[六]私刑
翌朝。円環の盾――本部内にある中庭。
軽く走りこみができる程度に広さを有したそこは、庭と称されているが、特に草木が植えられているわけではなかった。地面は青々とした芝生で覆われており、遮蔽物がないぶん日光が取り入れやすくなっている。寝転がっての昼寝など、さぞかし気持ちがいことだろう。残念ながら、今はのんびり日光浴とはいかない。
ナキリは足下へ逃がしていた視線をそっと持ち上げた。中庭に来て早々、問題に直面したのである。
中庭は回廊で囲まれており、いつ人が通りかかっても不思議ではなかった。だが、明らかにナキリとクロハヤ、セシリアのやりとりを見に来たであろう人の姿があった。
「クロハヤさん、あの人達は……?」
どこから情報が伝わったのか、ざっと数えただけでも十人、もしかするとそれ以上がナキリ達を遠巻きにしている。
「う〜ん、参ったね」
見物人に関してはクロハヤも想定外だったようだ。早く済ませた方が賢明です、と正面にいたセシリアを急かした。
「いいだろう。奴らも待ちわびていることだ」
「奴ら? どういうことですか?」
セシリアが合図すると、見物人の中から三人の男女が進み出て来た。ナキリを危険視していたあの三人組ではない。
クロハヤはすぐにセシリアの思惑と彼らの正体に気づいたらしく、小さく舌打ちした。
「これが私の提示する条件だ」
「あなたにしては悪趣味なことをしますね」
クロハヤの非難をセシリアは完全に黙殺し、ナキリへ視線を転じた。
「昨日、任務中に殉職した者がいただろう。二人はその男と特に親しかった友人、一人は恋人だ」
「……!」
「わだかまりを残したままにしておくのは良くない。ここに身を寄せるというならなおさらだ。存分に話し合ってくれたまえよ」
ただの話し合いで終わるはずが、まともな会話ができようはずもない。それは誰の目にも明らかだった。
セシリアは、はなからクロハヤの提案を受け入れるつもりなどなかったのか。落としどころがあるとすれば、それこそナキリの命を差し出して償うしかないだろう。
とっさにナキリを庇うように割って入ったクロハヤをセシリアが押しのけた。
彼女はナキリをからかって遊んでいるのでも、この状況を楽しんでいるわけでもない。どこまでも事務的で、価値観の違い、住む世界の違いをまざまざと思い知らされる。
「我々は貴様を知らん。信用できない輩をそばに置くことはできん。敵意がないということを身をもって証明してくれ。それができれば衣食住の提供はしてやろう」
世界は違えど、道徳観は同じはず。治安維持組織に属する者なら規律を重んじるはずだ。私刑のような真似をして許されるはずがない。それすらもナキリの勝手な思いこみでしかないのか。
セシリアの背後に控えていた三人は、獲物を前にした肉食獣のような鬼気迫る表情でナキリと対峙した。
「やめろ! お嬢さん、逃げるんだ!」
「姫に泣きついてみるか? それもいいだろう。もう手遅れだろうがな」
クロハヤはセシリアに阻まれて動けない。思わず後退したナキリへ、更にじりじりと距離を詰めてくる三人。
ナキリはこの最悪の状況を迎えてようやく、自分の認識の甘さを痛感させられた。
ここへ到達した時点で保護された気でいた。セシリアが提示する条件にしても、大したことはないだろうと、心のどこかで高を括っていた。相手は治安維持組織の一員で、無条件に守られると勘違いしてしまったのだ。
経験したことのない状況に頭がうまく機能せず、体も痺れたように動かない。しかし、時間は無情にも進み続ける。
最初に近づいて来たのは恋人の女性だった。彼女は今にも涙がこぼれ落ちそうな痛々しい表情でナキリの肩を突き飛ばした。その拍子に尻餅をつき、手を擦りむいてしまう。次いで、男の振り上げた足が頭を掠めた。驚いた拍子に背中が後方へ倒れると、今度は誰かの足が腹部にめりこむ。
