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カンナガラ  作者: 醒
冬空に飛ぶ
9/11

冬空に飛ぶ:終

「ふわぁ……」

 筆でこすったような薄青の空を背に、曲直瀬燐太郎は大あくびをした。

 水秦神社の境内に、冬の陽射しが穏やかに降り注ぐ。現在時刻は午前九時。年の瀬が近い土曜日で、これから参拝客が増える見込みだ。

 着慣れた白衣と浅葱の袴は燐太郎の長身にしっくりと馴染み、訪れる人を迎えるのにふさわしい風情である。

 しかし服装が相応でも、当人の目が長い前髪の下で半分閉じかかり、一分ごとにあくびしている有様では形無しであった。

 燐太郎は手にした箒に寄りかかり、目尻の涙を拭く。

(今なら立ったまま寝られるな)

 ひとえに寝不足だ。

 マンション敷地への侵入と一連の人に言えない活動は、それでも二時前には終わったのだ。

 問題はそのあとだった。

『人をパシらせといて、もう全部済んだってどういうことよ! 馬鹿にするにも程があるでしょ!』

 助手席で膝を抱えて籠城体勢になった杏子は、抗議ともお説教ともつかぬ繰り言で燐太郎を延々と引きとめた。

 結局、帰宅が叶ったのは朝四時。起床の一時間前であった。

「参ったねぇ、と……いてっ」

 背を反らして伸びをし、左腕の攣れるような痛みに顔をしかめる。

(まあ、手当ての礼はあるか)

 なかなか帰れなかったのはこのせいもある。

 杏子は燐太郎の流血に気づくと、文字通り血相を変えた。

 まさか、人の顔をした全長三メートルの蜘蛛に引っかかれたなどとは言えない。どうにか救急車は勘弁してもらい、杏子の質問攻めもかわしきったが、深夜営業の薬局で仕入れた包帯を巻く幼馴染の表情は明らかに納得していなかった。

 そんな昨夜の大冒険の結果がどうなったのか、燐太郎はまだ知らないのだが。

(あの様子なら、早々にわかるだろう)

 それまでに掃除を全部済ませてしまおう。石段を上ってきた老夫婦に会釈しつつ、彼は箒を握りなおした。


     ◆


 杏子がやってきたのは昼過ぎだった。

「来たかね」

 授与所の窓から声をかけると、彼女は唇を尖らせる。

「その予想してた風の言い方、イラッとすんだけど」

 社務所の広間へ上がった杏子は、表情の作り方に迷っているように見えた。燐太郎は茶を淹れながら、彼女の言葉を待った。

 境内から子供のはしゃぐ声が聞こえてくる。

 杏子は湯呑を手にしてしばらく無言だったが、やがて口を開いた。

「今朝、電話があったの。――佳弥ちゃん、目が覚めたって」

 燐太郎は軽く目を瞠る。

「そうか……よかった」

 深く息をついて煙草を咥えた。杏子がそれを見咎める。

「ちょっと、今くらいやめなさいよね」

「何だね。ここは俺の縄張りだぞ」

「燐太郎には客をもてなすって概念がないわけ?」

「客?」

 ものすごい目で睨まれたので、燐太郎は煙草を箱へ戻した。痛い目はあまり見たくない。代わりに彼は、机の端にあった小さな木の札を手元で弄ぶ。

 杏子は机に両肘をつき、組んだ手の上に顎を載せた。

「ねぇ、これってやっぱり、ゆうべ燐太郎がやったことに効果があったってことになるの?」

「さてね。偶然かもしれん」

 杏子は深々と溜息をつく。

「あたし、あんたのそういうとこ、すごく嫌」

「……そいつは、どうも」

 間の抜けた返答をしたものの、燐太郎は内心それなりに動揺した。

 目を伏せた杏子が、ひどく傷ついたように見えたからだ。怒られるのは慣れているが、こういう顔は困る。

 しかし杏子はすぐにその表情をひっこめ、燐太郎の顔を覗き込む。

「ちゃんと説明してよ。ゆうべ、あの空き地で何やったの?」

「言っただろう。ちょっとした儀式だよ」

「そればっかり。怪我するような儀式なんて聞いたことないけど」

 杏子は指先で湯呑の縁をなぞる。パールピンクの爪が蛍光灯を反射した。

「燐太郎さ、『(スジ)に囚われている』って言ってたよね。あの空き地がスジで、あそこに佳弥ちゃんがいたってこと? その、佳弥ちゃんの……魂、が?」

「正確には少し違うが、そんなところだ。佳弥は人の多い公園を避けて、あの場所で遊んでたんだろう。だが、あそこはいささか特殊な場所だった。それで、ちょいとばかし悪いもんに捕まっちまったのさ。当人の素質もあるだろうがね」

