段を下りて行く。
私も流石に窓を閉めて、代わりに空気清浄機を最強に設定した。
あとでフィルター掃除して除菌した方良いかな……部屋の掃除もしたいし、明日の息抜きがこれで決まった。
換気と一緒に気持ちも入れ替えて、私はスマホで姉とのトークルームを開く。
その最新のメッセージに書かれていた『やっておくことリスト』を見ながら、小さなため息をつく。
我が姉ながら、えげつない量だ。
だけど実際、去年の今ごろに彼女は、これと似たようなことを当たり前のような顔でこなしていたと思う。
二次試験まであと三週間。仮面浪人をする気がないのなら、今が命の削りどころだ。
やってやる。
カラ元気でもなんでもモチベーションを無理矢理維持して、目にもの見せてやる。
これは私自身への逆襲だ。




