[四]心臓の音
あれから救護班による簡単な診察を受けたところ、驚くべき事実が発覚した。
「落ち着いて聞いてくれ。その……お嬢さんの心臓は動いてないらしいんだ」
落ち着いてと言った割に動揺していたのはクロハヤの方だった。ナキリとしても許容できる範囲を超えており、とっさに反応らしい反応ができなかった。一方で、妙に納得する自分がいる。
炎木のそばで行き倒れていたこと。ナキリ自身はまったく覚えていないが、炎木と関わりがあるらしいこと。我を忘れて人に襲いかかったこと。これらのどこに自分は常人だと胸を張って言える要素があるというのだろう。
「つまり、すでにわたしは死んでいるということでしょうか?」
「わからない。救護班の奴ら、もっと詳しく調べるために解剖するとか言ってたけど、俺が止めておいたから!」
クロハヤは場を和ませるため、あえて明るく言ったのだろうが、
「冗談に聞こえません」
「そうだね。ごめん」
ナキリの返事も良くなかったのだろう。かえってきまずい空気が流れる結果になった。
「こうなった以上、俺だけじゃ庇いきれない。確実に保護してもらえるよう上にかけ合う。すぐ出発しよう」
「どうして?」
「どうしてって、何が?」
「どうしてクロハヤさんは親切にしてくれるんですか? わたしの話が全部嘘だとは考えないんですか?」
自分自身を客観的に見ても、信用に足る部分は一つもない。つい先程も愚かな行動に走ったばかりだ。味方が一人も存在しない今、ナキリにとっては願ってもないことだが、変といえば変だ。単純にお人好しという言葉では片づけられない。
クロハヤは返答をためらわなかった。
「黒の民の助けになる。昔、そう決めたから」
「相手が普通の黒の民ではなくても?」
「なくても。それに、お嬢さんに何かあったら俺が困る」
「困る、ですか?」
「そう。お嬢さんには俺を殺すという役目があるからね」
まただ、と思う。忘れかけていた頃になってまた、クロハヤはナキリが返答に窮する発言を繰り返す。冗談にしては質が悪い。冗談を言っているようには見えないため、なおのこと面倒だ。質問したことを少し後悔した。
「出発するって、どこへですか?」
二度目ということもあり、ナキリは何も聞かなかったことにして話を続けた。何と返せばいいのかわからない上に、どうせ何を言っても陳腐な言葉が羅列されるだけに決まっている。
「王都だよ。ここへ来るまでに見えてただろ。城壁の向こう側だ」
クロハヤも特に気にした様子はなく、予備として持ちこんでいた長靴をナキリに履くよう言った後、自分は手近な荷物をまとめ始めた。
元々ナキリには所持品がなく、五分とかからずに双方の支度が完了する。
てっきり歩いて王都へ向かうのだと思っていたナキリは、クロハヤが机の上に置いてあった大きな巻紙を手にしたのを見て首を傾げる。
クロハヤは地面に片膝をつくと、巻紙を広げて丹念に皺を伸ばした。そして、ナキリと目を合わせてにやっと口角を上げた。
「これが何かわかる?」
「円と記号です」
似たような模様がクロハヤの制服にも刺繍されている。ナキリには違いがよくわからなかったため、率直に感想を述べた。
身も蓋もない答えがお気に召したのか、クロハヤは笑いを堪えるように頬を膨らませた。できの悪い教え子を前にした教師のような生温かい表情をやめてほしい。
「これは簡易式の転送陣といって、召喚術を応用したものだ。魔力をこめれば、あっという間に任意の場所へ――あれ?」
右手で巻紙に触れたクロハヤが首を傾げた。
「そうか、さっきの」
クロハヤの右手がそのまま首筋に移動したのを見て、ナキリの心臓がぎくりと音を立てた。勿論それは気のせいだったが、嫌な予感はどうしても拭えない。
「まさか、わたしが何か……?」
した、していないで言えば、間違いなく前者なのだが、改めて確認せずにはいられなかった。
「いや〜?」
クロハヤは曖昧に答えたが、首筋を気にしている時点で一目瞭然だ。
やはり夢でも思い間違いでもなく、ナキリはクロハヤに噛みついたのだ。ただ、まかり間違っても生きる屍よろしく食いちぎってはいない。食いちぎっていたら、今頃とんでもない事態に陥っている。
責任転嫁というわけではないけれど、クロハヤの対応にも問題はあった。突然襲いかかってきたナキリを押しのけようともせず、ナキリが我に返って離れるまで、ただされるがままになっていた。その後も特に拘束するわけでもなく、これまで通りの態度で接してくる。一旦、救護班を呼びに天幕の外に出ただけで、すぐに戻って来て騒ぎたてることもしない。あの三人が心配していた通りになったというわけだ。
ナキリはナキリで体の不調が嘘のように回復した。同時に、やはり今の自分はどこかおかしいと疑惑を強めることになった。
「誰かさんに迫られて、ちょっと動揺してるというか、気が散ってうまく術を発動させられないというか」
「こんな時に冗談はやめてください。わたしが何かしたから、うまくいかないんですよね」
二人共、あえて触れずにいた弊害が今になって現れた。羞恥半分、申し訳なさ半分、自分に対する気持ち悪さまで上乗せされて、ナキリはクロハヤの顔を直視できなくなる。
「まあまあ、その件はもういいんじゃない? お嬢さんが気に病む必要はないし、俺も小竜に噛まれたと思って忘れることにするよ」
「……小竜? 犬ではなく?」
「小竜でしょ。見たことない? 白くてちまっとしてるやつ」
「ありません」
「そっか。ないのかあ」
「……」
「あはは。話が逸れたね」
巻紙を元の場所に戻したクロハヤは、ためらうナキリの手を引いて外に出た。ちょうど天幕の近くにいた男性に声をかけた後、城壁の方向へ歩を進める。
「そう遠い距離でもないから歩きで行こう。ちょっとした散歩だよ」
「でも、持ち場を離れていいんですか?」
一時間後と指定した時刻はもう間もなくだろう。このままではクロハヤが約束をすっぽかすことになる。
ナキリの心配をよそに、クロハヤは自嘲気味に笑った。
「薄々気づいてると思うけど、隊長っていっても名ばかりだからさ」
自分がいなくても事は進む。報告なら書面で提出するように伝言しておいたから問題はないと悪びれない。
そうして荒野を進み始めた際、ナキリは肩越しに振り返って炎木を仰ぎ見た。
クロハヤに聞いた手前、ナキリが駄々をこねるわけにはいかない。森から、炎木から離れるのが嫌だ、などと。どうしてそう思ったのかは自分でもわからなかった。