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カンナガラ  作者: 醒
冬空に飛ぶ
5/11

冬空に飛ぶ:肆

 病室に入るなり、燐太郎は眉をしかめた。

(何だ、これは?)

 個室だが、燐太郎の四畳半と負けず劣らず狭い。ベッドとそれを取り囲むカーテン、棚板のついた小さなクロゼット、窓際のテレビ台でほとんど埋まっていた。

 光源は窓から差し込む太陽光だけ。室内は薄暗く、どこかこもったような空気がある。

 ことさらに変わったものを感じ取ったわけではない。どちらかといえば、奇妙なほどに何も感じなかった。しかし。

 ちり、ちり、と。

 燐太郎の耳の奥で、何かが警告のように鳴っている。

「どうかした?」

 杏子が囁き声で尋ね、肩越しに不安な目を向けてくる。燐太郎は黙って首を横に振った。

「……お医者さんは、眠ってるだけだって言うんです」

 佳弥の母親は、名を広田有希(ゆき)といった。

 有希はベッドの横に黒い丸椅子を並べ「どうぞ」と椅子を指す。枕に近いほうから、有希、燐太郎、杏子の順に座った。

「佳弥のどこにも、おかしいところはないって。そんなはずないのに……おかしいところがないなら、どうして佳弥は起きてくれないの」

 有希の声は時折詰まったり、震えて聞き取りづらくなったりした。どことなく人を不安にさせる声色だ。

(妙なことになっちまったな)

 燐太郎はこっそり溜息をつく。

 見舞いに同行してひそかに佳弥の様子を観察し、わかった範囲のことを杏子に報告する。それだけのつもりだった。何もわからないなら仕方がないと思っていた。正式な依頼を受けたわけではない。

 しかし燐太郎を見る有希の目にはあらぬ期待が宿っているようで、適当に探っておしまいにするには、いささか困難が伴いそうな気がした。

「顔を見てあげてください」

 有希がベッドのカーテンに手をかける。

 薄水色のカーテンが引き去られ、横たわる小さな姿が露になった。

「……っ」

 杏子が息を呑むのがわかった。

 燐太郎にとっては見知らぬ人物。それでも、痛々しいとしか言いようがない。

 少女は、大人用のベッドのほぼ中央で眠っていた。

 下ろされた瞼に影が落ちている。頬はこけ、軽く閉じた唇は乾いて、血の気がほとんどない。白い顔を縁どる毛髪は茶色っぽくて量が少なく、貧弱な印象だ。白い掛布団の胸元が、ゆっくりと上下していた。

 眠っているだけだというが、到底それだけには見えない。

(いや、当たり前か)

 すでに二週間が経過しているのだ。

 その間食事もできず、陽の光を浴びることもなく、運動もしていない。病気が見つかっていないからといって健康なはずはなかった。

 佳弥の腕には点滴の管がつながっている。細い腕に刺さった針の周囲が青く鬱血しているのが目に入り、燐太郎はそっと目を逸らした。

「今は、点滴で栄養を補給していますが……このまま起きなければ、衰弱する一方だと」

 佳弥の頬を手の甲で撫でながら、有希が言う。肌に触れられているのに、佳弥は瞼ひとつ動かさない。規則正しい寝息を立てるだけだ。

 少女の寝息にシンクロするように、燐太郎の耳の中で再びちりりと聴こえた。

 有希の顔が、不意にこちらを向く。

「院長先生がおっしゃっていた『拝み屋』って……霊能者、ってことですよね?」

「いや、俺は」

「わたし、そういう仕事があるってテレビで見たことがあるんです」

 その目の切羽詰まった色に、燐太郎は思わず片頬をひきつらせた。その間に有希の細い指が勢いよく伸びて燐太郎のジャケットを掴む。

「お願いしますっ……お医者さんはどこも悪くないの一点張りで助けてくれないんです! 佳弥を目覚めさせてくれるなら誰でもいいんです! 何でもしますから、佳弥を助けて!」

 有希の声が神経質に跳ね上がる。

「えっ、あっ……ちょっと、あの!」

 反射的に腰を浮かせた杏子がおろおろと燐太郎と有希を見比べている。

(こりゃあまずい)