交わす言葉など初めから用意されていない。一方的な制裁の始まりだった。
ナキリは悲鳴を上げることすらできなかった。不思議と痛みはない。ただ、襲いくる衝撃と恐怖は紛れもなく本物で。
体を丸めて、ひたすら耐えるしかなかった。いっそ意識を失えたならどれほど良かっただろう。相手はナキリが気絶しない絶妙の力加減で暴力を振るってくる。同時に、ナキリが反撃に出やしないかと注意深く観察、警戒している。
どれくらい嬲られただろう。ナキリの意識は朦朧とし、時間の感覚が失われた始めた頃、三人の動きが止まった。後に残ったのは誰のものとも知れない荒い息遣いのみ。
「お嬢さん!」
張り詰めた空気の中、セシリアの制止を振り切ったクロハヤが駆け寄って来る気配を聴覚が拾う。涙で滲む視界の中、ナキリの思考は随分と遅れて現実逃避を始めた。
(かえり、たい)
あまり考えないようにしていた反動か、今になって溢れ出る望郷の念。
元の世界へ帰りたい。差別や暴力とは無縁の生活に戻りたい。なぜ自分ばかりが酷い目に遭わなければならないのだろう。一体ナキリが何をしたというのだ。
心臓は動いていない。暴力を加えられても体は痛みを訴えない。皮膚が裂けても血は流れない。人間と呼べるのか怪しい。
帰るべき場所も、帰りを待っている者がいるのかどうかもわからないけれど、それでも。
(帰らないと、いけない)
初めて、心の底から強く願った。そう思える内はまだ大丈夫だ、と。少なくとも、まともな思考でいられる間は、自分はまだ人間なのだと思いたかった。
「……、お嬢さん?」
地面に投げ出されたナキリの体をクロハヤがすくい上げるように抱き起こした。心配そうに顔を覗きこんでくる少年に応える余裕が今のナキリにはない。代わりに目で訴えると、ためらいつつも正しく意図を汲んでくれた。
ナキリは歯を食いしばり、何とか立ち上がる。クロハヤの手を借りてやっとだ。辛うじて動けたのは、すでに傷が塞がりかけていたからだが、今はそれすら些事でしかない。
「これで……条件は、満たしました」
少し離れた場所に立っていたセシリアに聞こえるよう、可能な限り声に力をこめる。
「よろしい」
周囲が唖然とする中、セシリアだけは腕を組んだまま、ボロ雑巾のようになったナキリを前にしても眉一つ動かさない。
「貴様、名は何と言った?」
「ナキリ、です」
「では、ナキリ。貴様の身柄はそこにいるクロハヤの預かりとする。ただし、昨日の件と合わせ、身辺調査は続けさせてもらう。結果次第では我々の対応も変わってくると心しておくことだ」
淡々と告げられ、ナキリの代わりにクロハヤが顔をしかめて不満をあらわにする。だが、セシリアはすでに背を向けたところだった。
「ヴェンデルに話を通しておけ。奴にも娘の監視をさせろ」
「あいつをこの件に関わらせるんですか?」
「不満、か。だが、これは決定事項だ。奴は貴様の元相棒――適任だろう」
「……。色々と言いたいことはありますが。何を言ったところで覆りはしないのでしょうね」
クロハヤの冷えきった声に対する返答はなかった。セシリアは無言のまま中庭を後にする。
セシリアに続いて三人が、次に周りの見物人がいなくなり、中庭にはナキリとクロハヤの二人だけが残された。
未だセシリアが去って行った方向を睨みつけているクロハヤを横目にナキリは苦笑した。うまく表情を取り繕えていたかはわからない。
「クロハヤさんが団長さんを怖いと言っていた理由がわかりました」
「ごめん。肝心なところで守りきれなくて」
ナキリは慌てて首を横に振った。急に動いたせいか、頭がくらくらする。そんなことはない、と言いかけたところで目の前が真っ黒に塗り潰された。