看板の掛け替え時
「ねえ、アッシュ」
振り降ろされたフォークが皿に当たってキンッ、と快音を立てる。その音は皿の上に何もないことを示すものではない。
「なんでしょう?」
「どうしてこの鶏肉はこんなにも薄っぺらいのかな」
だからと言って今の彼らに十分な食料があることを示すものでもなかった。
「そりゃあユキ店長が儲かりもしない銃屋を経営し続けた結果、とうとうまともに食料を買うこともできなくなったからです」
まったく、私の給料だって半年も我慢しているんですよ。
アッシュがその長い灰色の髪を指でいじりながらぼやく。
彼女の生活費はそのほとんどが店の経営資金から出ていることをユキは知っているが、あえて指摘する意味もない。ここでいう彼女の給料とは、すなわちお小遣いのことである。
「じゃあもしかして……」
「もしかしなくても、今の鶏肉が最後の晩餐です。もうお店に残っているのは私の退職金くらいのものですよ。強いて言うなら、あとは大量の売れ残り在庫くらいですかねぇ」
アッシュはそれが当然とでも言いたげに自分だけ助かる腹積もりのようだ。
ユキはどうにかアッシュの退職金を分けてもらえないかと思案するが、彼が雇用主で彼女が店員である以上、たとえ彼が破滅しようともそればかりは社会的に許されそうにない。それに借金だってあるのだから少しくらいお金があってもその場しのぎにすらならない。ならば、と彼が師匠から引き継いだこの店のすべてを売り払ったとして、新市街から遠く外れた旧市街の店舗の資産価値などたかが知れている。倉庫の方はまだ少しまともな値がつくかもしれないが。
いっそのことわざと刑務所に入って食事と寝床だけでも確保してしまおうか。そんな暗澹たる発想もいよいよ現実味を帯びてきた。
「どうにかして今日中にひと仕事しないと死ぬな、僕」
「死にはしないんじゃないですか?最近の社会は意外に優しいんですよ。警察さんの前で私の胸を揉んでくれればすぐにでも食事を用意してくれます」
ユキの考えはアッシュに読まれていた。
「というか真面目な話、私とユキ店長のチカラがあれば仕事なんて簡単にこなせるんじゃないですかね。夢の一発逆転、億万長者ですよ」
「君は強盗にでもなるつもりかい?」
「はい。国の金庫でも襲ってみましょうよ」
ユキにはにこやかに答えるアッシュの真意を測りかねた。
チカラ、超能力。
魔法とは違い、人類がいまだにその本質を解明できていない不治の病。大陸中央の汚染地域に近づけば近づくほどその感染率が高くなり、感染すれば本人ではなくその胎児に影響を与える。およそ八割の確率で胎児を殺すその病気は、命をもって生まれた奇跡の赤子に呪われた鱗の宿命を背負わせる。
ユキとアッシュはそんな鱗を持つ能力者として生きてきた。
「いや、僕は遠慮しておきたいね。金庫を襲うことはともかくとしても、自分の能力なんて使いたくもないよ」
痒くもない黒髪の頭をぼりぼりと掻く。
いつもの調子なユキに、アッシュもまたいつもの調子で自身気に胸をはった。
「意固地ですねぇ。そんなだからこんな状況になるんです。ほらほら、背に腹は代えられませんって。能力者の犯罪なんて珍しいものでもないんですし、私逃げ切りには自信がありますよ」
「君には見捨てられそうだ」
冷めた鶏肉を一口で押し込んだ。味付けも薄く、申し訳程度に絡められた調味油が舌の上でぬるく波打つ。
「うーん、困りましたね。我ながら妙案だと思ったのですが……もうこうなったら、私からできる提案はあと一つです」
「ほう。聞かせてくれない?」
アッシュは気が進まないのですが、と前置きして、でも一番順当な手段ですよ、と保険をかけたうえでユキに告げる。
「この店の看板を掛け替えましょう。幸い、今日は平日です」
「さ、着きましたよ」
店を出たのは昼過ぎだったが、ユキがアッシュの案内で『竜の巣』に着いたのはもう日も傾きかけた頃だった。
「どうして僕はここに案内されたんだろう」
「目的の一つは今日の晩ご飯分だけでもいいから働かせてもらうということともう一つ、私はそもそも普段からここで働かせてもらっているんですよ」
