冬空に飛ぶ:陸
「友達のお姉ちゃんくらいの関係だったら、入院してるとかって知らないものかな」
「どうだろうな。佳弥があまり目立たん子だという証左にはなるだろうが」
三時半。日はまだ高いが、夕方が近づき、風が冷たくなってきている。
ふたりは目的地を失い、幸先商店街をゆっくり歩いていた。混み合い始めるのはもう少しあとだ。
「他に何かわかったことってある?」
「特には」
燐太郎は頭をかいた。
「しかし、困ったな。佳弥が眠り込む前日、どこで遊んでたのかが知りたかったんだが」
「あ、それなら、マンションの下の公園だと思うわよ。お母さんが言ってた」
杏子がすらっと答えたので、燐太郎は片眉を上げて彼女を見た。
「……先に言ってくれ。わかってたら、不審者扱いされる危険をおして小学生に聞き込みなんざしなかったのに」
「え。だって聞かなかったじゃん!」
「まあいい。行くぞ」
広田親子が住むマンションは、白山通りから一本入ったところにあった。
商店街側と違ってこちらは一戸建ての住宅が少ない。目的の建物も、両隣ともマンションだった。タイル張りの外観はきれいだが、敷地入口の礎石を見ると、築年数は十五年ほどらしい。
杏子と燐太郎は、煉瓦塀に囲まれた敷地の入口から中を覗き込んだ。
「なるほど、こんな場所があるのか」
煉瓦塀と立木で囲われたマンションの敷地は、建物の手前が広い庭になっている。やや狭いがブランコや鉄棒やジャングルジムもあり、公園としての体裁を保っていた。
小学校が終わった時間帯である。今は十人近い子供たちが公園内にいて、歓声で賑わっている。もっと小さな子を遊ばせている母親の姿もある。
「マンションの住人なら、家のすぐ近くだから親は安心かもね……ちょっと、燐太郎!? どこ行くのよ?」
燐太郎は迷わず敷地に踏み込むと、公園の一角、右手奥の鉄棒が並んだ側を目指してずんずんと進む。杏子が慌てて後を追った。
公園の奥はマンションの建物と接している。建物の左側は駐輪場のようだが、右手側は大人の背丈ほどもある立木の生け垣で覆われていた。
(あった)
燐太郎は低いアーチ型の園芸フェンスを乗り越え、立木の隙間へ侵入する。
意識しなければ見落とすだろうが、そこには確かに隙間があった。ある種の獣道のような、そこから何者かが出入りしていると思われる隙間が。
「……やっぱりな」
長身の男が通るにはやや無理のある、立木の隙間を強引に抜けて。
燐太郎は、そこで足を止めた。
「もう、何なわけ! こんなところ入っていいの!?」
杏子が文句を言いながら追いついてくる。ダッフルコートに常緑樹の木の葉がくっついていた。
「って……ここ、何よ」
「さぁな。公園じゃあないか?」
マンションの敷地内に設置された公園の、その裏。
立木で隠されるようにして、その空間はあった。
広さは五メートル四方くらい。公園というよりも空き地だ。周りを囲う立木のせいか、表の公園よりもずっと暗く見える。
「燐太郎、こんな場所があるって、知ってたの?」
「いや。だが、向こうの公園はいかにも子供が多くて賑やかすぎる。いつも遊んでいたというには、これまでに知り得た佳弥の人物像とはそぐわん気がしてな。それらしい場所があるんじゃあないかと思った」
「人物像にそぐわない?」
「お前さんみたいな人間にはわからんだろうな」
「どういう意味よ」
燐太郎は答えず、目の前にぽっかりと出現した空間に視線を走らせる。
「佳弥ちゃんはここで遊んでたってこと?」
「だろう、と、思うんだが」
空き地の中央は周辺より二メートルほど高く、ゆるやかな丘のようになっている。
下草は雑草が生え放題だが、何らかの意図をもって切り開かれたのは間違いない。一角にはベンチが設置されており、レクリエーションのために使おうとした様子が感じられた。
しかし。
「……ねぇ。ここ、変だよね?」
杏子は周囲を見回しながら、身を寄せるように燐太郎に近づく。
「ほう、アンズも感じるかね。そういう方面には疎いと思っていたが」
