[七]命石
気を失っている間に移動させられたらしい。次にナキリが目覚めると、知らない部屋で寝台に横たわっていた。
多少息苦しさを感じる程度に狭い部屋だった。明かり取り用の小さな窓、一人用の寝台以外では、生活に必要なものが最低限置かれているだけ。
扉の横、壁に取り付けられた金具に見覚えのある外套がかかっているのを見て、ここはクロハヤに宛てがわれた個室だと、ようやく思い至る。昨夜はここで寝泊まりさせてもらったのだが、日が暮れて暗かった昨日と昼間の今とでは、なかなか同じ部屋だと結びつかなかった。
部屋の主の姿はどこにもない。どうしようかと迷っていると、ちょうど扉が叩かれた。
「は、はい?」
反射的に返事をして、しまったと口を閉じるがもう遅い。恐らくクロハヤを訪ねて来たであろう来客の対応をナキリがしていいものだろうか。
「失礼す――失礼、部屋を間違えたようだ」
部屋に入って来た人物は寝台の上にいたナキリを見るなり慌てて扉を閉めようとした。それ以上に慌てたナキリが寝台から出ようとした際、掛け布に足をとられて派手に転んだ。どうやら体はまだ本調子から遠いらしい。
「だ、大丈夫かい?」
音に驚いた訪問客が部屋の中に引き返して来て、ナキリの目の前で屈んだ。空色の瞳がナキリを気遣ってか憂いを帯びている。
飴色の髪を短く切り揃えているのは治安維持組織に属している者らしい。 セシリアの髪色を太陽とするなら、目の前のそれは月のように白みがかっている。身に付けている制服は白を基調としており、内面から滲み出る爽やかさをより一層引き立てていた。まさに、物語に登場するような王子様然とした少年だ。
「平気で……あ」
唯一の服が先の一件で完全に駄目になったようだ。心許ない服だと思っていたが、転んだ拍子についに限界を迎えたらしい。裾の部分から破けて太腿が剥き出しになっている。
ナキリの視線を追った少年もそのことに気づき、顔を真っ赤にして立ち上がった。
「重ね重ね失礼を……!」
「いえ。それより、クロハヤさんに何かご用でしょうか?」
幸い擦りむいてはいない。ナキリが手で膝を払いながら問うと、壁の方を向いたままの状態で少年はほっと息を吐いた。
「では、ここはあいつの部屋で間違いないんだな?」
「そうだと思います」
ナキリより少年の方がよほど詳しいだろうに。
「では、君は一体……?」
その時、扉の向こうからクロハヤが姿を現した。少年と目が合うなり、
「げっ」
心底嫌そうな顔で、開け放たれたままの扉を後ろ手に閉めるのは忘れない。
「何でおまえがここに。しかも勝手に人の部屋に上がりこみやがって」
「久しぶりに顔を合わせたというのに随分な挨拶だな。君が僕の部屋に置き手紙を残したんだろう」
「遠征任務でいないと思ったんだよ」
「帰還した。先程、報告を済ませてきたところだ」
「あっそ」
普段は大人びた言葉遣いが、少年に対しては年相応のものに戻っている。それだけ気心の知れた仲だということが垣間見えた。
気のない返事をしてナキリへ向き直ったクロハヤは、はっとしたように目を見開いた。ナキリの状態を見て――正確にはナキリの右手首に巻かれた紙片をまじまじと観察した後、少年を睨みつけた。
「おい、これ」
「? 何のことだ?」
声を尖らせるクロハヤに対し、心当たりがないという顔で少年が応じる。
ナキリはクロハヤに指摘されて初めて紙片に気づいた。クロハヤの只ならぬ様子から、紙片自体か、紙片を貼り付けられた今の状態に問題があるのだと察する。
クロハヤに続いて紙片を目にした少年は、さっと腰の剣に手をかけた。
「君は何者だ? それは逃走防止用の呪符だろう」
「ああ、もう。この狭い場所で剣を抜こうとするな」
浮き足立った少年を、うんざりしたように制すクロハヤ。
「お嬢さんは今度の護衛対象だ」
「む? それはすまない。早合点をしてしまった」
少年は剣から手を放したものの、まだ納得がいかないという表情でナキリを見ていた。
「しかし、護衛対象に呪符というは妙だ」
「一応確認だが、これはおまえの仕業じゃないんだな?」
