婚約していました
ミス・ブルックナーはたった1時間しか滞在しませんでしたが、凄まじい破壊力でした。
「ミオ様。いいえ、シャルロットお嬢様。すぐに手当致します」
ベッキーがミス・ブルックナーの姿が消えるやいなや、私のもとに駆けつけてくれました。
「家に帰ったはずじゃなかったの? ベッキー。どうしてここにいるの?」
「セディさまがお兄さまからの呼び出しがあって出かけるから、シャルロットお嬢様の面倒を見てくれるように言われたのです。大体の事情もうかがっておりますわ」
「ありがとう。ベッキー。正直あなたがいてくれて助かるわ。少し手をかしてもらうわね」
「はい。とにかく治療をいたしましょう。痛そうですね。お嬢様」
「大丈夫よベッキー。これぐらいすぐに治療できるわ」
ロッテは両手の平を見つめながら、ゆっくりとマナを手の平に集めました。
そうして傷がきれいに塞がっていくのをイメージします。
「まぁ、お嬢様。無詠唱でとてもきれいに治してしまわれましたね」
ベッキーが目を丸くして驚いています。
しかしロッテは、アラサーー世代のイメージ力をなめないで欲しいと胸をはりました。
なにしろ長年の経験で妄想ならお手のものですから。
「ベッキー、少し手を肩を貸してくれるかしら」
ベッキーの手をかりてロッテはよろよろとソファーに横になりました。
「お嬢様。筋肉痛は治療しないんですか?」
そう思うのは当然ですが……
残念ながら治療してしまったら、今までの苦労が水の泡です。
筋肉痛になるということは、筋肉に細かい断裂が入っっている状態です。
魔法で治療すると、元通りにはなりますが、筋肉が増えることはありません。
自然にまかせておくと、もとの筋肉よりも強い筋肉がつくられるんです。
たった1時間の訓練ですけれど、腹筋も背筋もそれに内太ももの筋肉もとっても痛いんです。
せっかく苦労して筋肉をいためつけたのですから、無駄になんかしたくありません。
ベッキーはロッテの説明を聞いてもよくわからないようですが、それでも納得はしてくれました。
この世界では体罰が当たり前なんでしょうか。
体罰は子供の成長に役にたつどころか、暴力行為を助長したり子供が鬱的傾向に陥ったりするという研究結果が出ているというのに。
こういった価値観を変化させるのは大変難しいことです。
体罰をうけて育てば体罰を与えるのが当たり前だと、今度は自分が体罰を与えるようになるからです。
その証拠にセディですら、目の前でロッテが鞭で打たれても抗議しませんでした。
少しづつでも良いところを認め伸ばしていく教育方法を広めるしかないでしょう。
けれどもミス・ブルックナーがおっしゃっていることは、少しも間違いではありません。
貴婦人ともなれば、立ち居振る舞いからその表情まで厳しくチェックされるものです。
身分が高いほど求められることも厳しくなっていくのはしかたがありません。
ロッテが不作法な振る舞いをすれば、ロッテの実家ということになっているシンクレイヤ侯爵家が物笑いの種になってしまいますし、お兄さまやお姉さまの面目も丸つぶれになってしまいます。
ロッテを庇護しているセディやクレメンタイン公爵家だって例外ではありません。
だからロッテとしてはなんとしても貴婦人に相応しい礼儀作法を身に着けるしかないのでした。
「ねぇベッキー。明日は何時くらいにミス・ブルックナーがいらっしゃる予定なの?」
ロッテがそう質問すると、ベッキーはいかにも気の毒そうな様子で答えました。
「明日の午前中はマンションのお部屋でシャルロットさまのお仕事の説明があって、そのままお仕事をしていただきます」
「昼食はミス・ブルックナーと御一緒に召しあがることになっていまして、この際には専用の侍女も参ります。ちなみにミス・ブルックナーが納得できるお作法が体得できるまで、お昼は必ずミス・ブルックナーと御一緒に召しあがることになっております」
「昼食後、ティータイムまでが、お勉強の時間になりますが、シャルロットさまの学業が専門の教師が教えているのと同じ難易度に到達するまで、これもミス・ブルックナーが担当いたします」
死にます。
絶対に無理です。
あのミス・ブルックナーと毎日昼食を食べるなんて、どんな罰ゲームですか。
しかも授業もミス・ブルックナーが担当。
ロッテはあまりのスケジュールに眩暈がしてきました。
「ねぇ、ベッキー。ミス・ブルックナーは何歳くらいの子供を教えてきたのかしら?」
とうとうベッキーの顔がひくひくと引きつり始めています。
ロッテがジト目になって続きを促すとしぶしぶ答えてくれました。
「家庭教師といわれる方は6歳からお勉強を始めて12歳までを担当されます。12歳からおよそ10年間をかけて各科目の専門家である教授と呼ばれる方が必要な知識を教えます。この教師は何人もつくことが多いですよ」
つまりミス・ブルックナーは小学校の先生ってこといいでしょう。
ロッテは28歳にもなって6歳児並みだと認定された訳です。
よく小学校からやり直せ! なんて罵倒することがありますけれど、ほんとうに小学生からやり直すことになるなんて!
