柏原からの旅立ち
「おっ母さん。」さとは、継母の雪・ゆきに向かって語りかけた。
「もうお前はおっ母さんだけのさとではありませんよ。きちんとご奉公して、亡くなったお父っつぁんを安心させてあげるんですよ。」そう言って、雪はさとを胸に抱き寄せた。
信長は本能寺で死ななかったのである。茶会でのほんのちょっとしたきっかけから光秀の陰謀はあっけなく露見した。本能寺で信長は光秀の首を肴に盃を酌み交わした。長期政権を敷いた信長の死後、羽柴秀吉は嫡男・信忠をひきいて七年ほど戦ったが、多治見の戦いで柴田勝家の軍に敗れ、自害した。
権力中心を持たない日本に、ポルトガルの制覇を食い留めるすべはなかった。わたしたちの知るような織豊政権がなかった結果、検地は地下の自由意思によって一部地域でのみおこなわれた。秀吉の海賊停止はなかった。そうこうするうちに、後期倭寇のなかから張方達がおこって南京を襲い、後元を建てた(1632年)。後元と後金は華中をめぐってはげしく争った。清はついに建国されなかった。
朝鮮出兵がなかった結果、半島の社会体制もこの異世界においては違ったものになった。佐々成政は直峰の戦いで上杉景勝を滅ぼし、頸城群福島の福島城に移った。
オランダはポルトガルと争っているうちにイギリスに勢力を奪われ、かわってゼーラント城を死守した。イギリスは宣教師を送り、百年戦争下のフランス南部でフランス国王派、フランシスコ派、ドミニコ派が自由宣教したのと同じような宗教的無法状態が日本に訪れた。
室町が、京にかわって安土を中心に、さらに三百年つづいたような異世界だった。石見銀山の銀と佐渡銀山の銀をめぐって大名田堵が相あらそった。輸入超過の結果生活は向上した。現実世界と違い、士層と百姓の分離は不徹底だった。
きりしたんの讃美歌の影響を受けて、俳諧連歌は五七五の音律をすて、「梵讃」となのる国粋主義的な定型詩となった。さとの父は、梵人-梵讃風流の徒の、小林一茶だった。宋医の医学によって、さとの幼い命は救われ、後妻に迎えた田中雪も、子はかすがいで、一茶との結婚関係を長く続けた。宋医の「宋」とは、栄罣利-イギリスをあらわす「栄」が訛化したものともいわれる。
別れの時が来た。口べらしのため、雪は数え年13歳でさとを奉公に出すことにした。北国街道を下って(善光寺が上)、さとは越後国福島城下のさる武士のもとに行き、家事手伝いをすることになる。雪は、火打ち石を切った。「達者でのう、さと」「おっ母さんも。」
さとは、街道を北に向かって歩み出した。
「中世」とはどんな時代でしょうか。この作品での中世のイメージは「科博の人類誌展示の中世」です。マスケット銃の導入でさらに多様化し、さらに普遍化・全面化した中世なのです。その意味では、中世は唐木順三的なまでにいまなお続いているのです。