狼商人は灸を据える1
▼対応するお話はこちら。「鹿騎士は背を預かる」
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ヴォルフが目を覚ました時、隣にアリアナの姿は無かった。
なぜなら彼女は昨晩、大事な『お友達』のために、この部屋を留守にしてしまったからだ。
「は――………」
ヴォルフはため息とも深呼吸とも取れる声を上げ、ゆっくりと身体を起こした。
別に、アリアナが平日の朝、隣に居てくれないのはいつものことなのだ。だって、彼女の方が圧倒的に出勤時間が早い。就業開始の時刻が、ではなく、単に早く出勤するのだ。──「朝礼が始まる前に、支部の敷地内をランニングするんだ!」とか言って。
一体どんな体力をしているんだか。その後、仕事でも訓練するはずなのに。
「…………」
だから、別に良い。…………はずだ。
……なのに、恋人の跡形すら感じられないベッドに鬱憤を感じて、ヴォルフは珍しくそこからサッと抜け出した。
寝室から降りて1階のダイニングに入る。テーブルにはいつも通り、籠が置いてあった。その中にはバゲットやらなんやらが詰められているのだ。
「…とりあえず何か胃に入れておくか…」とヴォルフはテーブルへ近づく───すると、そこにはメモが置かれていた。
──「おはようヴォルフ!今日の朝御飯はサンドイッチだよ!」。
「…………」
冷蔵庫を開けてみると、そこには確かに三角のサンドイッチが皿に盛られていて。
「…………」
ヴォルフはそれを取り出し扉を閉めると、誰も見ていないのを良いことに、その場で立ち食いをした。
もそもそ…と咀嚼すると、舌に痛みを感じる。
───いや、これは「辛み」か。
「…………」
どうやら、アリアナは自分をほっぽって傷心中の『お友達』を優先した挙げ句、朝は仲良くサンドイッチを手作りしたらしい……。何にでも香辛料を掛けるのは、アハルティカの出身地で好まれる味付け方法だった。
「………………………………」
ヴォルフはサンドイッチなんて、作ったことがない。
自分がつい先日、アリアナに優しく教えてもらいながらマスターしたのは、ベーコンエッグだった。
「………………………………。」
サンドイッチの中身は、しゃきしゃきの葉野菜と瑞々しいトマト、それからふわふわのスクランブルエッグに、辛いソースが掛けられたベーコン。
──かあっと熱くなる舌に構わず、ヴォルフはサンドイッチを全て口に押し込んだ。
◇◇◇
ヴォルフが出社して、目指すは最上階の商会長室。
階段を上っていき、その途中でヴォルフは事務所を覗き見た。
そのロビーはマーケティング部とブランディング部が、通路を挟んで向かいにあるのだ。
マーケティング部を見ると、髪を下ろし少しだけ目の下にクマを作ったレイバンが、自分のデスクに腰掛けていた。
やや気だるげなその様子を察するに、昨晩はあまり眠れていないのだろう。
ブランディング部を見る。
…そこに、アハルティカの姿はなかった。
「…………はあ」
恐らく、アリアナの出勤と同時に出て、そこからどこかで時間を潰しているのだ………。それは、いつものアハルティカとは違っていた。
「レイバンと喧嘩した日」のアハルティカは、決まってうんと早く会社に着いておくのだ。だから、別邸から一緒に通勤して来ないだけで、傍目にも「ああ、昨日喧嘩したんだな」と分かる。
そして、「私、今不機嫌なんだけど???」と言わんばかりの態度で、レイバンを待ち受けているのがデフォルト。───なのだが。
「ぁ……、……………ヴォルフ」
「…………よぉ、アハルティカ?」
後ろから声が掛かり、振り返る。
そこには、アハルティカがいた。どこかの喫茶店でテイクアウトしたのだろう。飲み物が入った紙コップを持っている…。未だに少し腫れぼったく見える目元が痛々しかった。しゅんとした態度の彼女に、声を掛けると。
「っアハルティカ!」
「………!」
敏感に廊下の様子を感じ取ったらしいレイバンが、こちらに気付いた。
「お前、昨日はどこに──いや、そうじゃなくて。その…」
「…っ……、」
アハルティカが、手にしたコップを少しへこませる。そして、ふいっとレイバンを躱し、その横を通り過ぎようとした。レイバンが絶望した顔でそれを見つめる。
「─────おい。」
「「!!」」
もう、見ていられなかった。
(…これじゃマジみたいだ)
ヴォルフは、珍しい喧嘩の仕方をする2人を、低い声で呼び止める。変に長引くか───最悪の結末を迎えてもおかしく無さそうな雰囲気。それが、全く面白くなかった。
この2人には、相応の蹴りを着けてもらわねばならないのだが………どうもそのことを、よく理解していないようである。
「レイバン。アハルティカ。───お前たちに伝えたいことがある」
「「………」」
「各自至急の案件が無いかチェックした後、商会長室に来るように」
「いいな?」と念押しすると、2人はこちらを見て恐々と頷いた。
「………ヴォルフ」
「入れ」
「……失礼します」
「……」
執務机の椅子に腰掛けたヴォルフが、扉へ目をやり入室の許可を出す。やって来た2人は酷く気まずそうに、商会長室へ足を踏み入れた。一緒に来たはずなのに、よそよそしい距離感が醸し出されている。
先に口を開いたのは、アハルティカだった。
「……何か、マーケティングとの共同企画??だったら悪いんだけど、皆とあなたとで会議室を───、」
「違う。」
「「……!」」
「扉を閉めろ」