 燐太郎は天井を仰ぎそうになるのをかろうじて堪えた。

 有希の目の下にはくっきりと隈が浮かんでいた。ろくに寝ていないのだろう。音量の調整がうまく効いていない声や、時折ふらふらと揺れる視線が、彼女の疲弊を物語る。

 燐太郎は腕に食い込んだ有希の手に自分の手を重ねた。有希がびくりと肩を震わせる。

「落ち着いてください、広田さん」

 意識して声のトーンを下げ、指をゆっくりと腕から剥がした。ついでに杏子に目だけで頷いてみせる。

「下手な説明のせいで期待させていたら、申し訳ありません。ですが俺はただの神主で、変わったことができるわけじゃあないです。職業柄、お話を聞くのは得意ですがね。話すことで気が落ち着いて、解決へ向かわれることもありますが……せいぜいがカウンセリングのようなものですな」

 有希の顔にあからさまな失望が浮かんだ。

(それでいい)

 燐太郎は引きはがした有希の手をそっと彼女の膝の上へ戻す。

「今日は、あくまで付き添いで来たんです。杏子が泣きついてきたもので。責任はこいつにあります」

「な、泣きついてなんか」

 隣で杏子が唇を尖らせた。いい反応だ。有希の表情が和らぐ。

 そのタイミングで燐太郎は椅子を引いて場所を空ける。意図を汲んで杏子が身を乗り出し、有希に向かってぺこりと頭を下げた。

「あの、あたしが来たくて燐太郎につきあわせたんです。急に来ちゃってごめんなさい。でも、どうしても心配だったから、少しでも何かお手伝いできたらなって思って。佳弥ちゃんの顔も、見たかったし」

 杏子はベッドの佳弥に目を向ける。

 釣られるようにその視線を追った有希の顔が、不意に歪んだ。

「……すみません。本当にささいなご縁なのに、来ていただいて……」

 有希はハンカチを取り出して口元を押さえる。

「わたし、四年前にこの町に引っ越してきたばかりで、知り合いもいなくて。今は、主人は海外で。佳弥は……友達をつくるのが上手くないみたいで、お見舞いも先生しか」

「……大変だったんですね」

 杏子は有希の腕に触れ、にこりと微笑んだ。

「お花、活けてきたいので。水道の場所まで連れてってもらえません?」

 赤く充血した目で有希は杏子を見上げる。佳弥のそばから離れがたいのかもしれない。だが休まねば、支える側が先に折れてしまう。

 有希の視線がこちらを向いたので、燐太郎は微笑未満まで口角を上げた。

「佳弥ちゃんと一緒に留守番してます。怪しい男に預けるのも不安かもしれませんが」

「……神主さんなんでしょう?」

 有希はごく薄く笑った。杏子の顔を立てたのだろうが、ひとまず最低限の信頼は得られたらしい。

 杏子が花束を抱え直して立ち上がった。

「花瓶ありますか? 持ってくればよかったかなぁ」

「ありますよ。手いっぱいでお花もあんまり替えてあげられてないので、喜ぶと思います」

「佳弥ちゃん、お花好きですもんね」

 ふたりの女性は花束と花瓶を携えて出て行く。こんな状況だが、ひそやかな漣のような笑い声が、一歩遅れて彼女たちを追った。

 そうして室内は燐太郎と、眠る少女だけになった。


 静かだった。廊下を通る足音や声は聞こえるが、奇妙に遠く感じる。どこかで、重いものを積んだワゴンが動く音がした。入院患者の昼食を運んでいるのかもしれない。

(……さて)