「ん?君はここの店員も掛け持ちしていたのかい」
語尾を上げ、ユキが軽く問いかけると、アッシュはむぅ、と考えるそぶりを見せた。が、本当に何かを考え込んだというわけではないのだろう。
「少し違いますが、兼業という点では当たっています。逆にユキ店長は、私が本当にあの店だけで生活できていると思っていたんですか。私にはこんなに魅力的な身体があるんですよ?」
ユキ店長は純粋ですねえ、とわざと胸を強調するポーズをとってふざけるアッシュ。
ユキは彼女が人の心を扱う最前線ともいえる夜の接客業ないし性風俗業に適応しうるだろうかと一瞬本気で考えて、即座に否定した。もし仮にアッシュの性格でそのようなことをすれば彼女が所属する店が不審火に見舞われるか、彼女の相手した客が片端から逮捕ないし変死体として発見されることになるだろう。
「ということは能力を使った裏稼業というわけか」
「ご明察ですユキ店長。このバーでは引き受けることを決めた仕事の依頼人と細かい打ち合わせをさせていただいています。今日来たのはちょうど報酬をはずんでくれそうな依頼人がいたので、その仕事を受けさせていただくという報告を兼ねた顔合わせのためです」
「僕は要るのか?」
その話だと彼女一人で十分、いや自分が余分と言うべきか。
ユキは極力面倒を避けたかったが、アッシュのあきれ顔を見るにそうはいかないようだ。
「何を言っているんですかユキ店長。働かない人と報酬を山分けなんてできないでしょう?それに今回の依頼は私一人では力不足のようでして。ユキ店長の能力が使えれば最高だったんですけれど、使いたくないならそれでもいいです。代わりにユキ店長にはホコリを被っている在庫品を存分に活躍させてくださいよ」
普段は力量以上の依頼は受けないようにしているんですが、背に腹は代えられませんし。そう言いつつアッシュは店主にもう話をつけてあるようで、裏口から顔を出した店主らしき男性に手招きされるままにバーに入る。
あまり上等といえるようなバーではなく、一応の清潔感だけは保っているようだ。隠れ家的な魅力は無く、平日の黄昏時から酒を嗜んでいるような常連客などもいない。「いやはや、ほとんど趣味で嗜んでいるようなものでして。アッシュさんのような方がお客さんとの待ち合わせに使ってくれるから続けられているのですなぁ」とは店主の言葉である。
とりあえず夕食の分を働かなくてはならないのでユキは制服に袖を通したのだが、特にやることがない。店内を軽く清掃し、グラスを洗って磨き、酒の在庫を一通り確認するともうやることがなくなってしまった。
そんなわけで見張りはアッシュに任せて、というより待ち合わせという都合上アッシュにしかできないので、ユキはしばらく店主の男性と世間話をすることにした。
「ユキさんでしたかな?たしか銃屋を経営しているとか」
「ええ。僕の師匠が遺した店なんですが、正直全然稼ぎにはなりませんね。やはり警察や軍が魔法を採用している以上、所持が許されているとはいえ民間相手に売れる銃なんてたかが知れています」
「おや、師匠はもうお亡くなりになっているのですかな?」
遺した、という言い方に引っかかったのだろう。ユキ自身そうかもしれないとは思っているが、確認が取れていない以上認めたくはなかった。
「いいえ、ですが半分正解です。失踪したんですよ。できる限り探してはいるのですが、なにしろ資金に苦しくて。もう切る身も残っていないのでここで夕食分を確保したら看板の掛け替えです」
「ほぉ。それはまた苦労なさっていますようで。しかし銃ですか……売る相手を選ばなければ買ってくれそうなものですが」
「そうですねぇ……」
一応言うだけ言ってみたという風の店主に、正直に言うべきか迷うところだったが言うことにした。
「実は一度『ラスティ・ダイヤモンド』の下部組織に売ったことがあったんですがね、見事に踏み倒されちゃいました。まだ半分も回収しきれていなくて」
「なるほど。それは災難でしたな」
