第七十九話 そこに立っていたのは
「……え?」
まるで想像もしていないその音に、私は思わずそんな声を上げていた。
使用人用の裏口を使う人間は、私とネリアだけ。
そしてその二人とも、この屋敷にいるのだ。
メイリもいた頃は使っていた。
しかし、まだ用があって戻れないと手紙で書かれていて、まだ戻るわけがないのだ。
つまり、この屋敷の人間が戻ってきた訳ではなくて。
「どこかの貴族の使用人が、先触れで来たとか?」
そこまで考えて、私はそう呟く。
準男爵という身分を考えれば、訪問の先触れなどなくてもおかしくはないだろう。
しかし、アイフォードは騎士団長になるだけの活躍をしていたのだ。
事前の許可を取る貴族がいてもおかしくはない。
そう考え、私はふと気づく。
「……そういえば、ネリアは今お風呂を掃除していたわね」
そう言って、私は今掃除中のネリアの姿を思い浮かべる。
あの姿を考えれば、少しの間着替えの準備をしなければならないだろう。
もちろん、前触れが来ている以上、アイフォードもすぐにネリアに連絡を入れるはずだ。
だが、そのネリアの準備が整うまでに貴族がやってくる可能性もゼロではない。
「念のため、ネリアが来るまで私がここにいましょうか」
そう呟いた私は、それとなく表玄関が見える二階の場所へと移動する。
ちょうど玄関から柱の陰となっているその場所は、ネリアがよく通る通路も見える場所だった。
ここで待っていれば、来客の貴族かネリアのどちらかがすぐに姿を現すだろう。
そう考えた私は、そのまま時間をつぶすことを決める。
しかし、それから私はその決断を後悔することになった。
「……遅いわね」
それから十数分はたっただろうか。
私は、柱の陰でうんざりとそう言葉を漏らす。
あれから私はここで待機していたのだが、貴族もネリアも姿を現すことはなかった。
貴族はともかく、普段ネリアがこんなに準備に手間取ることなどありはしない。
それを知るが故に、自分の勘違いだとそう判断した私は、少し顔を赤くして呟く。
「こんな姿、誰にも見られなくてよかったわね……」
おそらく裏口を開けたのは、重要な手紙か何かをアイフォードに渡しにきた人間だろう。
使者は普段玄関を使うが、秘密裏の手紙なら裏口を使う人間もゼロではない。
そう考えた、私はその場を離れようとして。
「……っ!」
外から、馬車の音が響いてきたのはその時だった。
それは間違いなく、貴族の来訪を告げるもので、私は内心焦る。
まさか、あのネリアが遅れた?
いや、こんな状況でそんなこと……。
そう思いながらも、私はいざという時はすぐに出ていけるよう神経を玄関に集中する。
その甲斐あり、私は扉の向こう貴族らしき男が怒鳴っているのに気づく。
「……けるな! どれだけ……に手間取るつもりだ! 私が、ここに来ると言ってから、どれだけ時間がたったと思っている!」
それは、玄関を通していることもあって、酷く聞き取りにくい声だった。
だから、私はさらに意識を集中させて。
「帰ったら、覚えておけ!」
私はふと、あることに気づくことになった。
「え?」
まるで想像もしていなかったことに、私の顔が固まる。
しかし、私は必死で内心否定する。
そんなことがある訳ない。
あの人間がこの場所に来るはずがない。
……だから、この声が聞き覚えがあるように感じるのは気のせいなのだと。
そう思いながら、私は必死に祈る。
どうか、別の人間であることを。
その私の祈りは、次の瞬間開け放たれた扉の前に崩れ去ることとなった。
「……嘘」
許可もなく、強引に扉を開け放ったその人物は、それは私のよく知る人物だった。
「どう、して? ──どうしてここにクリスが?」
そこにいたのは、現侯爵家当主にして、私の元夫の姿があった……。