 燐太郎に与えられた時間は少ない。杏子と有希が花を活けて戻ってくるまでの間、せいぜいが五分といったところだろう。

 素早く廊下の様子をうかがう。

 本当はドアを閉めてしまいたいのだが、怪しまれるのも時間を喰うのも避けたかった。

「失礼するよ、お嬢さん」

 口の中でつぶやいて、燐太郎は枕の真横に立つ。

 ちりちりという音は、まだ聴こえていた。ものの焦げるような音だ。燐太郎はこの音をたまに聴く。たいてい、ろくでもないことが起きる前にだ。

 見下ろした少女の顔は穏やかだったが、胸の動きをのぞけば、まるで死んでいるかのようだ。

 燐太郎は目を閉じ、両手を広げた。

「――ふッ!」

 鋭く息を吐き出すと同時。ぱぁん、と乾いた音。

 余波で病室内の空気がびりびりと震えた。

 柏手(かしわで)。神社に参拝するときの礼法のひとつとして広く知られている。両手を打ち鳴らすだけの所作だが、れっきとした魔除けのひとつだ。

 そうして燐太郎は瞼を閉じる。

(ことば)(しん)にして(しん)(しん)の器……」

 耳と目とを『切り替える』。

 室外の、そして室内の音がすべて遠ざかった。

 入れ替わるように燐太郎の耳に聴こえはじめるのは、雨音。

 林の中で聞くような、細かな水滴が無数の葉を打つ音だ。閉じた瞼の裏に蒼が滲む。

 この感覚がいったい何なのか、燐太郎はよく知らない。彼にわかるのは、集中を深めていくにつれ、聴こえないはずの音が聴こえはじめるということだけだ。

 耳を澄ます。

 身を満たすのは水音だ。

 祖父や雫は違う名でこの儀式を呼んだが、燐太郎はひそかに『潜行』と言っていた。

 彼はいま、水の中に、いた。

 幼いころから慣れ親しんだ幻想の水。

 上は明るく、下は暗いようだが、逆のようにも感じられる。ここでは上下の感覚がうまくつかめない。ゆらゆらと揺れる水の向こうに、鳥居と幸先町の街並みが浮かんで視えた。

(佳弥)

 水の中へ問いかける。

(佳弥、どこだ?)

 ぽつぽつと水紋のような、あやふやな痕跡をたどる。内側へ潜るとも、外側へ跳び立つともとれる感覚。沈み、浮かび上がる。

 幼い声が聴こえた。

『わたしは、ひとり。わたしをだれも、しらない』

 一瞬だけ、少女の後ろ姿が視える。

(見つけたぞ、佳弥……)

 手を伸ばしかけた、瞬後。

 (ごう)、と。

 不意に起こった水の流れに押し流される。猛烈な力で水底へ引きこまれそうになった。

(――ッ!)

 まるで鉄砲水だ。流れ、渦巻き、引きずり込まれる。

 こんなことは初めてだった。燐太郎は必死にもがき、浮上しようとした。

(戻れなくなるかもしれん)

 なぜそう思ったのかわからない。ただ、本能的な恐怖を感じた。

 視界の端を何かがかすめる。黒っぽい、棘の生えた、折れ曲がった巨大な枝のようなものが。

『燐!』

(え!?)

 鈴を振るような声が、彼を呼んだ。

 懐かしい声、懐かしい呼び方。彼をそう呼ぶものは、もはやいないはずだが――


「こりゃあ、いったい……どういうことだ?」

 目を開く。からからに乾いた声が漏れた。

 燐太郎は、昼前の病院の個室にいた。

 ベッドの枕近くに立ち、すぐ目の前で少女が眠っている。潜行を開始する前と寸分たがわない位置だった。

 杏子と有希はまだ戻ってきていない。燐太郎はジャケットの内ポケットからハンカチを取り出し、素早く顔と髪をぬぐう。

 彼の髪は、水滴が垂れるほどにぐっしょりと濡れていたからだ。

「――これくらい全然平気ですよ! 花屋って意外と肉体労働なんです。朝も早いし、結構体力勝負で」

 廊下から軽やかな声が聞こえてきた。開けっ放しのドアから、花瓶を抱えた杏子が顔を出す。すぐ後ろから有希もついてきているようだ。

 振り向いた燐太郎と目が合うと、杏子は眉根を曇らせる。

「燐太郎、どうしたの? 大丈夫? 顔色悪いよ」

「……大丈夫だ。何でもない」

 有希がいる場で話せるようなことではなかった。それに燐太郎自身も、まだ何の結論も出せない。

(実におかしなことになってるなぁ……)

 ひとつだけはっきりしていることがある。

 この『お役目』は、カステラ一本ではまったく割に合わない。


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