中断のおしらせとおわび
なんか、いろいろ考えたのだが、ぼくが書きたいようなことは『シルヴィーとブルーノ』に全部書いてある。だから、『シルヴィーとブルーノ』読みなさい。
「違った量子力学」として、「江戸文明システムが自然と生み出すことができた量子力学」を想定していた。しかし、量子力学とは文芸的な固有性においてあるものであって、なんら内容をもたない量子力学という概念は、世界観としてすら役に立たない。
SFが量子力学の現実の展開を本歌取りして、歪曲することによってはじめて成立するとしても、「量子力学」という言葉を使えばSF、(もしくはカラーセラピー小説)というのは無理があるのではないか?
あるいは、量子力学以前の科学技術への幻想や郷愁こそ、新しい中間小説の表現を開くのかもしれない。たとえば、熱力学を考案したクラウジウスと神学者の平田篤胤は、ほぼ同時代の人である。たとえそれが、『銀河鉄道の夜』の柳の下の泥鰌になるとしてもだ。
そもそもぼくは、「タイムマシンがありうる世界」から、ある日突然「タイムマシンのない世界」に異世界転移した。振り返ってみれば、そういう心当たりがある。それが、ぼくの十代における「物意の憑いた日」だったのだ。