ミス・ブルックナーとのお別れ
いよいよミス・ブルックナーの授業が始まります。
ロッテは勉強が好きな優等生タイプではないけれども好奇心が旺盛なので教えを請うのは大好きでした。
いったいどんな授業が始まるでしょうか?
「シャルロット嬢。あなたは異界渡りの姫についてどのようなことを知っていますか?」
ミス・ブルックナーの最初の質問が、異界渡りの姫についてでした。
「よく知らないんですけど、この世界はいくつもの次元層みたいなのがあって、二つの次元がたまたま重なった時に、異次元の断層に落ちてしまうことがあるのかなぁと思います。つまりたまたまその瞬間に居合わせてこの世界に落ちて来た女性をそう呼ぶようになったということなのでしょうか?。」
ミス・ブルックナーは目を見開いてロッテをまじまじと見つめると、深くため息をついて聞き直しました。
「つまりシャルロット嬢の見解では、異界渡りの姫とはたまたま運悪く落ちてくるものだというのですね」
ロッテは小首をかしげました。
そう考えるのが妥当だと思うのですが、ミス・ブルックナーはそう思っていないようです。
ミス・ブルックナーは手鏡を取り出して、ロッテに手渡しました。
「よく、顔をごらんなさい」
ロッテは何が何やらわからないままに、鏡を覗き込んでみました。
別に特に美人ってわけでもないけれど、可愛いとは言えるかもしれない童顔の女性が映っているだけです。
ちらっとミス・ブルックナーを見ると真剣な表情をしてロッテを見つめています。
いったい何を見つけろといっているのでしょうか?
やがてロッテは奇妙なことに気がつきました。
なんだか瞳の色がすこし薄くなって紫っぽい色になっています。
それに黒髪も所々にメッシュが入っているように見えました。
今は黒に紛れて目立ちませんが、青みがかった銀色に染まっている部分があります。
「異界渡りの姫とは、神の祝福を受けた姫だと言われています。この世界に落ちて番を得ると、その番との親密度が増すにつれて、番の色に染まるのです。神の祝福・神の恩寵といわれる変化です。それが異界渡りの姫が神の恩寵を持っていると言われている所以なのですよ」
親密度ってつまりセディとキスしたことでしょうか?
そう考えてロッテは恥ずかしくって真っ赤になってしまいました。
それなのにミス・ブルックナーは表情も変えずに話を進めました。
「よろしいですか? 異界渡りの姫を見つけたら、必ず王に報告することになっています。それ程貴重な存在なのですよ。神の恩寵を受けた姫がいる国は栄えると言われているのですからね」
うーん。信じがたいことだけれど、確かにすこしづつ髪や目の色が変化しています。もしかしたら異界を渡るときに何かの祝福でも受けることができるたのでしょうか。
ロッテにはまったく身に覚えがありませんが、神様からチートを授けられるっていう物語なら読んだことがあります。
ロッテは朝目が覚めたらこの世界にいたので、神様にお会いした覚えなんてありません。
変に期待されても何の力も持っていないのです。
困惑しているロッテを無視してミス・ブルックナーはさらに話を進めていきます。
「前回の異界渡りの姫が落ちてきたのは今から600年前のことです。その時は王太子の伴侶になり恵の妃と言われました。王太子は空色の髪と紫の瞳を持っていたので、姫も同じ色に染まったそうですよ。落ちた時は黒髪、黒目だったのですけれどもね。しかも姫の生存中は、王国の小麦や植物が豊作になり餓えることはなかったといいます」
それは偶然かもしれませんが、今の話を聞く限り異界渡りの姫がなにか超能力を使う訳じゃなくて、なんとなく存在するだけで良いことがあるかも? ぐらいのことのようです。
奇跡を期待されている訳ではなさそうなので、ロッテもすこしほっとしました。
「今回の番は公爵家の次男坊。異界渡りの姫のお相手としては立場が低すぎます。この国の王太子もまだ未婚ですしね」
自分は平凡な小娘に過ぎないと思っていたロッテは、公爵家のご子息でも肩身が狭い思いをしているのに、なぜここに王太子なんて話がでてくるのでしょうか?
ロッテは話の展開がとんでもない方向に進みそうで怖くなってしまいました。
「シャルロット嬢がこの世界に落ちた時、王宮ではセディの番という認識でした。セドリック坊ちゃまが異界からご自分の番を呼び寄せようとされていることは周知の事実でしたから」
「けれども最近は疑問の声が上がっています。それはシャルロット嬢が番としての変化を見せていないからです。王宮としてはシャルロット嬢の番が実は王太子殿下なのではないか? という声も出始めているのです」
いったいどうしてそんな話になってしまうのでしょうか?