笑ったつもりだったが唇の片端が上がっただけで、眉間に浮かんだ険は消せなかった。杏子が不安そうに自分の肩を抱く。
(淀んで、いる)
空気、あるいはもっと実態のないもの――気、と呼ばれるようなもの。
その空間に滞るものは、淀んでいた。長い年月をかけて濁った沼のように。
「……く」
足元がふらつきかけ、あやうく踏みとどまる。
視覚を切り替えようとしなくとも、視えてしまう。地面近くにわだかまる、泥のような気配。腐ったにおいが鼻を突く。耳の奥で、ちりちりと警告するような囁きが聴こえた。
(こいつは……こっち側のもんじゃあない)
「アンズ。さっきの場所に戻って待っててくれ」
「え? なんで?」
「ここは、筋だ」
「すじ?」
「あっち側の影響が強い場所。早く出たほうがいい。俺はもう少し見てくるが」
「あっ、ねぇ、待ってよ!」
燐太郎は空き地を横切り、中央に盛り上がった丘の斜面を登った。
丘の頂上にはこすれたような跡がある。小柄な誰かが、繰り返しそこに座っていたかのような形跡だ。
視界の端で何かが光った。
燐太郎は眩暈を抑え込みながら屈みこみ、それを拾い上げる。
(画鋲? いや、ブローチ、かな)
花の形をした、小さなブローチ。
ピンを刺すタイプで、裏側に針が突き出ている。針を受ける側の金具は見当たらなかった。
(……ッ!?)
不意に息苦しさを感じ、燐太郎は喉元を押さえる。
見渡すと、景色が一変していた。
気づけば燐太郎の周りを檻のようなものが取り囲んでいた。折れ曲がった、黒い、棘だらけの枝のような檻。
頭上に押しつぶされそうな圧迫感がある。
見てはならないという感覚と、見極めねばならないという思考がせめぎ合う。ひどく苦労しながら視線を上へ向けた。
黒い。
檻の上に、小山のような巨大な何かが、いる。
(こいつはいったい……)
巨大なものの形を把握しようとしても、檻のせいかよく見通せなかった。
これは、アヤカシだ。それもかなり強力な。
いつの間にか目の前に、ぼんやりと金色に光るものがあった。
(……繭?)
縦に短い葉巻のような形をしている。内側に光を抱き込んだそれは、蚕のつくる繭によく似ていた。
『わたしは、どこにいても、ひとり』
幼い声が聴こえる。
『ひとりなら、ここがいい。だれも、かまわないで』
頭がずしりと痛む。
身体が重い。気づけば粘性のある糸のようなものが手足に絡みついていた。そのせいで身体がうまく動かない。糸に脚をとられ、燐太郎は地面にへたりこんだ。
地面は黒く濁った泥のようで奇妙に柔らかく、足をついた箇所がへこみ、ずるずると奥へ引きこまれていく。
身体が勝手に仰向けになり、上にのしかかっている巨大なものが目に入ってくる。
巨大な黒い塊の下側で、棘だか毛だかわからないものがわさわさとおぞましく動いている。どこに目があるのかわからないのに、複数の眼球が自分を見ているのを感じた。
(まずいな……戻らにゃあならん、のに)
病院では懐かしい声が彼を呼んでくれた。
だけど、今は。
あの声が聴きたい。あの声でまた呼んでもらえたら、そうしたら俺は――
「燐太郎!」
耳元で名を呼んだ声は、あの声では、なかった。
目を開けると、杏子の顔が目の前にあった。
「ちょっと、ねぇ、大丈夫!? どうしたのよ、もう!」
燐太郎は雑草の上に座り込んでいた。杏子が正面から彼の両肩をつかみ揺すっている。
「……大丈夫だ」
まだ少し呆然としつつ、燐太郎はそれだけ言った。途端に杏子の顔が歪み、怒っているような泣いているような、よくわからない表情になる。
「嘘。大丈夫なわけないじゃん、顔真っ青だよ!」
「本当に大丈夫だ。少しばかりあっち側へ行ってただけで」
「何よそれ! 急に黙ったと思ったら気分悪そうにして座りこむから、急病か何かだと思っちゃったじゃん! めちゃくちゃ汗かいてるし!」
杏子が髪に触れてくる。燐太郎の髪はぐっしょりと濡れていた。
「いやこれは、たぶん汗じゃあなくてだね」
