冬空に飛ぶ:伍
東城病院を出たときには、昼を過ぎていた。
日差しが温かい。燐太郎と杏子は、来たときと同じように入り組んだ道を戻った。
「あたし、来てよかったのかな」
杏子は両手を身体の後ろで組み、俯きがちに歩いている。燐太郎は歩く速度を落とした。
「さてね。しかし、旦那が海外で知り合いも少ないときた。どうもあの親子、密室性が高そうだ。他人と喋ることは、だいたいにおいて悪いことにはならんだろう」
「だといいけど」
正面からやってきた自転車をよけて、ふたりは道の端に寄る。そのまま無言で歯科医院の駐車場を横切り、クリーニング店の前を過ぎた。
杏子が控えめに口を開く。
「ねぇ、燐太郎。わかったこと、あるんでしょ」
並んで歩きながら、燐太郎は杏子に視線を向けた。
「……多少は」
「やっぱり、佳弥ちゃんはただの病気なの?」
そうだったらいいのか、そうでないほうがいいのか、杏子自身もわかっていないような複雑な顔だった。燐太郎は小さく溜息をつく。
「おそらく違う」
杏子が息を呑む。
幻想の水の中に、佳弥の姿を視た。
しかも佳弥を見つけたと思ったら水底へ引きずりこまれかけ、奇妙な影まで視てしまった。
(黒っぽい、棘のある、枝のような……虫か何かか?)
潜行によって視えるものは一定ではない。これまで数限りなく試みたが、何が視えるものはそのときどきによって変わる。燐太郎自身にもよくわからないのだ。
だから祖父は、それを『御託宣』と言っていた。
垣間見えた異形の姿。そのものに見覚えはなくとも、そういうものを彼はよく知っている。
(……アヤカシ、かねぇ)
気づいたら眉間に皺が寄っていた。燐太郎は軽く親指でそこを揉み、何か言いたげな杏子に向き直る。
「それじゃあ情報交換といくか。腹も減ったし」
「交換?」
「まさか本当に、花瓶に水を汲みに行っただけじゃあなかろう?」
「まあ、ね」
燐太郎が肩をすくめると、杏子は複雑な表情のまま頷いた。
店を探すのが面倒だったので、駅前のドトールに入った。
一時をまわっていたが、近隣の企業の社員や外回り中らしきスーツ姿の人々で店内は混み合っている。
クリスマスソングが流れる中、まっすぐ奥の喫煙席に向かう燐太郎に杏子は冷たい視線を向けたが、今は話を聞きたい気持ちが勝ったらしい。口に出しては何も言われなかった。
硝子張りの喫煙席の自動ドアをくぐり、ちょうど空いた奥の席に収まる。
「佳弥ちゃんはどういう状態なの?」
サンドイッチの包みを開ける時間も惜しむように、杏子が訊く。燐太郎はブラックコーヒーを一口飲んだ。
「まずはアンズからだ」
「でも、あたしは大したこと聞いてないわよ。佳弥ちゃんがああなった時のことくらい」
「構わん。聞かせてくれ」
「……もう」
外に面した硝子窓の向こうを、タンクローリーが通り過ぎてゆく。杏子は外にちらりと目を向けてから、話し始めた。
「佳弥ちゃんが起きてこなくなったのが二週間前からってのは、前にも言ったよね。朝起こしに行ったら、もうあの状態だったって」
頷きつつ、燐太郎は三種類のハムが挟まったサンドイッチをかじる。ハニーマスタードが意外とうまい。
「だけど、前の日の夕方から、ちょっと様子はおかしかったみたい。帰りがいつもより遅くて、暗くなって心配しはじめたころに帰ってきたんだって」
「それだけなら、格段におかしいところはないな。子供のすることだ」
「帰ってきてからはなんだかぼーっとして、話しかけても生返事ばっかりだったみたいよ。お母さんは、疲れてるのかと思ったらしいけど」
「ふむ。するとその前日に、何かあった可能性もあるか」
「何かって?」
杏子は燐太郎を下から覗き込む。
「何か、だ。まだわからん」
「頼りないなぁ」
勝手なことを言ってくれる。
「情報が少ない。予断は禁物だ」
「それで、燐太郎のほうはどうだったの?」
「何とも言えんのだが……」
燐太郎は食べ終えたサンドイッチの紙をくしゃくしゃに丸めながら、天井を仰ぐ。どう説明したものか。
「――佳弥は、あそこにいなかった」
「はぁ!?」
そうとしか言えなかったのだが、ぱっと顔を上げた杏子は呆れ顔だった。
「いなかったって、どういうことよ? ベッドに寝てたじゃん!」
長いポニーテールが勢いよく揺れる。
「身体はな。だが、魂……精神のほうは、あそこにいなかった。と、感じた」
あの病室に佳弥の存在感はほとんどなかった。彼女を確かに感じたのは、潜行した水の中でだ。
「意味わかんないよ」
「俺にもわからんよ。だが、そういうことがある、っていう話は爺さんから聞いたことがある」