「ああ。そもそも彼女と顔を合わせたのは君がここに来る少し前だ」
「なら、お嬢さんの服が破れてるのは?」
「そっ、それは、その」
恐らく、生真面目な性格の持ち主なのだろう。ナキリが転んだ拍子に破けただけで、自分は無関係なのだと説明すれば済むところを変に動揺するから勘ぐられる。
「クロハヤさん、これは?」
ナキリはやや強引に話の軌道を修正した。質問してばかり、説明させてばかりで申し訳ないが、こちらの世界について何でも教えてくれるという言質は取っている。
「僕が見よう。クロハヤは剣ばかりで、この手のことはからっきしだ。それから、名乗るのが遅れて申し訳ない。僕はリュシアン・ヴェンデル。見ての通り、『神姫』の護衛を務めている」
胸に手を当て、礼の形をとる少年、リュシアン。見ての通りも何も、見ても何もわからないのだが。
反応の薄いナキリを見かねて、クロハヤが助け舟を出してくれた。
「こいつも円環の盾に属する兵の一人だ。平たく言えば、黒服が守っているのは王都の治安、白服が守っているのは……まあ、こいつの話はいいか」
「おい! 紹介が雑すぎる!?」
「いいから、早くしろよ」
クロハヤに肘で小突かれたリュシアンは、
「まったく、君という奴は」
文句を言いつつも、ナキリに断りを入れ、紙片に描かれていた模様を観察した。
「やはり、これは逃走防止用の呪符だ。あらかじめ定められている範囲の外へ、この呪符の場合は王都の外へ出ると呪いが発動する仕組になっている」
難しい顔になったリュシアンは紙片からナキリへ視線を移し、あんまりじろじろ見るなとクロハヤにたしなめられていた。
「護衛対象にこの処置。只事とは思えない」
暗に名乗り返すように促されたナキリは固唾を呑んだ。とはいえ、話せることは少ない。
「ナキリです。黒の民、らしいです」
ナキリの後をクロハヤが引き継いだ。セシリアに対してそうであったように、ナキリと炎木の関係性や、自分が襲われたことは伏せて説明する。
彼はナキリの立場がこれ以上悪くならないようにうまく立ち回ってくれていた。ナキリとしても間違いなくその方がいいのだが、逆に隠していたことでクロハヤが危うい立場に立たされやしないかと気が気ではない。
「報告の際、団長が君に会えと言っていた訳がようやくわかった。君が僕を呼んだのもそのためだな。それにしたって、なぜ僕が借り出された? 管轄が違うだろうに」
「いくら団長の許しがあるとはいえ、組織内でお嬢さんの立場が危ういことに変わりはない。黒の民ともなれば、護衛に就けるのは俺かおまえくらいのものだ。大方、その呪符も団長の差し金だろう」
「なるほど。だが、話を聞く限り、ナキリ嬢に落ち度はない。それに呪符は本来、囚人に対して施す処置だ。明らかに不当な処遇といえる」
抗議してくる、と扉の方を向いたリュシアンの肩をクロハヤが掴んだ。
「無駄だよ。向こうは俺に話を通さず強行手段に出たんだ。話し合いに応じるつもりがあると思うか?」
それは、と言葉に詰まったリュシアンを尻目に、今度はクロハヤがナキリの手を取った。
「俺の責任だ。俺が目を離したばかりに」
「気づかずに寝ていたのはわたしですから」
気を失う前にも言おうとしたことだが、クロハヤがすべてを背負う必要はない。ナキリはもう十分すぎるほど助けられている。
「まったく気にならない、と言えば嘘になりますが。王都から出なければ平気です」
「そういう問題じゃなくて……!」
手を痛いくらいに握りこまれて、ナキリも負けじと力をこめる。
「わたしのことは気にしないでください」
「こっちはこれから護衛に就くっていうのに、その言い草はないだろ」
「あ、いえ。クロハヤさん達は仕事なんですから、適当でいいとか、蔑ろにしろとか、そういう意味ではなくて」
「うん、お嬢さんの言いたいことはわかってる。頼りないかもしれないけど……事実、これまでいいとこなしなんだけど、もう少し寄りかかってほしい。もっと甘えていいんだ」
「でも……。良くして頂いても、返せるものが何もありません」
「なら、 こうしよう」
