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夏を称えよ

作者: 八川克也

 仕事を定年で辞めてから、ロセは、頻繁にその夢を見るようになった。

 どこまでも続く雪原の中を、延々と歩き続ける。そんな夢だった。

 吹雪の中を、ただ黙々と歩き続けるのだ。いつになったら吹雪はやむのだろう、そんなことを考えながら、歩き続けている。シェルターの外――最後に見た地上に似ていた。

 夕食の時、ロセは息子のコウと、その妻のメイに向かって、そのことを話した。コウはオートミールを食べながら、ロセに尋ねた。

「父さん、それは地上の夢?」

 ロセは首を振った。

「分からない。だが、多分そうだろう」

 するとコウは、ロセの顔をじっと見た。

「――父さん、シェルターに入ってから、もう何年になる?」

 真っ直ぐに見据えられて、少しとまどいながら、ロセは考えた。

「そうだな……五十年くらい、じゃないか」

 世界大戦が勃発して、すぐに終結した。死の灰が舞い上がり、広がり、大気を汚染し、地球を包み込んだ。太陽は遮られ、気温はどんどん下がった。放射能を含む薄汚れた雪が地上に降り始めた。

 各国は慌てて耐放射能シェルターを作り、人類は次々に地下都市へと逃げ込んだ。やがてそれらは規模を増し、地下でネットワークとなり、小規模な地下政府を生み出した。ロセ達はその中で暮らしている。

「もう長い間、ここで過ごしている……」

 ロセはつぶやいた。子供の頃、世界はおおむね平和で、いつでも太陽を見れたし、山もあったし、海もあった。植物も動物も、すべてがオリジナルで、クローン培養ではなかった。

 物心ついて短い期間、ロセは地上でそれらとふれあうことができた。心には、そのわずかにきらめく記憶がいつも張り付いていた。

 コンクリートで固められた地下都市にいると、それらが夢だったような気がしてならない。しかし、それは確かにあったのだ。

 ロセの表情を見て、コウがメイと目配せをした。タイミングは今だ。

「――大事な話があるんだ、聞いて欲しい」

 コウは居住まいを正した。その空気に、ロセは少し緊張した面持ちになる。

「僕は『仲間』の一員なんだ」

「『仲間』?」

 コウはほんの少しためらった。ロセが必ず賛同するとは限らない。言ってしまって良いのか、しかしすでに『仲間』と口にしてしまった。いまさら考える必要はない。コウは軽く息を吸って、自分を落ち着けた。

「反議会組織だよ」

 ロセは一瞬、何の事か分からなかった。やっと穏やかに暮らせるようになった自分に、何が起ころうとしているのか。

「反議会組織?」

「そうです、お義父さん」

 メイはコウと一緒にロセを見つめた。

「私も一員です。私たちはもともと、そこで知り合いました」

「そうなんだ、父さん。組織の中で偶然、会社が一緒だったから、意気投合して、結婚することになったんだよ」

「…………」

 まさか自分の息子の馴れ初めが、そんな組織だったとは。

 ロセも一応、反議会組織がある、という話は聞いていた。地下にある地下組織か? などと、友人と笑いながら話したこともある。しかしそれが自分に関係するとは思っていなかった。

「それで、父さん、僕――いや、『仲間』は、ある情報をつかんだんだ」

「…………」

「それは、地上の回復です」

 メイが言葉を継いだ。「私たちの連絡員――議会内にいる協力者のことです――が、その情報を持ってきました」

「自然の浄化力が予想よりずっと早く、山岳地帯はすでに大戦前の状態に戻っているようなんだ。平野や海と言った低いところは、汚染物質が流れ込んで溜まりやすいから、まだ時間がかかるみたいだけれど」

「これらの情報を、議会は隠匿する方向で進んでいます。彼らにとってみれば、地上へ人々が戻っていくのは、都合が悪いことだと言えるんです」

「今、地上には、政府や、それに準ずるものがない。自分達の支配力をそのまま地上へ持ち越すには、先手を打って地上を開拓する必要がある。だから自分達の準備が整うまで、これを公表しない気なんだ」

「ちょっと待て、コウ」

 一気にまくしたてられて、ロセは混乱した。地上が回復している? 夢で見たような吹雪ではないというのか? 記憶のかなたにある、あの自然が戻ってきているのか?

