第八十三話 躊躇なく
どうして?
涙に濡れた顔を上げ、私は壁の向こうに居るはずのアイフォードの方へと目を向ける。
なぜ?アイフォードの行動の理由が私には理解できなかった。
頭の中には、ウルガを躊躇もせずに差し出したアイフォードの姿がある。
どうして私をアイフォードが庇っているのか、私にはまるで状況が分からない。
そんな呆然とする私と同じく、クリスもまた衝撃を隠せていなかった。
「う、嘘だ! 公爵家だと?」
「そうだな。相手が公爵家であることもあって、確定するまでは調べられていない」
そんなクリスに対する、アイフォードの口調は一切変わることはなかった。
「だが、お前が一番分かっているだろう? あの公爵家が特例で執事にも引けを取らない権限を与えた侍女。……そんな人間、マーシェル以外考えられないことを」
「……っ!」
その言葉を聞きながら、私は思う。
……まさか、公爵家まで利用してクリスをだまそうとするとは、と。
また、こんなピンポイントでそんな人間が公爵家に入りはしないだろう。
だとしたら、公爵家当主までが偽造しているとしか考えられない。
そして、そんな偽造をクリスに見抜くことはできなかった。
「くそ! あの男、ここでも私の邪魔をしよって!」
怒りを隠さず、クリスはそうわめき散らす。
それを聞きながら、私は呆然と思う。
……もしかして、私はこの場所にまだ居られるのか、と。
まだ、どうしてこの状況でアイフォードが私を庇ってくれたのかも分からない。
私を庇うことにどんな意味があるのかも。
けれど、私はまだこの屋敷にいられる。
そのことが、徐々に私の胸の中に喜びとして湧き出してきて。
なりふり構わないクリスの声が響いたのはその時だった。
「頼む、アイフォード! 私に協力してくれ!」
その瞬間、私は想像もしない事態に固まることとなった。
今まで、クリスがこんな私に執着したことはなかった。
だから私は、ある程度無理だと判断したらクリスは去るものだと考えていた。
故に、私は現在のクリスの態度に違和感を感じずにはいられない。
「このままでは侯爵家に待っているのは破滅だけだ! 頼む、手を貸してくれ! もう、私にはマーシェルを軽視するつもりもない!」
かつて切望していたはずの、その言葉。
しかし、それを聞いても私の心に生まれるのは嫌悪感だけだった。
また、私の中の嫌な予感がさらに増していく。
なぜ、アイフォードが私を庇ってくれるのか分からない。
それでも、何らかのメリットを見ているからアイフォードは私を庇ってくれている。
……だが、このままでは私を庇うメリットを、差し出すメリットの方が上回るではないか?
「頼む! なんでもする。侯爵家当主としてどんな話でも聞くことを誓う! だからマーシェルを取り戻す協力をしてくれ!」
そして、致命的な一言が発せられたのはその時だった。
心臓が凍り付いたような錯覚の中、私は呆然と思う。
最悪の状況が起きてしまったと。
侯爵家は確かにかつての力を失っている。
しかし、私は知っていた。
アイフォードなら、そんな侯爵家でも利用することができると。
……そして、そんな権利があるなら、アイフォードが私を選ぶわけがないことを。
「なに勝手を言ってる? だれがそんな話きくかよ」
──そのはずなのに、そう告げたアイフォードの口調には一切の躊躇いも存在しなかった。