公式にはシャルロット嬢は25歳です。
立派な大人ですし、教授陣の講義だって終了している年です。
なのに6歳児扱いで家庭教師を頼まれるなんて!
しかも王族直々にです。
ミスブルックナーはそんな依頼をうけてどう思ったでしょう?
身内の恥を託されたと感じてもおかしくありません。
ミスブルックナーの初日の意気込みもわかるというものです。
ロッテはどれだけできない子認定されているんでしょうか?
お姉さまですわね。
絶対にお姉さまの発案ですわ。
ロッテが鬱々と考え込んでいたので、心配したのでしょう。
ベッキーがカフェオレと、美味しそうなケーキを用意してくれました。
ちゃんと自分の分も用意しています。
「さぁ、お嬢様。少なくともお茶の時間は自由なんですもの。たっぷりと楽しんで下さい。」
ニコニコと笑う顔が天使に見えます。
「ベッキー、大好き!」
ロッテはがばりとベッキーに抱き着いてしまいました。
ベッキーはびっくりしたような顔をしましたがすぐに、にっこりすると背中をトントンと優しくたたいてあやしています。
さすがに弟妹を育てているだけありますね。
赤ちゃんみたいな振る舞いを反省したロッテですが、時々はベッキーに抱き着こうと決意しました
なぜならベッキーのお背中トントンは絶妙な力加減で至福なんです。
お茶が終わってベッキーが帰ってしまうと、ロッテは歴史や地理。古典や宗教学などの本を選び出して読み始めました。
いつまでも小学生扱いされたくなければ、知識をつけるしかありません。
実際この世界の地理も歴史も、貴族として知っておくべき古典や音楽。それに絵画などの知識量が圧倒的に不足しているのです。
そうやってロッテが黙々と勉強しているとといつの間にかセディが帰ってきました。
「お帰りなさい、セディ」
それを聞いたセディは見ものでした。
それこそ首まで真っ赤にして嬉しそうに破顔したのです。
「ただいま。ロッテ。待っている人がいるっていいものだね。まるで新婚さんみたいだ。これから毎朝ここで朝食をとって夕食も食べに戻るからこれからもずっと『いってらっしゃい』と『お帰りなさい』を言ってね」
ロッテは無意識に口にしたことでセディがこんなに喜んでくれるとは思ってもみませんでしたが、素直に頷きました。
「ええ、セディ。それくらいならお安い御用よ。不思議だわ。セディが嬉しそうにしていると私もなんがか嬉しくなっちゃうんですもの」
「ありがようロッテ。嬉しいよ。ところで大丈夫だったかい? 姉上もあんまりだ。ミス・ブルックナーを頼むなんて! しかも父上までまきこんでさ。これじゃ反対もできやしない。我慢しておくれね」
そしてしげしげとロッテの手のひらを眺めました。
「大丈夫よセディ。自分で治癒術をつかったから。ほらもうなんともないわ」
「ほんとうに大丈夫なのロッテ。あの後またぶたれたりしなかった?」
ロッテは困ってしまって、視線を彷徨わせました。
だってぶたれたと言えば理由を言わないといけなくなります。
女の子がお尻をつきだして、物を拾ったなんてさすがにセディにはいえません。
ロッテが言い淀んでいるので、全てを察したのでしょう。
セディはロッテ私の手を掴むと、手の平に口づけを落としはじめました。
「なにしてるのセディ。恥ずかしいからやめて!」
ロッテがさけんでもセディはやめるどころが、せっせと手の平中にキッスの雨を降らせます。
「くすぐったい! セディやめてったら!」
セディが手を離したのでロッテが安心すると、セディはなんと今度は反対の手のひらにキスをはじめました。
「キャァー」
ロッテが思わず悲鳴をあげると、いつの間にかセディの顔がロッテの目の前にせまりました
やばい!
とロッテが思ったとたんに今度は唇にキスされました。
最初に出会った時とはくらべものにならない、熱のこもったキスでした。
「ひどいわ、セディ」
ロッテが恨めし気にいうと、セディは涼しい顔をしています。
「僕たちは婚約しているんだよ。知らなかったの?」
「知りません、知りません、まったく知りません。だってシャルロットの存在を知らされたのは昨日ですよね。いったいいつの間に婚約したと言うんですか?」
セディがうれしそうに説明したところによると、25年前シャルロット誕生と同時にセドリックとシャルロットの婚約証書が作られたといいます。
これは当然正式なもので、すでに王家にも届け済みなんだとか……。
いや、いや無茶すぎるでしょう。
いくらかわいい息子でも召喚が失敗した時のことは考えなかったんでしょうか?
ロッテのそんなの気持ちが顔に出たのでしょう。
セディはにやりと笑うと言い切りました。
「この僕がさ。術式を失敗するなんて思うの? すくなくとも家族は知っていたんだ。僕が召喚術を成功させるってね」
そうしてロッテの頭をゆっくりと撫でると目を見つめて約束しました。
「大丈夫だよ。ロッテ。ゆっくり進もうね。だから安心して」
ロッテはこれぽっちも安心できませんでした。
だってセディはそのあと小さな声で呟いたんですよ。
「そのほうが面白いしね」
って!