「本当に……そうなのか?」

「連絡員の彼は信用できるよ。長い間かけて議会内に侵入してもらった『仲間』だから」

「しかし……」

 ロセは、今一歩信じられなかった。あれほどひどい状態だった地上が、わずか五十年ほどで元に戻るとは思えない。シェルター生活初期の頃の計算では、地上が元に戻るまで、最低でも約二百年が必要だとされた。確かにあの頃は、社会全体がひどく混乱していて、いったい誰がどんな方法で計算したものか分からないし、まだ地下のネットワーク化もされていなかったから、正確な情報が伝わったとも言えない。それでもロセは地上の惨状を目の当たりにしていたから、あながちいい加減とも思えなかった。子供心に、ある種の絶望を感じたのを覚えている。もう地上には出られないのだと。その日は両親の横にもぐりこんで、朝まで泣いていた記憶がある。

「父さんにも、いくつか協力して欲しいことがあるんだ。だから――」

「待つんだ、待ってくれ、少し考える」

 ロセに即答はできない。第一、組織自体、聞いたことがあるだけで、実際には何も知らないのだ。

「私は組織――『仲間』のことも良く知らないし、あまりにも突然だ」

「確かにそうだね。考えてよ、父さん。ただ――」

「何だ?」

「――いや」

 コウは、口に出し掛けたことを思いとどまった。ロセ本人の意思が必要なのだ。今ここで母親のことを持ち出すのは卑怯だろう。

「何でもない。良く考えて欲しい」

「でも、あまりゆっくりしていられません。ここ二日のうちに返事をもらえますか」

「……分かった」

 ロセは肯いた。二日のうちに返事が必要。何かやろうとしているのだ。彼らは。『仲間』は。



 ロセが二十六才になった時のことだ。

 工事が難航していたシェルター都市ドーム広場がやっと完成し、ロセはそれを見に来ていた。建設要員だったが、落成式以降のきちんとしたものを見たことはなかった。

 結構人が来ている。ロセは地下通路を走って来た自転車を隅に置いて、自分も携わった広場を見て回った。

 広場は崩れにくいようドーム状をしており、天井は発光板が埋め込まれていた。発光板自体も貴重品だが、光らせるための電力も馬鹿にならない。第十七区の方に建設が進んでいる地熱発電所が完成すれば、もう少し余裕ができるかもしれないが、とにかく、発光板はかなりの貴重品だ。

 それに、木も植えられている。作業していたときに、放射能障害のない純粋培養のクローン樹だと聞いた。

 何にせよ、贅沢な作りだった。

 シェルター都市は個人、あるいは複数単位の集団が持つ小さなシェルター同士を、地下通路でつないで作った人工都市だ。当初は多くの混乱が生じ、不幸もあった。それが二十年ほどかかって、やっと社会として機能し始め、統治組織であるシェルター議会が成立した。

 この広場は、一種の記念物なのだ。

 議会がその存在をアピールし、これからの発展に期待しようと作ったオブジェだった。

 ロセはゆっくりと広場を一周した。気分が良かった。人工的とはいえ、一応緑も備えた公園だ。作り始めた頃は、何て無駄なものを、と思ったが、今こうしてみると、心が落ち着く。人間には『自然』が必要なのだ。

 一周し終わって、ロセは、さっきからずっと木の近くに立っている一人の女性が気になった。一本の木を悲しそうに眺めている。

 ロセは女性の近くに行った。同じ木を見上げる。何の変哲もない、ただのクローン樹だ。

 今度は女性を見た。びっくりして、ロセは思わず声をかけた。泣いていた。

「どうかしましたか?」

「――え?」

 女性はきょとんとした表情でロセを見る。しかし涙が頬を伝っている。

「いえ、どこか痛いのかと思いまして」

「――あ、あ」

 女性は初めて、自分が泣いていたことに気がついたようだった。手のひらで涙を拭って、ロセに笑いかけた。

「たいしたことじゃありません」

「……良ければ話してもらえませんか」

 このときすでに、ロセは、その不思議な雰囲気の笑顔に魅了されていた。

「私はロセといいます。ここで作業員をやってました。この木を植えたのは私なんですよ――」それから、ちょっと肩をすくめて見せた。「たぶん。何しろいっぱい植えたので、もう覚えていません」