「だから、儀式とかいうやつで、その『悪いもん』をお祓いした?」

「あっち側にお帰りいただいただけだが、だいたい合ってる」

 燐太郎は手の中の札に視線を落とした。

 札には幾何学的な模様が描かれている。杏子が昨夜、空き地まで同行していたら模様に見覚えがあったかもしれないが。

「その『あっち側』って何なのよ」

「俺も知らんよ」

「はぁ!?」

 横目で睨まれたが、燐太郎は肩をすくめるしかできなかった。事実なのだ。

 ――我々の知る現世(うつしよ)は、世界の一部にすぎん。

(爺さんはそう言ってたっけな)

 燐太郎の思考をよそに、唐突に杏子が机に突っ伏す。

「あー、もうっ!」

 すぐさま彼女は、がばりと身を起こした。

「結局、大事なこと何にも教えてもらってない気がする!」

「そんなこたぁない。わりと正直にお伝えしてるぞ。俺にもわからんことばかりって話だ」

「神主のくせに」

「神主だからさ」

 さほど含蓄のあることを言ったつもりはなかったが、杏子はふっと口を閉ざした。

 視線が宙を泳ぐ。

「雫さんだったら――」

 彼女が何を言おうとしたのかはわからない。

 杏子は不意に夢から醒めたかのように瞬きをし、湯呑を置いた。

「帰るわ。お店ちょっと抜けてきただけだし」

「慌ただしいな」

「あたしだって忙しいのよ。わざわざ報告に来てやったんだから、感謝してよね」

「恐悦至極」

 拝んでみせたら思いきり嫌な顔をされた。

 立ち上がってダッフルコートを羽織る杏子に、燐太郎は声をかける。

「アンズよ。佳弥のこと、今後も気をつけておいたほうがいいぞ」

「そのつもりだけど、何で?」

「少しばかり、人を寄せん性質みたいだからな」

「燐太郎、佳弥ちゃんに一度も会ってないじゃない」

「まぁ、そうなんだが……そんな気がしただけだ」

 杏子は不思議そうに首をかしげた。

 ふたりして社務所の外へ出ると、日はまだ高い。東京の冬はよく晴れる。

「じゃあね」

「ああ、気をつけてな」

 立ち去りかけて、杏子は振り向いた。

「……言い忘れてたわ」

 肩越し、困ったかのような顔。

 ポニーテールが揺れる。

「佳弥ちゃんを助けてくれて、ありがとう」

 燐太郎が何か言う前に、杏子は駆け去った。頬が赤かったような気もしたが、寒風のせいかもしれない。

「……やれやれ」

 ひとつ頭をかき、肩をすくめた。

 商店街から、かすかにクリスマスソングが聞こえてくる。年末を控え、鳥居越しに見える町には活気が漂っていた。

 ふと、潜行中に聴こえた佳弥の声を思い出す。

 ――わたしはひとり、と。

 少女は、言った。

(七歳か。いささか早いような気もするが)

 意識に蘇るのは、いつかの夕暮れ。

 友人の声、都電の発車ベル。あらぬものどもの立てる音。下がっていく気温に、叫び出したいような不安を感じた日。

 鮮やかな夕日の色が、いつでも彼の胸の奥に沈んでいる。

 そのとき、小さな男の子を挟んだ若い夫婦が石段を上ってきた。拝殿前では老人が手を合わせている。

 件のマンションの公園より狭いくらいの境内だが、土曜日とあって常のごとき閑古鳥ではない。手水舎も賽銭箱も穏やかな日差しに照らされて、眠そうに佇んでいる。

 左腕の傷が、つきりと痛む。

「だがね、佳弥よ。我々はみんな――ひとりなのさ」

 小さくつぶやいた声は、誰の耳にも届かない。

 燐太郎は外向きの柔和な微笑をつくると、訪れる人々に頭を下げた。

一段落。こんな感じで、中編くらいの話が続くと思います。

ここまでのお付き合い、ありがとうございました。

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