[一]目覚め
目覚めは唐突に訪れた。目覚めた直後の思考は曖昧で、ぼやけた視界はそれでも異常を感じとった。
手を伸ばせば届くような距離で大木が燃えていた。正しくは燃えているように見えた。
波打つように伸びる根。瑞々しい枝葉に、白い花が咲き乱れている。木先はわざわざ頭上を仰いで確認する気にもならないほど遥か上空にあった。
根、幹、枝、葉、花。そのどれもが規格外に大きい。写真や映像でしかお目にかかれないような光景だ。
繰り返す。
目の前で大木が燃えていた。なぜ燃えているのか、自然災害の類か、あるいは何者かが火を放ったのか。そんな疑問はひとまず横に置いておこう。
蒼い炎だ。大木を包む炎の色に目がくらむ。そして何より、その身を焼かれながらも無傷で、平然と屹立している大木に二度驚かされることになる。
「ここ、どこ?」
乾ききった唇から、不意にそんな言葉がこぼれ落ちた。
ここでようやく、意識が自分自身へ移る。
背中にかかる髪、ささやかな胸の膨らみや、丸みのある体つきで女性であることを確認する。しかし、それ以外――例えば、名前や生年月日、職業、その他諸々がまったく思い出せない。
「わたし……?」
これが世に言う記憶喪失?
まさか自分に限って?
思い出せないのならば、自分に限っても何もない。
のろのろと立ち上がり、周囲を見回す。その際、入院患者が着るような薄手の服が視界にちらついたが、あえて見なかったことにした。素足が湿った腐葉土を踏みしめているのも無視を決めこむ。
鬱蒼とした森である。昼間だというのに、木々に遮られて太陽の光は満足に届かない。更に付け加えるなら、森林浴や散策には向かないタイプだ。迷いこんだが最後、二度と出られないといった雰囲気をかもし出している。
まず、何から始めるのが最善だろう。冷静に、冷静にと自分自身に言い聞かせながら頭を働かせる。
記憶をとり戻すのはそう簡単ではないはずだ。ならば、一刻も早くこの森から抜け出し、然るべき機関に助けを求める。
だが、それは本当に可能だろうか。
ここまでどうやって来たのかわからなければ、ここからどう進んで行けば人のいる場所にたどり着けるのかもわからない。わからないことばかりだった。
先行きの見えない恐怖からか、無意識に胸元の服を握りこんで息を詰める。
どれくらいそうしていただろう。突然聞こえてきた足音と人の気配に肩が跳ねた。それがきっかけとなったのかは不明だが、
「あ……?」
ナキリ。誰かにそう呼ばれたような気がした。
耳の奥で微かに残る呼称。けれど、現時点で思い出したのはたったそれだけで、大した進展ではなかった。
だからこそ、第三者の存在に安心こそすれ、不安に思うことなどないはずなのだが。少女の――ナキリの唇はきつく引き結ばれたまま。足はその場に縫い留められたかのように動かない。
そうしている間に、黒い制服のようなものを着た男女が四人、木々の向こう側から現れる。
先頭を歩いていた壮年の男性は、ナキリを目に留めるなり怪訝な表情を浮かべた。
予想していた通り、知らない顔ぶれだった。男達の態度からしても知人という線は限りなく薄い。色素の薄い目や髪色、顔の作りで人種の違いがわかる。黒髪はナキリただ一人だった。
「なぜここに『黒の民』が?」
質問口調だが、会話を成立させるつもりはなかったらしい。男が腰の剣に手をかけたことで、ますます口をつぐむしかなくなる。
「ひとまず拘束しましょう」
「俺達はこいつの調査だ」
三人が大木に向き直り、残りの女が棒立ち状態のナキリに歩み寄って来る。
初めに発言したリーダー格の男が大木に近づいた時。男の腕に火の粉が降りかかりそうになった、その瞬間。
「触らないで!」
ナキリは力の限り叫んでいた。
「え? あ? あぎゃああああああっ!!」
男の腕が一瞬にして燃え上がった。蒼い炎はまたたく間に全身へ広がり、火だるまとなった体が地面に倒れ、激しく転がった。
一拍遅れて我に返った仲間が消火にかかるが、制服の上着で包んで空気を遮断しようとも、手近にあった土を消火剤代わりにしようとも、炎の勢いは決して弱まることがない。
「消えないっ! 何で消えないのよ!?」
「救護班に連絡! 早くしろ!!」
悲鳴と怒号が飛び交う中、のたうち回っていた男の動きが徐々に鈍くなっていく。
「どういうことよ。何がどうなってるの……っ。こんなの聞いてないわよ!?」
助からない。誰の目にも明らかだった。
やがて、動かなくなった男を囲んで言い合いを始める三人に対し、腕で口と鼻を塞ぐナキリ。辺りに漂う濃厚な死の臭いが思考を麻痺させる。
ふと、三人の視線がナキリに注がれた。
「何者なんだ? 黒の民ではないのか?」
「今のはあなたの仕業?」
矢継ぎ早に質問されても答えられない。自分でも訳がわからず制止の声を上げてしまった。ただ、男が大木に近づく素ぶりを見せたあの時、いきなり見ず知らずの他人から体を弄られるような不快感があったのは確かだ。
「わたし、何も知りません」
元々、男に大木に触れようとする意思はなかったはずで。誰だって燃え盛る炎の中に手を突っこもうなどとは思わない。仮に火の粉がかかっても軽い火傷で済む、そのはずだった。
直前のナキリの発言があらぬ誤解を生む原因となってしまったようだ。人によっては男の行動を止めようとしたようにも、男に何かしたようにも捉えられる。
そして、その誤解を解こうとして、子供染みた言葉を重ねてしまったのがまずかった。
「――拘束しろ」
短い命令。女が素早い身のこなしでナキリの背後に回った。手首を捻り上げられ、地面に引き倒される。
顔が土で汚されていくのを感じながら、ナキリは思った。目覚めたばかりだが、まだ夢でも見ているのか、と。それも、とびきりの悪夢だ。
見慣れぬ容姿の四人組が各々剣を持っているのを目にした時から薄々嫌な予感はしていた。もっといえば、不可思議な大木を目にした時点で悟るべきだった。
この森を出たとしても、帰るべき家には、家族には、国には、たどり着けないだろう。記憶に混乱があったとしても、ここが自分の暮らしていた世界でないことは嫌でもわかってしまった。