 女性はくすりと笑った。

「私、ルウです」



 ルウは子供の頃から、植物の『声』を聞くことができた。正確に何を言っているのか分かるわけではない。ニュアンスが伝わってくるのだ。見晴らしの良い丘に立っている木は力強い声を伝えてきた。白樺の林は繊細さを、道ばたの花はふるえるように小さな楽しさを語ってきた。

 大戦が始まる直前、植物は一斉に不安を伝えてきた。大戦が始まって、それは悲鳴になり、終わると、沈黙した。時々、思い出したように弱々しく悲しみを響かせるだけになった。

 シェルターに入って、ルウはますます植物の声を聞かなくなった。シェルター内の人工的な観賞植物たちは、意識的にこちらがつつかないと声を出さなかったし、無個性で、声に表情がなかった。

 広場に木が植えられたと聞いて、ルウはやってきた。声を聞こうと思ったのだ。しかし、それはできなかった。

「なぜだと思います?」

「――さあ?」

 ロセには信じがたい話だったが、声には真実みがあったし、話し方も真剣だったから、うそを言っているのではないと思った。本当にルウは声が聞けるのだ。

「少しは考えてくださいよ」

「うーん、……クローンだったから?」

「当たり」ルウは悲しそうに笑った。「何も言わないんです。こっちが問いかけても、つついてみても。この子たちはみんな空っぽ」

「空っぽ……」

「魂が入ってないの」

「たましい……そうかも知れない」

 確かに、この広場では、ロセが子供の頃に感じたような自然の営みを感じ取ることはできない。「そうか……」

「でも、私は人間は好き。核戦争なんか起こしてしまったけど、魂はあるから。また頑張れる」

「……そうだね」

 ロセが答えると、ルウは微笑んだ。

 それから時々、二人は広場で会うようになった。一ヶ月後、ロセはルウにプロポーズした。



 個室で、ロセは形見のロケットを見ながらつぶやいた。

「やっぱり地上が良いかい、ルウ……」

 今では、この小さなロケットの写真と、そこに納められたわずかな骨の破片だけがルウのすべてだ。ルウは、放射能による白血病で、三十歳にならないうちに死んでしまった。

 彼女は地上を切望していた。せめて遺骨ぐらいは地上に戻してやりたい。しかし、議会は地上へのアクセスを一切禁止していたから、ルウは都市の共同墓地で静かに眠ることになった。

 ……コウの言う『仲間』に組織力があり、議会を何らかの方法で掌握することができれば――おそらくクーデター――あるいは地上へ出られるかも知れない。ルウの遺骨を地上に還してやれる。

 それに最近よく見る夢のこともある。私自身、地上に何かを求めているのかも知れない。あの吹雪の先には何があるのだろうか?

 ロセは決心した。



 翌日、コウが会社へ行くときに、ロセは協力する、と話した。コウは喜んだ。

「ありがとう、父さん。それなら、先にこれを渡しておくよ。偽造の身分認識証」

 何も書かれていない白いICカードだ。裏に一本の黒いラインがある。

「ほとんど準備は整ってるんだ。これがあれば十四区のハッチから地上へ行ける。でも、まだ使わないでほしい。もう少しやらなきゃいけないことがあるんだ。今日の夜、詳しく話すよ」

「お義父さん、これから一緒にがんばりましょう」

 メイも喜び、二人は会社へと出かけた。

 しかし、結局、ロセは話を聞くことができなかった。

 その日の夕刻、ロセが書斎で持ち物を整理していると、映話がなった。出ると、画面には見知らぬ男が制服を着て立っていた。半民間警察組織、シェルタガードマン社の制服だ。

「こちらはSG社です」

 男は事務的な口調でロセに告げた。

「あなたの息子さん――コウさんと、配偶者であるメイさんは、本日午後六時、議会に対する反社会的・破壊的行為の準備で、社会公安法違反によって身柄を拘束されました。罪状は、議会公安法第十七条、議会に対する破壊活動計画の禁止違反、同二十四条第二項、……」

