第八十六話 そして知ったのは
次から次へと流れる涙をそのままに私は壁を、その先にいるはずのアイフォードを見る。
彼の姿が私に見えることはない。
だが、見えなくても私は強くアイフォードの存在を感じることができた。
「これだけでお前の性根が治るだなんて思ってない。だが、次マーシェルに手を出そうとするなら、俺の覚悟は知っておけ」
「っ! ま、待て!」
「黙れよ。もう全てが遅いんだよ」
クリスの言葉を途中で阻み、アイフォードは続ける。
「お前はもう既に、取り返しのつかない程にマーシェルを追い詰めたんだから」
その言葉に、私は嗚咽を堪えるのに必死だった。
アイフォードの言葉にこもったクリスへの怒り。
それを感じながら、ようやく私は気づく。
アイフォードは私を恨んでなんかいない。
それどころか、私を受け入れたのは私に情けを感じたからでさえなくて。
ずっと、ずっと、アイフォードは私のことを見守ってくれていたのだと。
クリスに契約を切られたその瞬間から。
いや、そのずっと前からアイフォードは私のことを守ろうとしてくれていたのだと。
「……私は。私は侯爵家当主だぞ!」
枯れた声で、それでも怒気を露わにクリスが叫んだのはその時だった。
「知ってるよ。俺は全部理解して、その上でお前に言ってるんだよ!」
「……っ!」
「例え俺が準男爵という立場を奪われようが、命を取られようが、それでも関係ない、とな。マーシェルに手を出すなら命をかけた俺を相手にする覚悟でやれ」
私の頭の中に、かつてウルガに向けてアイフォードが告げた理由がないという言葉がよぎる。
私だって、侯爵家を敵に回すほどの人間じゃないのだ。
私にかつての権限はなく、ウルガ一人の暴走さえ手間取る始末。
それが分からないわけがないのに、クリスに向けてそう宣言したアイフォードの言葉には少しの乱れも存在しなかった。
そのことに気づいた時、私は自分の内にある一つの思いを抑えきれなくなっていた。
アイフォードは、そんな私にとどめを刺すように告げる。
「覚えておけ、クリス。あいつは、マーシェルは。──幸せになるべき人間なんだよ」
その断言した口調に込められていたのは、固い決意だった。
なにが何でもそれを達成して見せるという。
「だから、それを阻む奴は誰であろうが許さない。絶対に覚えておけ」
その言葉を最後に、沈黙が客室の中を覆った。
その光景を私は見ることはできない。
……ただ、確認するまでもなく、もう会話が終わったことに私は気づいていた。
そんな私の想像を肯定するように硬質な足音が響く。
ここから遠ざかっていく足音が。
そして、呆然と一人の人間がその場に崩れ落ちるような音が客室に響いたのは、その足音が聞こえなくなってからのことだった。
そんな音を聞いた後、私は自分の胸もとへと手をやる。
……そこには、痛いほど高鳴る心臓が存在していた。
暗闇の中、存在感を主張するその鼓動を感じながら、私は思う。
ずっと、ずっと私はそれから目を背けてきた。
そんな思いなど許されないと。
けれど、もう無理だった。
私は目を逸らすのが無理なくらい主張するその思いを感じながら呟く。
「……私はアイフォードが」
──それこそが私の、初めて恋を知った日だった。
次回からアイフォード視点、諸々の情報を出していく感じになると思います。
長々とお待たせしてしまい申し訳ありませんでした!




