シンクレイヤ侯爵家
さて、今日は朝食後からセディと一緒にお出かけする日です。
ロッテが朝食の席でもうきうきとしているのがわかってしまったんでしょう。
「ねぇ、ロッテ。今日は王都の見学をしてもらうつもりだけれども、午前中はシンクレイヤ侯爵家を訪問することになっているんだよ。そこには兄上夫婦もやってくる予定なんだ。ロッテのいう『リリーアイドル化計画』を煮詰めたいんだって」
なんとセディから今日はデートではなくて、お仕事ですよ発言が飛び出しました。
セディはロッテにたいして番だの、愛してるなんて言うくせに少しも行動で示しているようには思えません。
こんなに冷たい婚約者っているのでしょうか。
ロッテはちょっと凹んでしまいました。
それを見てセディは少し慌てたらしく、付け加えました。
「午後は王都を巡るつもりだよ。オペラや演劇などの興行を扱っているギルドの支配人に挨拶しておきたいし、商業ギルドにも行きたいからね。ロッテの意見を聞きたいらしいんだ」
全然フォローになっていないのにそんなことのにも気が付かないセディはやはり女心にうといのでしょう。
けれどもこの『リリーアイドル化計画』は、国民に開かれた王室をコンセプトに、王室の人々を身近に感じてもらって民衆の支持率を高める狙いがあります。
新興貴族というのは経済力や民衆の支持を背景に、世襲貴族に反旗を翻しているのですから、その2つを世襲貴族側が奪えばいいんです。
言い出しっぺのロッテとしては、しっかりお仕事するしかありません。
いつか本当にロマンチックなデートがしてみたいものだとため息をついてしまいます。
異世界で婚約者が出来たと言っても、ロッテが干物女であるという事実に変わりはないようです。
なんかセディが妙に焦った顔をしていますが、いいんですよ。
ちゃんとわかっています。
お仕事の為に誘って下すったんですよね。
平気です。
慣れてますもの。
ロッテはすっかり不貞腐れてしまっていました。
シンクレイヤ侯爵家と、クレメンタイン公爵家とはそれほど離れていません。
というよりもこの王都では、その中心の王城があり、それを取り囲むように貴族たちの館が建てられています。
王城から近い場所に館を置いているほど高位貴族で、下位貴族になるほど王城からは遠くなります。
貴族街の出入り口には、大きな門があり、門兵が詰めていますから、王城にたどり着くのはなかなか大変なことなのです。
貴族街の外には騎士たちが住まう街、その外側が兵の住まいです。
平民が住んでいるのは、ですから王都の一番外側になります。
しかし平民街こそが王都の中心地とでもいわんばかりに、オペラを楽しめるオペラ座や演劇をたのしめる劇場、音楽を楽しむ音曲館など、あらゆる娯楽場から酒場や飲食店まで多くの店舗が軒を並べていつもにぎわっています。
しかし王都はここで終わりではありません。
王都全体を取り囲む巨大な城壁の外側には壁外地が広がっていて、いつの間にかここにも多くの店舗や宿泊施設までもが店をだし、店を持てないものは屋台で、それすらないものは地面に布を敷いたものを簡易店舗にして賑やかに商いをしているのです。
王都の内に入るための戸籍などを持たない流民たちが、自分達で育てあげた町は雑多であっても生き生きとしているので、王都の住民がここを訪れるのは珍しいことでもないのです。
いや反対に王都の中で購入するより安くて新鮮な野菜などを手に入れることができるので、このんで壁外に買い出しに来るものもあとを絶ちません。
ロッテはできればこの壁外にいる民にこそ、王族のファンになってもらいたいと思っています。
壁外にはより豊かな生活を求める膨大なエネルギーが渦まいていますから、そのエネルギーをいい具合に味方に取り込めれば、強大な味方になることでしょう
シンクレイヤ侯爵家でお兄さまに『リリーアイドル化計画』のプレゼンを求められて、ロッテはそんなことを精一杯話しました。
「つまりロッテは貴族や平民だけでなく棄民を味方にしたいと言うのか?」
お兄様はいかにも意外なことを聞くもんだと言いたげに質問しました。
棄民というのは文字とおり棄てられた民という意味で、税金をはらう責任もないかわりに国としての保護を与えられていない民のことです。
不作が続き税金が払えなくて土地を取り上げられてしまった農民や、何らかの事情で借金のカタに戸籍を売った平民。
食い詰めて流れ込んできた流民など戸籍を持たない人々のことです。
棄民の中には、王都で下働きや洗濯女、あるいは日雇いなどの仕事のために王都で働いている人々も多いのです。
雇用主が証明書を渡せば、王都に出入りすることもできますし、毎日仕事をあっせんする女衒が壁外まで人足を集めるためにきたりします。
壁外の棄民は雇用の調整弁の働きもしているのです。
「はい、私は棄民であっても雇用主が長く雇っている人や、その人柄を保障している場合などには、一定の教育を施したのちに面接などで問題がなければ、戸籍を与えるべきだとすら考えています」
それはどうやら居並ぶ人々に少なからぬ衝撃を与えたようです。