 ロセは男が次々と罪状を並べ立てていくのを、黙って聞いていた。

 コウは、捕まったのだ。メイも。

 長い懲役が待っていることだろう。もう、顔を見ることもできないかも知れない。

「――公務執行妨害、以上です」

「ご苦労様でした」

 罪状を最後まで聞き終わったところで、ロセは映話を切った。

 書斎に戻って、整理の続きを始めた。しかし、何をどうして良いのかだんだん分からなくなって、あきらめた。

 居間に座って、ロセはテレビ端末をつけた。ちょうどニュースの時間だった。

 トップニュースは反議会組織の一斉摘発だった。

『反議会組織『仲間』は、武力クーデターを計画していたようですね、解説のピィさん』

『ええ。爆薬関連が多いですね。爆弾テロか――あるいは、地上まで一気に穴をあける気だったのかも知れません』

『『仲間』は、SG社が流したおとり情報に引っかかったというわけですね?』

『そのようですね。今回はかなり慎重な作戦だったようです。実際、議員のほとんども、その情報を信じていたらしいですからね』

 コウは、偽情報をつかまされ、引っかかったのだ。地上は、まだ回復してなんかいなかった。

 議会は自分たちの敵対組織――反社会的な団体をおびき出すため、もっとも効果的と思われる情報を作り出し、わざとリークしたのだ。四十年以上という長い間、地上とのアクセスを完全に禁止している状況下で、あのような情報が流れれば、議会に不満を持った人間は、情報の不法な隠匿に憤りを覚え、何かしらの行動に出る可能性は高かった。

 今回の一斉摘発は、議会に対する市民の不満感を押さえ込むためのパフォーマンスも含んでいるに違いない。判決はおそらく普通よりも厳しいだろう。

 懲役ではすまないだろうか? コウも、メイも、死刑かも知れない。

 ロセはテレビ端末を消した。

 しんとした部屋の空気が、のしかかるように重かった。



 翌日、ロセはSG社に出向いた。二人に面会するためだった。

 コウだけ面会が許可された。メイはできないと言う。メイの方が、コウよりも組織内で高い地位にいたせいで、取り調べに時間がかかっているらしい。

 面会室で待っていると、SG警官に連れられて、コウがやってきた。ガラスを挟んで向かい合う。かなりやつれて見えた。

「やあ、父さん」

「コウ……」

 それから2人とも、しばらく無言で向き合った。ロセにとってコウはたった一人の息子だ。親の贔屓目かもしれないが、悪い息子ではなかった。それがこんな形で合うことになってしまうとは。

「父さん」

 コウが口を開いた。斜め後ろに座ったSG警官が、ちょっと身をよじる。コウの言葉を聞き逃さないようにするためだろう。

「僕のレンタルカード、あったよね」

「ん? ……ああ、あるぞ」

「まだ使えると思うんだ」

 コウはちょっと目を閉じた。「自分のカードの有功期限が切れたからって、昨日の行きがけに渡したよね?」

 ロセは、コウが何を言いたいのかすぐに分かった。あの白いICカードのことを言っているのだ。

「でも、こんな事になって、すぐに使えなくなると思うから、自分のカードを書き換えてきた方が良いと思うよ」

「……そうだな、そうするよ」

 SG社がネットワークシステムの書き換えに気づいてしまえば、すべておしまいだ。組織のソフトウェア技術者が巧妙に仕掛けたダミープロテクトで、少しは時間が稼げるが、そのうち解析されるだろう。