王太子殿下といえば王様になる方ですから、いくら独身といっても既に婚約者ならいらっしゃりそうなものです。
「王太子は、セディ坊ちゃまが本来は自分に与えられた番を横取りしようとしているのではないかとまで仰ったという噂が流れているのです。それほど異界渡りの姫というのは価値があるのですよ」
いやいや、だってセディが異界渡りの姫を呼ぶために召喚術をつかったんですよね。
しかも落ちてきた人を婚約者にすることを、王も認めていたんですよね。
「はっきり言って王太子についてはその言動が軽すぎて、その資質に疑念を持つ人もいることは事実です。しかし順序を壊すのは乱れの元です。足りない部分は臣下が補えばよい事。クレメンタイン公爵家としてもその覚悟で王家にお仕えしているのです」
「しかしこのままシャルロット嬢がセドリック坊ちゃまの番である証が立たなければ、最悪の場合セドリック坊ちゃまのお命すらあやうくなりかねません。」
「ですからシャルロット嬢。できうる限り速やかに色を纏ってください。色が変化した異界渡りの姫は、変化させた番のものと昔から決まっております」
「あの、ミス・ブルックナー。それってまさか……」
ロッテがしどろもどろになってミス・ブルックナーに質問しようとするのをミス・ブルックナーはぴしゃりとはねのけました。
「よろしいですか?純潔の乙女でも、心から婚約者を愛すれば色を染めることは可能です。それともシャルロット嬢。セディ坊ちゃまがお嫌いですか? セディ坊ちゃまがどうなってもいいとおっしゃいますか?」
ブンブンと必死になってロッテは首を振りました。
まさかセディが殺されてもいいなんて思ってませんとも。
それにそれに、けっこうセディのことは好きかも……。
少なくとも、あったこともないのに異界の姫ってだけで興味を持った王太子なんかよりはずっと……。
「よろしいシャルロット嬢。少しは色の変化が進みましたね。この調子でどうかセディ坊ちゃまを大事にしてください。セディ坊ちゃまはあの召喚術に25年を費やしたのですよ。」
「はい、ミス・ブルックナー。私ができますことなら喜んでセディを支えますわ」
ロッテがそう答えるとミス・ブルックナーはにんまりと笑いました。
「よろしい。私が教えることはもう何もありません。明日からは専門の先生方がまいりますから、しっかり学ぶのですよ」
うそー!
つまりミス・ブルックナーって、可愛い教え子のセディの恋路を応援するためにロッテの家庭教師になっただけだったのですか?
お姉さまはロッテがセディの番であることを自覚させようとして、ミス・ブルックナーを寄越したのでしょう。
残念ながらどう考えても王太子殿下とセディとでは勝負になりません。
こんなに腹黒な方たちが付いているんですもの。
ロッテが驚きのあまりわたわたしていると、ミス・ブルックナーは、黙って手鏡を渡してくれました、
恐る恐る覗き込んでみると、なんとロッテの姿はミス・ブルックナーのお話を聞くうちにすっかり変化していました。
髪は青い光を帯びた銀色で、瞳は菫色に染まっています。
身体は今までよりほっそらとしていますし、もともとキメの細かい肌はミルクみたいに白くなりました。
しかも髪がさらさらと腰あたりまで伸びて、身体を覆っています。
確かにロッテは、王太子と結婚させられるのは絶対に嫌だと思いました。
そしてセディを守りたいと心から願いました。
ただそれだけでなんと見事に変化してしまったのでしょう。
ロッテはどうやらセディを本気で番だと認めたようです。
番を持った異界渡りの姫が、こんなにも劇的に変化するのですから、いつまでも黒髪のままだったロッテは王太子の番だと勘繰られてもしかたなかったんですね。
それを認めさせるためにミス・ブルックナーを使ってこんな大芝居をうったと……。
確かにしょっぱなにミス・ブルックナーに鞭で打たれてから、ロッテにとってはミス・ブルックナーはこの世で一番怖い人でした。
そんな人の言葉ですから、必死で考えようとすることができました。
同じことを別の人に言われたらロッテは、はぐらかしてしまったかもしれません。
本気で向き合わなければならないところまで、ミス・ブルックナーはロッテを追い込んでいったのです。
「ひどいわミス・ブルックナー。みんなして私を騙しましたのね」
ミス・ブルックナーは今までみたことのないほど、柔らかに微笑みました。
その笑顔を見てロッテは確信しました。
ミス・ブルックナーは子供たちに慕われていた家庭教師に違いありません。
傘を持っていなくても、魔法が使えなくてもミス・ブルックナーみたいな家庭教師になら勉強を教えてもらいたいなぁとロッテは心から思いました。
「ミス・ブルックナー。どうもありがとうございました」
ロッテは思いっきりミス・ブルックナーに抱き着きました。
ミス・ブルックナーは優しくロッテを抱きしめて耳元でささやきました。
「幸せになるんですよ。可愛い私の教え子さん」
ロッテはたった2日でミス・ブルックナーから卒業しました。
それはロッテの力ではなく、全くミス・ブルックナーの力量によるものでした。
教師というのは凄いものだなぁ。
ミス・ブルックナーとお別れをしたあと、ロッテはしみじみとそうおもいました。
恩師といえる人がある人はとても幸せです。
そしてロッテの恩師はミス・ブルックナーです。
これからきっと高名な先生方がいらっしゃるでしょうけれども、ミス・ブルックナーは別格なのだと、ロッテは思うのでした。
「お帰りなさい」
そう言いながら出迎えたロッテを見た時のセディは見ものでしたよ。
感に堪えたようにこういったんです。
「僕の番になってくれたのですか?」
ロッテが黙って頷くとセディはロッテをだきしめたまま、いつまでも離そうとはしませんでした。
そのうちロッテは暖かいものが自分の頬を濡らしているのに気が付きました。
ようやく巡り合えたのだと、ロッテはそんな深い安堵に包まれたのでした。