「もうやだ。なんかいきなり空真っ暗になるし、枝が折れるみたいな音ずっとしてるしさぁ、調べてなんて言わなきゃよかった」
杏子は顔をくしゃくしゃにして鼻をすすっている。
彼女がなぜ半泣きになっているのかわからなかったが、たぶん燐太郎のせいなのであろう。
「すまん」
「なんで謝るわけ! 謝るのはあたしのほうでしょ!」
謝ると言いながら怒っている。ますますわけがわからない。
「――ちょっと、あんたら」
唐突に、灰色の塊が木立の隙間から出現した。
ふたりはそのままの姿勢で固まった。
「ここでそういうの困るんだけど」
灰色の塊の下で、しわがれた声がした。
もじゃもじゃした灰色の塊に見えたものは、初老の男性の頭であった。
紺色のツナギを着て箒を持った男性が、汚いものでも見るかのような目でふたりを一瞥する。
「そういうのは駅前のホテルでやってよ。ここ、マンションの敷地内だから」
「え」
草に座り込んだ燐太郎。その上に覆いかぶさっている杏子。燐太郎の軽く開いた両膝の間に杏子の腰があり、杏子の手は燐太郎の両肩に添えられている。
……誤解が生じない理由は、あまり、ない。
◆
「あんたら、ここの住人? 違う? さっさと出ていかないと不法侵入で通報するよ?」
管理人の箒に追い立てられるようにして敷地から出た。
公園の裏の空間にいたときはずいぶん暗いような気がしたが、外に出るとまだ明るい。夕空は、灰色と紫が混ざった複雑な色合いをしていた。
なんとなく気まずくて、黙ったまま白山通りまで歩く。四車線道路を走る車は、ヘッドライトを灯しはじめている。
「いやはや、とんだ目に遭ったな」
杏子から返事がないので隣を覗き込むと、しょげた顔をしていた。
「アンズ?」
「……ごめん」
すねたような声が返ってきた。
「さっき具合悪くなったのって、あの場所のせいよね」
「まあな」
正確には少し違う。
筋は、境界だ。そこから漏れ出る異界の気に当てられることもある。だが先ほどは、もっと直接的な脅威だった。しかし説明が長くなるので肯定しておく。
「あたし、霊感とかないし。詳しく知らなかったから。燐太郎のうちが、実際はどういうことしてたのかとか……雫さんのときのこと、とか」
「……ああ」
胸の奥がちくりと痛む。それを知ってか知らずか、ぽつりぽつりと、杏子は続けた。
「ちょっと調べて、ご先祖様をもっと大事にしましょうとかって言って、お祓いしたりするくらいだと思ってた」
「雑なイメージだな。ま、そういう対応をするときはあるが」
「だから知らなかったんだってば」
こちらを向いた杏子は、夕陽に目を細める。
「ねぇ。雨降りさまが変な相談引き受けるのやめたのは、危ないからなのよね?」
「そういうことになるんだろうなぁ」
変わった困りごとの解決、東城ライカに言わせれば《拝み屋》をやめると決めたのは祖父だ。祖父亡き今、真意は燐太郎にも推測しかできない。
杏子は切れ長の目を伏せる。
「簡単に頼んで、ごめん。あたし、燐太郎に危ないことさせたいわけじゃない。……佳弥ちゃんのことは、やっぱり心配だけど、でも」
ぴたりと足を止めた燐太郎につられ、杏子も立ち止まる。
燐太郎は、眠たげな目を珍しく見開いていた。
「まさか、諦めるとか言うんじゃあなかろうな?」
「え。だって」
「こいつに見覚えはあるかね」
ポケットから取り出して杏子の目の前に差し出したのは、花の形のピンブローチ。
「これ……うちの店で配ってたやつよ。七月くらいだったかな、商店街でイベントやってたとき」
「間違いないかね?」
「うん。クレマチスの形だし、裏に幸先商店街のマーク入ってるし」
「そうか。佳弥にも渡したか?」
杏子はこくりと頷いた。
「さっきの筋にあった。佳弥があの場所にいたのは、確かなようだな」
燐太郎はピンブローチを軽く放り上げる。ビルの隙間から射す残照が、金属メッキをきらりと光らせた。
まだ状況がつかめていないらしい杏子に、彼は芝居がかった仕草で片目を閉じてみせる。
「それじゃあ、眠りの森へお姫様を迎えに行くとするか」