「それから父さん」コウはまっすぐにロセの目を見詰めた。真剣なまなざしだった。

「母さんに謝っといて欲しい……」

 ただ聞いているだけなら、親不孝なことをしてしまったことを、わびているように聞こえるだろう。

 しかしロセには、言葉になっていなくても分かった。そうではない。コウは、母親を地上に戻せなくて、それを謝っているのだ。

「――分かった」

 ロセはしっかりと肯いた。そして、コウが何を伝えたいか、理解した。

『カードはまだ使える。母さんを、どうか地上に還して欲しい』

 ロセは涙が出そうになった。

 コウも母親のことを気にしていたのだ。いや、最初からそのつもりで、この計画に参加したのに違いない。ロセと同じ事を考えていたのだ。やはり自分と、ルウの息子なのだ。幼いころに死んでしまった母親を、今でも愛していたのだ。

 SG警官が立ちあがった。

「時間だ」

「だってさ、父さん」

「ああ。……また、来るよ」

 もう来ないだろう。ロセはそう感じた。



 ひょっとしたら、地上は本当に回復しているのかもしれない。あれは偽情報ではなかったかもしれない。

 今回の摘発は、不用意に漏れ出た情報を、偽情報として処理するために行われたものではないのか。摘発の手段として情報を流したのではなく、流れてしまった情報を、本当に隠すために、摘発と言う行動をとったような気がする。

 しかし、ロセにはもう、どうでも良かった。

 手元の小さなロケットを、地上に還してやれればそれで良い。

 小さなかばんだけ持って、ロセは家を出た。入っているのは白いICカードと睡眠薬だけだ。ロケットは上着のポケットに入れた。一応、防寒服も着込んだ。最後まで寒がりな事を心配している。ロセは笑った。

 いったんシェルターを出れば、決して中には入れない。自分の死に場所は地上だ。大量の睡眠薬で、眠るように逝けるだろう。

 いまさらだが、ロセは、自分がこんな事をするとは思っていなかった。自分の性格からすれば、自宅でゆっくりと緩慢な死を迎えるはずだった。それがこうして、自ら死のうとしている。不思議だった。

 何かがロセを促している。

 ルウを思い出したからだろうか? コウの想いに触発されたのだろうか? あの夢のせいだろうか? 分からない。

 ロセは第十四区に向かって歩き出した。



 意外なほどあっけなく、ロセは最終ハッチの前までたどり着いた。摘発直後だから、かなり厳重な警備があるのではないかと思ったが、そんな事はなかった。

 何かの罠かとも思ったが、そうでもないようだった。意外にも、まだSG社は押収したカードの解析に成功してないのかもしれない。

 狭い鉄製の通路だ。後ろには、通ってきたばかりのいくつかのハッチがある。階段も、かなり上った。もうあと少しで地上だ。

 ロセはICカードを取り出した。

 ハッチの脇に取り付けられた読取機に通せば、シェルター側の最後のハッチが開く。そして、地上への通路をつなぐ気甲室がある。

 ロセはカードを通した。

 ハッチが鈍い音を立てて開いた。ロセはハッチを通過した。気甲室だ。

 ロセの背で、ハッチがゆっくりと閉まり始めた。閉じてしまえば、もうシェルターに戻ることはできない。

 しかしロセには何の不安もなかった。そのまま、ハッチが閉じるのを見守った。

 気甲室の壁に、地上通路側のハッチを開けるための操作パネルがあった。

 いくつかのボタンを押した。がこん、と音がして、通路側ハッチが開き始めた。

 その瞬間、ものすごい冷気が流れ込んできた。雪も一緒に入り込んできている。

 地上はまだ回復していなかったのだ。あの情報は正しかった。

 ハッチが全開になった。

 外は真っ白い世界だった。ブリザードだ。雪の粉が霧のように舞い散っている。

「……は」

 ロセはため息とも笑いともつかない声を出した。期待していたわけではない。それでもショックだった。これはまるで、夢に見た通りではないか。あれは予知夢だったというのか? この吹雪の中を、私は歩き続けていくのか?

