たまにお手玉
文章を書き始めたのが30代の後半だったことは、幸福なことだし、一方で間違いなく不幸なことでもあった。10代ならもっとたくさんの何かを書けただろうし、でも見切りもはやくつけていたことだろう。
20代なら少しだけ書いて、それから本を読むことすらきっぱりとやめてしまっていたはずだ。
今だったら? やっぱりすぐに何も書けなくなっていたと思う。体調がすこぶる悪くて、しかも肥え過ぎた美意識が、僕に当たりさわりのない話を書くことを、許さないのだ。
美の才能など、僕のどこにも内在しないのに。
30代の後半。
とあることをきっかけに文章を書き始めた僕は、まずは異国の話を書いた。
救いのない慣習、文化に翻弄される若者たちの話だった。
仕事から戻って、コーヒーに生クリームを垂らしながら、スマホに文字を打っていた。
それは3日で書き上がり、その週の末に徹夜をしてまた1作を書いた。
小人の少女と恋愛をする青年の話だった。この話は悲恋に終わり、僕はラストを書きながら泣いた。
意識の内側に、そんな柔らかく力強い感情が眠っていたことに、当時の僕はとてもびっくりしたものだ。
家族にこのことを話すと、呆れた顔をされ、
「そんなことで泣けるなんて、幸せだね」
とつぶやかれた。
暗示の羅針盤。
あらゆる物事というのは、一定の方向性をもって流れていく。
僕の号泣と、号泣という事実に呆れた家族という組み合わせは、その後もずっと、大なり小なり、または多かれ少なかれ、表現という行為にもれなく当てはまっていくことになる。
2作目を書いてから、僕は3作目に取り掛かった。それは1年かけて書いた。
我が子を殺害した妻と、その妻を殺した夫の話だった。
書きながら僕は、自分がどういうものが好きなのか、嗜好の全体像のようなものが見えてきた気がした。
主人公はとても強い。能力があり、しかし強烈な劣等感を抱えている。
たくさんの人物と交流し、絆が生まれ、運命がそれを破壊していく。
ドミノを高速で並べて、破壊していくような、そんなストーリーラインだ。
書き上がったものを眺めて、さあ次を、と思った時、僕はもっと広い場所を目指したくなった。
だから、活動の場所をブログから小説家になろうに移した。デバイスもパソコンに変わった。
そして、3か月ほどかけて、非合法組織の超人の少女と、運び屋の話を書いた。
この前後で、僕は1人の作家さんの作品を読み、衝撃を受けた。
この人は有名な賞を獲得している。が、文体はとても特殊で、ひたすら流れるようだ。
切れ目といえる切れ目がない。
思考の奔流。僕みたいだ、と思った。持病が悪化するまでの僕の頭の中には、いつも言葉や文章が渦を巻いていた。それは断片的だったり、ある程度のまとまりや物語性をもっていたりと様々だったが、学生時代にそんなことを話すと馬鹿にされたし、社会人なったら尚更だった。
だからだろう。流れるように切れ目のない思考を文章にしてもいい。文章を編み、時系列を重ねて、抒情を綴っても良い。ある種の自由を、表現を啓示されたような気がした。
だから、僕は次の話を、その作家さんの文体を真似して書き始めた。
結果として、不完全ながらも完結までに数年間かかったこの話は、当初、人の目にとまることがとても少なかった。
それでもわずかながらでも読んでくれる人はいたし、だからその人たちのために、僕は少しでも良い文章を書きたいと思った。
そうして、巨大掲示板のトピックを探した。
掲載されている話のアドレスを載せると、アクセスが一時的に、爆発的に増えて、それから掲示板に酷評の嵐がきた。読むに堪えない文章だと。
僕は打ちのめされ、書くことを1か月ほどやめた。敗北感。
どうやら、文体というのは真似しては駄目らしい。イメージや言葉が渦巻いている人があまりいないのは知っていたけれど、この感覚を加工しないで文章として出しても、それは見知らぬ人にしたら、ただの意味不明な記号の羅列に過ぎないらしい。
必要なのは加工だ。丁寧で正確な文章の切り方。
肉屋が肉を売り物にするには、赤色の塊に走る白い筋に切れ目をどう入れれば商品になるのかを知らねばならない。豚や牛や羊の鳴き声は必要ない。強調されるのは、デフォルメされたキャラクターのイメージ。演出とプレゼンテーション。
僕は巨大掲示板で交流するようになった人たちの意見を聴きながら、次のメソッドを組み立てていった。この作業には希望があった。