指示を聞き、レイバンがサッとドアを閉じる。
ヴォルフはふう……と一息ついて、前髪をかき上げた。
「まあ、そう固くなるなよ?今からするのは、仕事中に話すようなことじゃない、極プライベートなことなんだ………。
だけどお前らの『友人』として、今言っとかなきゃいけないと思ってな」
「「………」」
ヴォルフはニッコリ笑う。2人が同時にゴクリ、と唾を飲んだのが分かった。
「お前ら、俺の家出禁な」
「「───えっ!?!?」」
「少なくとも、俺が居るときは」
恐らく、「仕事に支障が出るような大喧嘩は控えろ」とか「ガキみたいに衝突し合うのはやめろ」とか。
そういうことを言われると思っていたであろう2人が、素っ頓狂な声を上げる。迫真の驚き具合だ。
ヴォルフはそれが気に入らず、苛々を募らせた。
「何だよその顔??『出禁の意味が分からない』ってか?はは…、……あ゛~~~……」
唸りを上げた後、眉を下げて2人を睨み上げた。
「…そりゃお前らは良いだろうさ。
ふらっと立ち寄るだけで、リアから『恋人』に向かうのと同等の熱量で大事にして貰える……そうだったろ??アハルティカ」
「………」
問うと、アハルティカの顔が青ざめる。その隣のレイバンは、もはや真っ白だった。どうやら、言いたいことが分かったようである。
「だが───じゃあ『恋人』は??どうしたらいい?」
………2人に尋ねたところで、答えは返ってこない。
「俺がリアの『特別』になれるのは、あの家で2人っきりの時だけなんだぞ!」
ヴォルフは吼えた。
自分がアリアナから『特別』だと想われているのは間違いない………。
だが、彼女は周りと明確な差を作って、自分だけを「特別扱い」してくれる訳ではないのだ。アリアナからは、いわゆる「行動での差別化」が生まれてこないのである。
「別にリアのそう言うところを今更どうこうしようって気はない────それも含めて、『彼女がいい』と思ったから捕まえたんだ………。
でも、普通に考えてヤバいだろ。お前らのいざこざに巻き込まれて、その時間まで削り取られて行くのは」
ヴォルフがそう言って頭を抱えた。けれど、それは一瞬のこと。
「『とんだ束縛男だ』と笑うか??はっ!……違うね。
俺は、俺が掴んだ権利を使って!───当然の幸せを享受してるだけだ!」
「だって正真正銘、『恋人』なんだからな。俺は」とヴォルフが凄む。
「『心が狭い』とは言わせないぞ……俺の気持ちが、お前らに分かんのか??あ???」
「言わせない」と言うより、言葉が出てこないらしいレイバンとアハルティカ。構わずに、ヴォルフは続けた。
「…いいや、分からないだろうな?お互いを『特別』扱いしすぎるせいで、ぶつかりまくってるお前らには」
そう締め括る。2人はようやっと口を開いた。
「「……………。………すみません、ボス」」
「謝る相手は俺か??違うだろう。…まあ、お前らが喧嘩相手に俺を加えたいってんなら話は別だが」
「「………」」
歯を剥き出し毛を逆立てた後。ヴォルフはふ――……とため息をついた。
自分にこれだけの辛酸を舐めさせておいて。
アリアナの手を煩わせておいて。
(───まさか、『仲直りできない』なんて馬鹿なこと、抜かすつもりじゃないよな??)
「お前らにだって、事情があるんだろう。それぞれにな。
俺だって『今はまだ解決出来ないこと』に、無理矢理結論を出せと言ってる訳じゃない───けれど、『区切り』は必要だ。そうだろ?」
「「……はい……」」
諭すように言うと、2人は頷いた。さながら校長室に呼び出された学生だ。罰は外禁じゃなく出禁だが。
「分かったなら早急にどうにかしろ。話は以上だ」
「「……………」」
「返事は」
「「イエス、ボス…」」
返事が得られたヴォルフは、目線だけで1つ頷き、退出を許した。
◇◇◇
「…悪かったわ」
「!!」
商会長室を出て、アハルティカは言う。仰天したようにレイバンがこちらを見た。
「あ、いや……アハルティカ。昨日はその、俺、が……」
「…………」
珍しくしどろもどろの恋人に、アハルティカは指を突きつける。
「勘違いしないで」
「えっ?」
弾かれたように、レイバンが顔を上げる。セクシーな分厚い唇が、動揺に震えていた。
「私はね、結婚のことで悪いこと言ったとは微塵も思ってないわ。…どうやらあんたとは、その点で馬が合わなくなっちゃったみたいね」
「………」
アハルティカは差していた指をそのままレイバンの逞しい胸筋にずん、と突き立てる。彼はよろめきもしなかった。憎たらしい。
「でも別に、それで嫌いになったり別れたりなんて、絶対しないわよ!」
「……!ティンク、」
レイバンが名を呼び、こちらの手を取ろうとした。アハルティカはサッと身を離すと、ぎこちのない笑みを浮かべる。
「アリーが………『嘘で傷付けちゃだめ』って。そう言ったの。だから今改めて、私の気持ちを話しただけ。そうしたからって何かが変わるわけでもないけど………『今はそれでも良い』って、思うから」
「………」
「それくらい、あなたが好きよ。イブ」
レイバンが何かを言おうした。
アハルティカはそれを聞かずに、軽く彼の頬を叩く。
「けど今日はヒドイ顔!手洗いで冷やしてきなさい。……私もそうするから」
「じゃあね」と言って、アハルティカはくるりと踵を返し、豊かな黒髪を靡かせながら颯爽と歩き去った。
ツカツカとなる靴音は、出勤の時より軽やかだ。それはまるで、リズムに合わせてステップを踏むかのようだった。