もしかしたら身分制度の根幹に触れてしまったのかもしれません。
唖然として何も言えなくなった男性陣をしりめにお姉さまが発言しました。
「今の意見は、下手をすると身分制度にひびを入れかねないのよ。それでもそのような政策を推し進めるメリットはどこにあるの?」
「はい、お姉さま。水は流れないと淀みがでてしまいます。壁外の棄民たちにはエネルギーが有り余っていますよね。そのエネルギーを上手く誘導されれば、王への反乱へと進む可能性を内在しえるのです」
反乱というあえて厳しい言葉を使ったことで、棄民を単なる身分も力も持たない存在から、得体のしれないエネルギーを持つ人々という意識に変わったようです。
「だから棄民にも希望が必要です。実力があれば平民になって王都でさらに力をつけることができる。もちろん王都で過ごすことが幸せという訳ではないので、そのまま壁外を故郷としてもかまいません」
「大事なのは選択肢があることです。王都での生活を選ぶことも壁外の生活を選ぶこともできる。そうなって初めて棄民にも壁外に対する誇りが持てます」
「誇りか!」
お兄様がしみじみといいました。
「そうですお兄さま。選択肢がきちんと示されていれば、人は自分が選んだことに誇りを持てます。しかしそうでなければ、恨みを持ってしまいます。誇りある棄民を育てることで、王都の民も自分の誇りを再確認で来るようになる筈です」
「わかった。ロッテのいうことは国の未来に関わることだ。よいことを聞かせて貰った。つまり『リリーのアイドル化計画』を壁外にまで広げることで、ロッテは棄民にも王国民としての誇りを持たせようと言うのだな」
通じました!
さすがは宰相閣下ですわ。
棄民の心を掴めるものが、民衆の真の王となります。
うまくいけば壁外はサブカルチャー発祥の地になれるはずなんです。
ワハハハハハ。
突然大爆笑がおきました。
「いやいや、今を時めく宰相である婿どのを、驚かせるとはさすがに我が娘だけのことはあるなぁ。シャーロットよ」
シンクレイヤ侯爵が大笑いをしています。
ロッテは狼狽しました。
お兄さまを説得するのに夢中で、うっかりシンクレイヤ侯爵のことを忘れていたのです。
「女の身で、出しゃばったことを申し上げました。お許し下さいお父さま。こうして私の立場を与えていただき感謝しております」
「ほほう、末娘は殊勝な顔もできるとみえる。少しは見習ったらどうだね。フランチェスカ、アナベル」
シンクレイヤ侯爵の言葉にまだ若いアナベルが噛みつきました。
「シャーロットは、今日初めてお父さまとお会いしたから猫を被っているだけです。私だって一日ぐらいなら猫を被れますわ」
アナベルというのはシンクレイヤ侯爵家の次女でフランチェスカお姉さまに妹です。
つまりロッテにとってはもう1人の姉ということになえります。
それにしても今の発言は少しもフォローになっていないようですが……
「お父さまったら、新しい娘がこんなに愛らしい人なので、嬉しいのよ。許してあげなさいアナベル」
いや、お姉さま、それはハードル上げすぎですから。
ロッテは愛らしいと言われてはにかみました。
「ええ、ロッテはとっても愛らしい婚約者です。シンクレイヤ侯爵が快く婚約を認めていただいたこと、心より感謝いたします」
セディはここぞとばかりにオレの女です発言をぶち上げましたが、それって下手をすると逆効果になるかもしれません。
「ほほぅ。いやぁー。確かに貴公との婚約は認めましたがのう。こんなに愛らしく素直な娘。結婚までは自宅で過ごされるのが筋ではござらんか?」
ギロリと鋭い眼光でシンクレイヤ侯爵がセディを睨みました。
「いやいや、父上。我が母君がロッテに執心しておりましてね。母に免じでここは引いてくださいませんか」
お兄様がさりげなく助けて下さいました。
セディはこういった腹芸みたいなことが苦手なのです。
魔術馬鹿ですから。
「さて、セディ、ロッテ。お前たちはギルド長との約束があったんじゃないか?」
お兄さまがさり気なくセディたちを逃がしてくれました。
さすがに宰相閣下だけあってそつがありません。
「そうでした。シンクレイヤ侯爵。おもてなしありがとうございました。これで失礼します」
セディは逃げの一択です。
「お父さま、お母さま、お兄さま、お姉さま方。失礼いたします」
ロッテもにこやかに挨拶して、とっとと逃げ出すことにしました。
「おいで、ロッテ。疲れただろう」
セディはさらっと馬車の中でロッテを膝に抱き上げて、つむじにキスをおとしました。
「あの、あのセディ?」
「家では忌々しいおかあさまの目があるし、外は外で小うるさい小姑ばかりだ。ゆっくりロッテをめでることもできやしない。いっそどこかに閉じ込めてしまおうか?」
いやいやいや。
セディさん。
セディ。
ひやぁん。
なぜか演芸ギルドにたどり着いた時にはロッテは膝ががくがくしていて、セディが喜々として馬車から抱え降ろしていました。
たまには婚約者らしくしろと毒づいた罰があたったのでしょうか?