句読点、文章作法、心理、情景の描写に説明文。構成、等々を学び反映していけば、いつかはこの感覚を理解してもらえる。
習作としてたくさんの話を書いた。
意見やアドバイスを意欲的に組み入れた。たくさんの映像作品や商業作品に触れて、物語的な構造を研究し、表現についても考え続けた。
この期間が、ものを書く人種としては、一番楽しかったように思う。
メインの連載は少しづつ、アクセスが伸びるようになった。
一方、巨大掲示板では荒しと呼ばれる人たちが現れ、理解の難しいことをわめくようになった。
彼らは一様に誰かを非難し、他者の作品をこき下ろし、そして自分は何も書かない。
たまに彼らが書いても僕はよく分からない。少なくとも作家としての魅力を感じれるものではない。
また一方で、掲示板での交流をきっかけにした、貴重な方々との出会いもあった。
とても雅やかな文章を書く方が、作家としてデビューし、何冊もの本を出版するに至った。
凄いと思う。
若葉が萌えるような作品を作る方は、漫画の原作者となった。
また、長らく創作に悩んでいらした方は、大手出版社のコンペティションで優勝した。
皆さん、素晴らしい結果を出されているし、現在芽が出ない方も、いずれは出るものだと、僕は思っている。
この方々との交流も、業績も、僕は心から嬉しい。
自分も頑張らねばと思うが、持病が悪化し、そこに合併症まで出てしまったので、以前のようにすらすらとは、ものを書くことができない。
でも……。
理解してしまったことがある。
創作は、表現の自由は制限されるべきではない。
ただし、独自の表現というのは、土台がある人が許容されるものだということを。
流れるような切れ目のない文体も、ゆるくふわふわとした微妙な感覚も僕は好きだし、研究をして本質を取り入れたいとも思う。けれど、それはその作家さんの地力があってこそ、許されるものだ。
例えば大ヒットした漫画のキャラクターをなぞっても、それはただの質の悪い模倣にすぎない。
構図や、こまわり、他にも色々な要素が凝縮された結果が、その漫画のキャラクターとなっている。
深淵を抜きに上澄みをすくおうとしても、そこにあるのは正体の分からない水だけだ。
思い出すのは、昔、家庭教師をしていた時のこと。
お手玉をするのが好きな男の子の元に、僕は派遣された。
指定された時間のうち、半分を彼のお手玉を見て過ごすことになった。
男の子は不登校だったので、まずは関係性というものを作る必要があったし、そのことも親御さんには説明、許可も受けていた。
彼は1個のお手玉を、15分ほど、無言で宙に投げ続けた。
「……先生もやってみる?」
「あ、うん」
くずれたオハギみたいな造形と重さの球を1個受け取って、僕はポンポンと宙に投げてはキャッチし、また投げるという行為に臨み、しばらくして、なるほど、と思った。楽しい。
「楽しいね。これ」
「でしょ。2個だと難しいんだけど」
彼は大き目の箱からお手玉を2個取り出して、宙に放り始めた。
女の子みたいに細い手首がしなやかに曲がり、お手玉を受け止めては、空中に柔らかく戻す。
2個のお手玉と彼の両手によって、楕円が空中に浮かび上がる。
「すごいね」
「そんなんでもないけど。先生もやってみる?」
「うん」
……できなかった。無理だった。だから、僕は素直に少年を尊敬した。
学校に行かなくても、中学生なのに分数の計算ができなくても、それでも彼はお手玉をできる。
そして、僕は彼に1次方程式を教えることができる。等価ではない交換。
でも、前金は貰っている。費用を出したのは彼の親で、僕はその1割でカップラーメンを買い、9割を学費にあてる。
お手玉の時間が終わって、男の子が教科書を開いた時、僕は言った。
「お手玉2個より簡単だよ」
少年は、うん、と机に向かって言った。柔らかな髪が額に落ちて、横から眺めると、やっぱり女の子みたいな顎の細さだった。
彼は今どこで何をしているのだろう。幸福であってくれれば良いと思う。
あの時、言葉にするのを我慢していたフレーズがある。
お手玉2個より簡単だよ。でも、お手玉だって10個いっぺんにできる数学者はいない。
これは真実だと思う。けれど、絶対に表してはいけない偏見をはらんでいた。
君はお手玉2個が限界だ。その先にはどこにもいけない。ゲームのキャラクターを100個覚えたって、そういう知能があると証明されるだけだ。