悪戯っぽく笑ったクロハヤの顔がゆっくりと近づいてくる。わざとらしい咳払いが聞こえたのはほぼ同時だった。
「邪魔だなあ」
ぴたりと動きを止めたクロハヤが、頰を染めて焦るリュシアンを睨みつけた。
「君達、今がどういう状況かわかってるのか!?」
「勿論。だから、色々と準備してたんだよ」
繋いだ手を解いたクロハヤは、そのまま室内を漁り始めた。大きめの白いシャツと黒いズボンをナキリに手渡しつつ、小窓から外の様子を伺う。
「急で悪いけど、部屋を移動しよう。リュシー、おまえも今の内に身の回りの物をまとめて来い。今日から俺達三人、客室棟で寝起きする」
「待ってくれ。僕には本業の護衛がある。まずは神姫にお伺いを立ててみないことには動けない」
「待たないし、その必要はない。その辺の調整は団長がしてくれるはずだ」
「君は……。相変わらず姫に対して当たりが強いな」
「別に姫様は関係ない。あの人は普段から大勢引き連れてるんだから、おまえ一人くらい抜けても平気だと思っただけだよ」
「まったく、人使いの荒い。それに付き合う僕もどうかしてるな」
支度をして来るから後で落ち合おう。リュシアンがそう言い置いて部屋から出て行くと、急に室内の温度が下がったような錯覚に陥る。
クロハヤは作業の手を止めることなくナキリを手招きした。
自分も荷造りを手伝った方がいいのだろうか。そればかりに意識が集中していたため、クロハヤが一気に距離を縮めてきたことに気づくのが遅れた。
額に口付けされたとわかったのは、すでにクロハヤが離れた後だった。
「……? 今のは?」
「さっきの続き。俺は貸し借りなんて気にしないけど、お嬢さんは申し訳ないと思ってる。だから、少しばかり見返りを貰ったのさ。ただ、恥じらいがあってもいいとは思う」
俺は痕まで付けられたのに、とクロハヤが恨めしげにシャツの襟をめくると紅玉が覗く。赤く歯型が残っている肌を前にして、ようやくナキリの唇がわなわなと震え始めた。
「それは犬、じゃなくて、小竜に噛まれたと思って忘れることにしたのでは?」
「なかなか衝撃的な出来事だったからね。そう簡単には忘れません」
「忘れてください。できれば、今すぐ」
「それは無理でしょ。だってお嬢さん、また今にも噛みついてきそうだし」
「……! 気づいてたんですか?」
「まあね。傷が癒えた割に体を動かすのは辛そうだし。俺が思うに、お嬢さんは魔力を糧にしてる。怪我の治癒で俺から吸収したぶんが減ったから、それを補おうとして、また魔力を欲しているというところかな」
「わたしが魔力を……?」
「先に言っておくけど、もう謝るのはなしで。これからはお互い様ってことにしよう」
ここで新たに判明した、ますます人外じみてきたという事実。とうに感覚が麻痺していて、自分が魔力を糧にしているという話を聞いても、今更どうということはなかった。
「生憎、俺は魔力切れを起こしてるから。代わりにこんなものを用意してみました」
人は生まれながらに魔力を有している。命石とは人の持つ魔力が可視化されたものの呼称で、大半が赤子の頃から体のどこかしらに発現させている。成長するにつれて後天的に現れる場合もあるにはあるそうだ。
クロハヤから渡されたのもまた紅玉だったが、彼の命石より少し色が薄い。こちらは魔石といって、自然界に存在しているものらしい。呼称は違えど、どちらも魔力を含んでいる。
「でも……」
「ん?」
ナキリは迷った。この行為を受け入れてしまえば、いよいよ自分が人間ではなくなってしまうような気がして。
クロハヤの推測は十中八九当たっているだろう。抗うことのできない渇きから、ナキリはまた人を襲うところだった。
「いえ、何でもありません。ありがとうございます」
けれど、魔力を得なければ、やがてはまともに動くこともできなくなる。覚悟を決めるしかなかった。
そっとクロハヤの顔色を伺うと、何でもないことのように笑って頷いた。彼がこの行為に忌避感を抱いていないことだけが救いだ。
――まるで、そうすることがあらかじめ決められていたように。
ナキリは魔石と呼ばれる石を口の中に放りこんだ。