「はは……は、は」

 この雪の中にルウを還すのか。自分も雪に埋まって死ぬのか。

 ロセはただ呆然と外を眺めた。自分がこれからやろうとしていることは正しいのだろうか? しかしもう、後戻りはできないのだ。

 ロセは、足を進めようとした。

『戻りたいか?』

 突然、どこからか声が聞こえてきた。『最終ハッチを開けてやろう。もちろんあなたは犯罪者になる。私はSG社の者だ』

 ――罠。

 今回の一掃作戦の、最後の一押しだろう。地上を目の当たりにした人間を生け贄に、市民に地下で暮らすしかないことを印象づけるのだ。

 ロセは唇をかんだ。やはり罠だったのだ。泳がされていただけなのだ。

『ハッチを開けよう』

 馬鹿な、私は何のためにここにいる。

 ロセは上着のポケットに手を突っ込み、ルウのロケットを取り出した。

 ふい、と、ロセは悟った。

 何を迷っている。私は、彼女を地上に還すと決めたんじゃないのか。そして自分も地上で死ぬのだ。

 ロセは走り出した。雪の中へ走り出た。

 声が何かを叫んでいる。何を言っているかは聞こえない。

 足が雪に取られて転んだ。起き上がり、また走り出した。



 ロセは、一本の枯れ木の下に座り込んだ。さっきより、雪は弱くなった気がする。

 年甲斐もなく、ひどく運動してしまった。ロセは苦笑した。

 疲れた。もう少ししたら、足元を掘って、ロケットを埋めよう。それから、睡眠薬を飲もう。

 ルウ、こんな雪の下ですまない。この木は枯れてしまっているけど、もしかしたら、君の話し相手になってくれるかもしれない。地下のクローン樹よりはましだろう。

 いつのまにか、雪が止んだ。

 良いタイミングだ。

 ロセは、ロケットをどこに埋めようか、足元を見回した。少し向こうに、雪の融けている部分があった。

 ロセは近づいて驚いた。そこにはフキノトウが生えていた。

 本物だ。これが生えてきているということは、ライフサイクルが徐々に戻りつつあるのではないか。地上の回復は近いのではないか。

 何かを聞いた気がして、その瞬間、強烈なイメージがロセを包んだ。



 吸い込まれそうに青い空だ。強い日差しが降り注ぐ。

 そこはひまわり畑で、ロセよりも背の高いひまわりが、見渡す限り生えている。真っ直ぐ太陽に向かって咲く花。

 畑の周りは草原だ。向こうに森も見える。草原を渡ってくる風はあくまで涼しい。セミの声もする。

 それは夏だ。



 ロセはイメージに震えた。子供の頃見た風景に似ている。しかしあり得ない風景だ。

 それはロセの原風景だった。ロセにとって、地上とは自然のことであり、自然とは力強い夏だった。

 イメージがつきぬけ、恍惚とした余韻が残った。しびれるような感覚の手には、ルウのロケットがあった。

 このロケットが――ルウがそのイメージを呼び起こしたに違いない。ルウを通して伝えられたフキノトウの声が、忘れかけたイメージを解放したのだ。

 自分自身の原風景に誘われ、私は地上に出てきた。夢の中で探していたのは、雪の下に埋まった夏だった。

 私はルウのためと、そして自分自身のために、この地上に出てきたのだ。

 ロセは座って、木にもたれかかった。薬ビンを出して、大量の睡眠薬を取り出し、一気に飲んだ。口いっぱいに苦い味が広がった。

 ――君の元へ行くよ、ルウ。

 吹雪が再び強くなってきていた。ロセは体を丸めた。

 もう一度、あのイメージを。あの夏のイメージを。この長い冬が終わり、やがて戻ってくるであろう、地上の夏のイメージを。

 称えるべき、夏のイメージを。

 ロセは自分の原風景へ還り始めた。そこには澄みわたる空と、どこまでも続くひまわり畑と、ルウに良く似た一人の少女が見えた。


 

 このタイトル(「夏を称えよ」)は旧鉄道省(戦前の国鉄)が、夏のキャンペーンで使ったキャッチコピーです(正確には「夏ヲ称ヘヨ」だったと思いますが)。このコピーを見てなんか急にイメージが湧いてきて、話を書きたくなったわけです。


 夏→ヒマワリ、と言う発想は陳腐かもしれませんが、やはりイメージとしては強烈かと。別にヒマワリが特別好きなわけではないですが、夏を表すガジェットとしてはかなり有効ですし、このつながりは嫌いではありません。というかむしろ好き。

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