必要な手順を踏む意志がなければ、誰もその先を許してはくれない。
お手玉で食っていけるのは大道芸人だけだ。でも、彼らは2個から3個への壁を乗り越える努力をした。
大きな球に乗って鳩の声と休日の陽を浴びながらジャグリングをするのは楽しそうだ。
けど、そのためには膨大な時間がかかっている。
そんなことをするよりも、普通に方程式を解いて適当な高校に進学して、高卒を条件とした会社に潜り込んで食べていく方が楽だ。楽というのは楽しい、という意味ではない。
けど、楽しいことを仕事にするというのは、限られた人種に許された特権なんだ。
そして、2個が限界の君は、間違いなく、そんな人種ではない。
限界。
あれから何十年もたって、僕は自分の才能に限界を覚えている。
巨大掲示板の荒しが言うことも、何となく理解できるようになってしまった。
僕は文章を書くということに習熟すれば、内在する抒情や感覚を、呆れられることなく、共感してもらえるものと、信じていた。
でも……。
それは違う。普通の文章を書くということがお手玉を1個操ることだとしたら、2個は綺麗な文章を書くことなのだろう。そして、3個以上は未知の世界だ。
操る手玉の種類も違う。書籍化、漫画の原作、受賞、単純に創作活動の継続。
色々な種類があると思う。
そして、僕が目指したい場所は、感覚や抒情の表現だった。
けれど、これは限られた人種に許された特権なんだと思う。それこそ、お手玉を10個操れるくらいの。
つまり僕が上澄みを真似したって、僕以外の人の目には、正体不明の水でしかない。
イメージの洪水のような文章表現。
ふわふわとした形のない抒情と、重く響く物語世界。
そういうものは、結局選ばれた人が書けば響くことで、才能のないものが真似しても、うすら寒いだけなのだ。
掲示板には、作品という言葉を嫌う荒しがいる。小説という言葉も彼は嫌う。素人が書くのは作品ではないし、小説ではない。ただのゴミ作文だと、彼は言う。
僕には詩のように聴こえる。でも、こと自分が書くものが、作品とか、小説かと問われれば、言い張れない自分がいる。
というよりも、むしろ自分が書いた作品こそが作品で、他は全部がゴミだと言い切れる彼の精神力がうらやましい。そういう彼は、最後に作品と言える作品を書いてから、もう5年が経過している。
僕は最近、200万字を超える作品を書き終えて、虚脱状態にある。
何を書けば良いのか分からないので、手当たり次第に挑戦しては、失敗を繰り返している。
とても綺麗な短編を書けたと思う時もあるけれど、限られた人以外には不評だ。
当たり障りのない物を書けば、当たり障りのない評価を得られるのかもしれない。
でも、美意識が肥大化してしまって、それができない。
だから、結局自分の中の感覚を言葉や物語にしようと、よく分からないものを書いてしまう。
これは一時的なスランプかもしれない。
またはここが僕の終着なのかもしれない。
自分が選ばれた者ではない。これは分かっている。そもそも書いたものが褒められても、僕はそれ以前に批判されたものとの違いが分からない。
どれも、どの物語も、膨大な背景があり、色彩が綿密な計算の上で構築されている。
でも、僕は僕の筆をもって、僕が書いてきたものを、あるいは感覚や抒情を弁護できない。
ものを書くということを始めた当初、家族との間に感じた隔絶は、厳然として存在している。
もしかしたら、これは表現を目指す誰もがぶつかる壁なのかもしれない。
でも、独自の表現をもって(高尚か通俗的かは問わない)この壁を突破することができるのは、限られた才能の人たちだけなのだと思う。
結局、僕は素人ということだ。それは思い知った。
ではどうするのか。理解されないことを書き続けるのか。
それとも当たり障りのない何かを練習するのか。
分からない。
けれど、僕はやっぱり、物語を書き続ける。
お手玉を愛していた彼は、今は家庭をもって仕事をしていたりするんだろうか。
水辺から生まれた妖精みたいに綺麗な顔の子だったから、案外働き者のお姉さんとかに養われながらでも食べていけてるのかもしれない(偏見です)。
何をしているにせよ、憂鬱な時世の中で、たまにお手玉を思い出して欲しいと思う。
というよりも、お手玉とか、そんな古来からの玩具は、こんな時代や日常のためにあるのだろうな、と思う、昨今だったりする。