『ラスティ・ダイヤモンド』は巨大な組織と化したゴロツキ集団で旧市街地の非合法活動を一手に引き受けており、新市街地や都会の方でも麻薬や非合法の改造魔法を金持ち相手に売っている。時折他の組織と抗争を繰り広げており、特に新市街地の方では支配地域を巡ってたびたび改造魔法が飛び交う。
もちろん魔法より銃の方が利便性では劣るものの安価であるため、ゴロツキどもの鉄砲玉にはよく銃が配られているのだ。ユキが売った銃もそこに流れている。
と、そこまで世間話をしたところで来客を知らせるドアベルが鳴った。
ユキがカウンターに出て入り口を見やると、ややくたびれた黒いスーツを着た初老の男性が入ってきたところだった。おそらく都会の方で働いているのだろう、目の下には長年の仕事疲れを体現するかのように薄い隈が表れている。
バーでの作法を知らないユキがいらっしゃいませを言うべきかどうかを迷っている間に、男性はカウンターの席に着いてしまった。せわしなく店内に目を走らせている。どうやら急ぎの用事があるらしい。
「今日は何にします?」
アッシュが男性に声をかける。男性はいそいそとメモ帳らしきものを取り出し、ページをパラパラとめくって、注文を返す。
「果実酒。中でも悩みを打ち消すような、強めの朱色が出ているものを」
意味不明。ユキは心の中でそう思った。バーの客というのはもしかして全員こんな感じなのだろうか。注文が抽象的過ぎて、何をしたらよいのか分からない。しかし一応仕事をしないことには夕食にありつけないので、とりあえず赤っぽい果実酒を出せばいいだろうかとユキはいくつかの酒瓶に手を伸ばす。
それに重ねるようにして、アッシュが男性客に応対した。
「カーマイン氏ですね。お待ちしておりました」
「ということは、あなたがアッシュか。ここにいるということは……」
「ええ。引き受けさせてもらいます」
突如始まったやり取りにユキがあっけにとられている間にも、カーマインと名乗った男とアッシュの取引は進んでいく。
「そうか!よかった。しかし、すまないが事前に伝えた情報に大きな変更点があるんだ。それでもどうにかなるだろうか」
「もちろんです。時を遡れとでもおっしゃらない限り、全力で取り組ませていただきます。ですがその分は追加で頂きますよ」
「いくらでも構わんよ。そうだ前金のことだが……」
「ああ、それならいりません。我々は今回から新体制ですので」
「我々……?」
怪訝な顔をする男性。アッシュの目配せを受けて、ユキは自己紹介をするべき場面であると気づく。
「ユキです。しがない銃屋の店長をやっております」
軽く頭を下げる。過去形にしなかったのはユキなりの意地だった。
「あの、アッシュ。説明してもらわないと僕はこの男性がどういう人なのかわからないし、取引にも信用を持ってもらえないと思うんだけど……」
「そうですね。では紹介いたしましょう。カーマイン氏はですね……」
「いや、いい。あなたが共に仕事をするというのなら、信用のきく方なのだろう。依頼については今夜のことも含めて、改めて私から説明させてほしい」
説明をし始めたアッシュを遮って、カーマイン氏は言う。
「ユキと言ったな。説明するとはいったが、細部をどうこう言っている時間は残念ながらない。だから単刀直入に言おう。暴走する私の娘を、力づくでも止めてほしい。どんな手段を使っても構わん」
「はあ」
「……最悪、殺してしまってもいい」
なんと過激な人だろう。ユキの脳裏にはいつだったか、銃の買い手とトラブルになったときにアッシュが迷わず能力を使って相手を沈黙させてしまった場面を思い出す。
勿論そのとき殺してはいない。
「カーマイン氏、変更点というのは?」
ボケっとしているユキに代わり、アッシュが話を先に進める。
「それは依頼の際に伝えていた日付が今日、今晩になるということだ」
カーマイン氏はさらっと答えたが、この返答により二人は慌てて『竜の巣』を後にすることとなった。目指すは旧市街地にある廃墟の広場。そこでカーマイン氏の娘が決闘を行うらしい。
「僕の夕食は?」
「そりゃ抜きですよ。諦めて依頼を終わらせることに集中してください」