第九十六話 遠ざかれる背中 (アイフォード視点)
「どうしたのこんなところで?」
そう告げるマーシェルの目には探るような色が浮かんでいる。
しかし、それに反応する気力さえ俺にはなかった。
「……何でもない」
その俺の反応に、無言でマーシェルは顔を逸らす。
しかし、その内心俺は激情を押さえるのに必死だった。
今の状況がマーシェルの責任でないことを俺は理解していた。
マーシェルは偏に俺を心配し、助けるために行動を起こしてくれたのだと。
悪いのは、あの時情けなくも泣いた自分で、それ以外を責めるのは愚かな行為だと。
それでも、俺の胸はある思いをずっと叫んでいた。
……こんなこと、俺は望んでいなかったと。
ようやく守りたいものを見つけたのに、それを犠牲にして助かるなど、そんなこと俺は望んでもいなかった。
マーシェルが俺を心配してくれるように、俺もまたマーシェルのことを思っていた。
何をしても守りたいと思った人間が、マーシェルだった。
いつか、マーシェルを全てから解放できるのなら、そのための力を手にできるなら、俺は怖気がする侯爵家当主という立場さえ、耐えられると思った。
マーシェルは俺にとってそれだけを差し出せるだけの、初めてできた愛する人だった。
だからこそ。
だからこそ、その時の俺は思わずにはいられなかったのだ。
……なぜ俺は、愛する人を犠牲に逃げようとしている、と。
その時の俺には、そのやり場のない感情を必死に押さえ込むだけで限界だった。
けれど、その時俺は気づくべきだったのだ。
「そ、そう? そういえば、私聞いたよ! アイフォード、騎士になるんだってね」
──そんな自分以上の覚悟を決めて、マーシェルは俺を助けてくれたことを。
俺へと笑顔で話しかけるマーシェルの肩は震えていた。
そう、マーシェルのこの屋敷での扱いは仮にも当主候補である俺よりも遙かに悪かった。
全ては、婚約者たるクリスがマーシェルのことを冷遇しているが故に。
そんな状況でありながら、マーシェルは唯一の味方と言っていい俺を救おうとしたのだ。
「少し違うかもしれないけど、おめでとう! アイフォードならきっとすてきで強い騎士様になるよ!」
「……っ!」
そこにはどれだけの覚悟が必要だったのか、誰でも容易に想像できるはずだった。
マーシェルはそれだけの犠牲を払って、それでも俺を助けてくれたのだと。
その全てを笑顔で覆い隠して、マーシェルは俺を祝っているのだと。
今までの俺なら、そのことに気づけただろう。
ずっと隣にいて、一番早くにお互いの変化に気づくのが俺とマーシェルの関係だったのだから。
「………言った?」
「え? アイフォード?」
なのに、その時。
「誰がこんなこと言った? 俺がいつこんなことを望んだ! ふざけるな、俺は! ……っあ」
──俺がマーシェルの様子に気づいたのは、致命的な言葉を告げた後だった。
「……え?」
俺の前に立つマーシェルの顔に、もう笑みはなかった。
土気色のマーシェルの顔に浮かぶのは、絶望。
「わた、しは。ただ……」
それを見て、俺はようやく気づく。
自分のために、マーシェルがどれだけのものを犠牲にしたか。
それだけの物を否定してもなお、俺を助けることにどれだけの覚悟がいったか。
そして、それほどまでの犠牲と覚悟を上回るマーシェルの俺への思い。
……俺はその全てを否定し、踏みにじる言葉を口にしたのだと。
とっさに俺は口を開く。
けれど、言葉がその口から出ることはなかった。
何か言わなければならないという焦燥感だけが俺の胸の中に募っていく。
その間に、俺に与えられた最後の挽回の時は過ぎ去り、消えた。
「……ごめん、なさい」
その言葉を最後に、マーシェルは俺に背を向けて走り出した。
頭はその背を追おうと思うが、身体は指一本さえ動かすことができない。
その間に、マーシェルの姿が俺の視界から消える。
……それが、侯爵家次期当主候補として俺がいた時で、マーシェルの姿を見た最後の時だった。