「それってたとえば、幽体離脱みたいな?」
「かもしれん」
中国発祥の思想である道教では、人の「タマシイ」を「魂」と「魄」に分けて考える。魄は肉体を生かし動かすが、思考や感情、あらゆる精神活動を司るのは魂のほうだという。
病室の肉体は確かに生きていた。しかし、気配は極めて薄かった。佳弥の魂はどこかへ行っているというのが、燐太郎が感じ取った状況に一番近い。
「さて、どうしたもんか」
つぶやいて煙草を咥え、探るような杏子の視線に気づいた。
「何だね?」
「……ねぇ、燐太郎。まだ、調べてくれるの?」
問われて気づく。
わかる範囲で少しだけなどと思っていたくせに、この件から手を引く可能性をいつの間にか除外していることに。
燐太郎は目を伏せ、煙草に火をつけた。
「乗りかかった船だ」
「よかったぁ……ありがと」
杏子は深く息をつき、切れ長の目尻を下げて笑う。
「ま、気になるしな」
事実である。
眠り続ける佳弥の姿、そして母親の有希の様子。彼らはいかにも助けを必要としていて、放置するには忍びない。それに。
(わたしはひとり、か)
潜行中に聞こえた佳弥の声が、どうにも気になった。
(そんな時期も、あったっけな)
いつかの夕暮れを思い出す。記憶を振り払うように、燐太郎は自分の癖っ毛をくしゃくしゃとかき回した。
「仕方ない。こういうときは刑事のやり方に従おう」
「どういうこと?」
人差し指をぴっと立ててみせる。
「現場百回、というやつさ」
◆
幸先小学校では幸運に恵まれた。
父兄でもない大人が小学校の中へ入ることは困難である。しかしちょうど校門から出てきた五人組の子供のうち三人に、燐太郎は見覚えがあった。昨日、水秦神社でゲームをしていた子たちだ。
「あ、お花屋さんのお姉さんだっ」
嬉しそうに声を上げた女の子に、杏子はにこやかに手を振り返す。
「こんにちは。ちょうどよかった。少し、お話を聞いてもいい?」
杏子が言うと、女の子は思案げに友達を振り返った。答えていいものかどうか迷っているらしい。
「時間は取らせんよ。知らんならそれで構わんし」
横から口を出した燐太郎を、子供たちは不思議そうに見上げた。
「あれ?」
見覚えがあるのだが、思い出せないという顔をしていた。今日の燐太郎は、昨日の夕方と違って洋服である。
男の子のひとりが首をかしげながら言う。
「もしかして、幽霊のおっさん?」
「……幽霊でもおっさんでもない」
「ゲームのすごい人だ!」
「まぁ、それならマシか」
憶えられ方に非常に残念な気分になったが、ともあれ記憶はされていたようだ。
幸先小学校は、二十三区内では珍しく生徒数の多い小学校である。学年も違うのでどうかと思ったのだが、意外にも佳弥を知っている子供がいた。
「妹が一年なの。かやちゃんって聞いたことあるよ。同じクラスだと思う」
小学校の向かい側にあるコンビニ前。そう言ったのは、女の子のひとりだった。
「ほんと? どんな子か聞いてもいい?」
ここは杏子のほうが質問役として適しているだろう。彼女の問いに、ふるまわれたジュースを手にして女の子が首をかしげる。
「うーん、べつにふつうの子だよ。妹はいっしょに給食食べてるって言ってた」
「そっかぁ。お友達は多いのかな?」
「わかんない。妹は学校ではよく遊んでるみたいだけど、一緒に帰ってきたりとか、家に遊びに行ったりとかはしてないよ」
佳弥はひとりで『フワラーつじ』を訪れていたというし、有希も「佳弥は友達をつくるのが上手ではない」と言っていた。
孤立していたわけではないようだが、やはり周囲とは一定の距離がある子のようだ。
「ねぇ、妹さんに会うことはできない?」
子供たちは互いの様子を探るように視線を向けあっている。
(……さすがに踏み込みすぎか)
燐太郎は杏子に目配せした。
物騒な時代だ。幸先町は治安のいい場所とはいえ、子供たちも親から言い含められているだろう。燐太郎も杏子も交番の警察官とは顔見知りだが、あまり質問しすぎると面倒なことになるかもしれない。
杏子は「無理言ってごめんね」と笑い、もたれていたガードレールから身体を起こす。
「いやはや、ご協力ありがとう。時間を取らせて申し訳なかったね。非常に参考になった」
燐太郎がもっともらしく言うと、子供たちは首をかしげつつも口々に「どういたしまして」と言った。
手を振っての立ち去り際、杏子が振り向いて付け加える。
「そうだ。佳弥ちゃんが入院してるって知ってた?」
「えっ、そうなの?」
驚いた声を上げたのは、妹が佳弥と同じクラスだという女の子だった。
燐太郎と杏子は顔を見合わせ、今度こそその場を辞した。