[三]衝動
「お嬢さんになら殺されても構わないよ」
天気の話でもしているような軽い口調で、一瞬何を言われたのか理解できなかった。
「あの」
恐る恐るナキリが呼びかけると、クロハヤは手を止め、不思議そうに見上げてくる。
わからない。一体、彼は何の話をしているのだろう。ここで何も聞かなかったことにして話を続けることはできた。だが、話の内容が内容だけに難しい。
「意味がよく……?」
ナキリが困って視線を泳がせると、クロハヤは微かに目を見開いた。
「黒の民ってわかる?」
「流星街は?」
「無限回廊」
聞き慣れない単語を真剣な顔で早口に羅列されてなおさら混乱する。
ナキリが答えられないでいると、クロハヤの口から乾いた笑いが漏れた。
「どうも心ここにあらずって感じで、変だとは思ってたんだ」
「……気づいたら森の中にいて、記憶に混乱があるというか。何も思い出せなくて」
「召喚時の後遺症か? それとも――」
と、突然クロハヤが喋るのをやめた。明らかにしまった、という苦々しい顔で。
「しょうかん、って?」
クロハヤは誤魔化すように咳払いをした。当たり前のことを何気なく口にしただけで、ナキリが動揺するとは考えていなかったのだろう。ナキリの足を手際よく拭いて、この話題は終わりだとばかりに立ち上がる。
「思い出せなくてもわかります。ここはわたしが知っている世界とは違う」
そうはさせないと、ナキリは言葉を継ぐ。ナキリに関することを話さずに、他に何を話せというのだ。
「わたしは召喚されてこちらに来た?」
「……ああ、そうだよ」
「その召喚っていうこと自体、よくわかりません」
「この状況下でその台詞が出るってことは、本当に覚えてないんだな」
クロハヤはため息を吐くと、敷布が敷かれただけの地面に腰を下ろしてナキリと向かい合った。
「これからのことについて話すよ。状況はお嬢さんが考えているよりずっと悪いだろうから」
話せる範囲でと前置きして、クロハヤはナキリが待ち望んでいた答えをくれた。
簡潔にまとめるとこうだ。
この世界には魔法が普及している。ナキリはその魔法――召喚術によってこちらの世界にやって来た。召喚された人間はその外見から黒の民という呼ばれ方をしている。
クロハヤ達は治安維持組織に属する者であり、任務でこの一帯を調査中だった。どういった経緯でナキリが森の中にいたのかは不明だが、事件が起こって死亡者が出た場に居合わせた以上は拘束する必要が出てくる。
「だから、できればあの三人を恨まないでほしい。彼らは彼らなりに任務遂行に忠実なんだ」
ナキリに対する態度や暴言の数々は決して褒められたものではなかったので、後できちんと指導しておく、と。
ナキリは何となく察した。そもそも話がここまでややこしくなったのは、自分が黒の民だったからではないだろうか、と。
黒の民は余程の嫌われ者らしい。そう考えれば三人の態度にも納得できる。現に死んでも誰も気にしないとまで言われた。そうでなければ、初対面であれほどまで苛烈な敵意を向けられる理由がない。
否。あの三人はナキリが殺したと思いこんでいる。恐らくクロハヤにもそう報告する。
「わたしは殺されるんでしょうか」
仕事上、仕方なく普通の態度で接しているだけで、本当はクロハヤもナキリを疎ましく思っているのだろうか。どのような経緯があったにせよ、彼は今日、部下を一人失ったのだ。
それに、ここにはナキリを守ってくれる存在も環境もありはしない。本当に一人なのだ。一人でこの窮地を脱しなければならない。それはとても途方のないことのように思えた。
ぼんやりと思案するナキリを、クロハヤはどこか険しい表情で見つめていた。
「問題はよりによって今日、森に――あの炎木のそばにいたことだ」
「えんじゅ? あの燃える木、ですか?」
「そう、俺達が森を調査することになった原因だよ。昨日まで、あれは大きいだけで何の変哲もない木でしかなかったんだ。それが今はご覧の通り。お嬢さんが何か良からぬことをしたのか、何かしらの関係があるのか、疑いを持たれでもしたら、それこそ異形のものと見なされて処分されるだろう」
「そんな。わたしは何も……」
「俺は関係があると思う。というか、確実にあるだろうね」
確信をもって紡がれた言葉に、今度はナキリが驚く番だった。
クロハヤはナキリを以前から知っている。それは彼の突飛な台詞から容易に推測できた。
何か少しでも思い出せないかとクロハヤを見つめてみる。と、その姿が急に傾いだ。
傾いだと思ったのは錯覚で、ナキリの方が椅子から落ちかけたのだ。
「あ、れ?」
天幕に入った時から、少し違和感を覚えてはいた。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
「体が」
動かない。試しに手に力を入れようとして、指が寒さでかじかんだように動かしにくくなっていることに気づいた。椅子に座り直すのも億劫で、そのまま地面に膝をつく。
「救護班を呼ぶ。少し横になるといい」
いつの間にかクロハヤの濃褐色の瞳がすぐ近くにあって、気遣わしげに細められている。そのクロハヤの首筋に何か光る物が見えた。
「それは?」
「ん? ああ、命石のこと?」
それは紛れもなく宝石だった。飾りの類にしては肌にしっかり食いこんでいる紅玉。
それを目にした途端、森で無意識の内に叫んでいた時のように、どうしようもなく我慢が効かなくなる。
「そうか、お嬢さんにとってはこれも――」
クロハヤは虚を衝かれたように閉口した。ナキリがクロハヤの胸ぐらをつかむようにして、自分の方へと引き寄せたからだ。
「ごめんなさい。でも……」
衝動に突き動かされるまま、ナキリはクロハヤの首筋に噛みついていた。