冬空に飛ぶ:弐
「ときどき、お店に来る子なんだけど」
杏子曰く。
身体に対して大きすぎるランドセルを背負った女の子が、『フラワーつじ』にやってくるようになったのは、今年の五月ごろ。
生花店を子供がひとりで訪れることは珍しい。ガラスケースの中をじっと見つめるその子に「お花、好きなの?」と杏子が声をかけたことで、言葉を交わすようになった。
「すごくおとなしい子でね。佳弥ちゃん、って名前を聞くまでに二か月くらいかかっちゃった」
「小学一年生ならそんなもんだろ。知らん大人とすらすら喋れる子は珍しいぞ」
「え、あたし得意だったけど」
「アンズは特別だ」
「でも、下校途中なのにいつもひとりなのよ。おとなしい子っていう見立ては間違ってないと思うな」
佳弥の来訪は、ひと月に二、三回。夏休み中には途絶えたが、商店街で母親らしき女性と一緒にいるところを見かけて、杏子は安心したのだという。
「二学期になってからも同じ感じ。買い物するわけじゃないんだけど、うち、『こども一一〇番の家』だしね。ときどき声かけてたんだ」
最後に佳弥がやってきたのは十一月のはじめだった。年末に向けてポインセチアの鉢が入荷した日だったから、間違いないそうだ。「クリスマスのお花だよ」と言ったら、佳弥は小さな声で「きれい」と言った。
佳弥のその後を杏子が知ったのは、昨日のことだ。
「佳弥ちゃんのお母さんが来て、作り置きの花束を買ってったの。それで『佳弥ちゃん元気ですか』って聞いたらね……びっくりしちゃった。急に泣かれたから」
杏子は目を伏せた。
「朝起きてこなくて、そのまま二週間。眠ったまま起きないんだって。声をかけても揺すってもダメ」
「医者には診せたのか?」
当然の疑問である。
「うん。でも、脳にも身体にも異常はなかったそうよ。ただ眠ってるだけ」
「ふむ」
燐太郎は二本目の煙草を咥えた。
片膝を立ててその上に肘をつき、手の甲に顎を載せる。考えごとをするときの癖だ。
まだ体力のない小さな子供が、疲れて丸一日眠っているようなことは時折ある。だが、二週間となると尋常ではないだろう。しかし医学的な異常は発見されていないという。
「小学一年生というと、七歳かね」
杏子は頷き、ふと思い出したように付け加える。
「七つまでは神の内、って言うんだっけ?」
燐太郎は眉をしかめた。
「よせ。そいつはあんまりいい言葉じゃあない」
「そうなの?」
「確かに、宗教的な意味がないでもない。小さな子は神聖な存在とみなされやすいし、七歳までの子供だけが参加できる祭りや儀式なんてのもある。だがね、どっちかっていうとそりゃあ間引きの言い訳だ」
「マビキ?」
「口減らしともいう。農業技術が未発達な時代には食糧難がたびたびあったからな。食料が集落全員を生かすのに足りんときは、各家庭から何人出すか集落で話し合う。そうして選ばれた子供を、山に置き去りにするなり、頸を絞めるなり、薬を飲ませるなりのしかるべき方法で、殺す」
「え、何それ」
燐太郎は表情を変えずに煙を吐き出した。杏子は不愉快そうに眉根を寄せる。
「すっごい嫌な話。それと、『神の内』が関係あるの?」
「七歳までは神さまのものだから、子供は殺したんじゃなく、神の世界に返しただけだと言えるからさ」
「ひどい!」
「あったんだよ、そういう時代が。明治までは東京でも普通にやってたらしいし、戦時中にもあったと聞くから、そんな昔でもないぞ」
さらに言い募ろうとした杏子だが、燐太郎を責めても無意味だとはわかっているのだろう。グロスを塗った唇を噛んでいる。
(余計な話をしすぎたか)
燐太郎は少し反省した。言わなくてもいいことを言ってしまうのは昔からの悪癖のひとつだが、杏子相手だと悪化する傾向がある。
彼は煙草を揉み消す。
「……まあ、なんだ。言葉ってのは現象を呼ぶ。めでたい言葉はめでたい物事を引き寄せるし、逆も然りだ。口にする際は気をつけたほうがいい」
「えらそー」
「宗教家らしいだろう?」
しれっと言うと、杏子は文字通り鼻で笑った。
「ろくに神主らしいことしてないくせに、よく言うわ。社務所で居眠りばっかしてるの幸先町の人はみんな知ってるんだからね」
「平和で結構じゃあないか」
「他人事みたいに」
「自分のテリトリーにいる間くらい気を抜かせてくれよ。これでもちゃんと季節の祭りはやってる」
「ほとんど町内会にやってもらってるじゃん。燐太郎は祝詞上げるだけでしょ」
「その認識には多分に偏見が入ってるな。正確とも公平とも言えん」
「どこがよ。ていうかね、あたしは燐太郎と馬鹿話をしに来たんじゃないのよ」
杏子は湯呑に残った番茶を一気に呷る。
どうやら脱線したまま終わってはくれないらしい。燐太郎は口をへの字に曲げた。
「……佳弥ちゃんとやらか」
「そうよ。燐太郎は、これってどういうことだと思う?」
燐太郎はがりがりと頭をかいた。
「アンズよ、そいつはどういう意図で聞いている?」
問いに問いで返す。
少しためらって、杏子は再び口を開いた。
「――燐太郎は、不思議なことに詳しいから」
探るような目つき。その奥に潜む揺らぎに、燐太郎は気づいてしまった。
追い打ちのように杏子は尋ねる。
「ねぇ、今でもさ、視えてるんでしょ? その……不思議な、ものが」
その揺らぎは、畏れだ。
異質な存在への。
杏子とのつきあいは、まもなく二十年にもなる。彼女は燐太郎の少しだけ人と違う才能を――それを才能と称していいならば、だが――知っていた。ただ、正確に理解しているとは言いがたいし、燐太郎がそれを望んだこともない。
燐太郎は諦念交じりの溜息をついた。杏子から顔をそむけながら、次の煙草を咥える。ウズメさんの爪痕だらけの襖が目に入った。
「もう視えんよ。意識しなければ」
「意識すれば視えるってこと?」
「そうともいう」
回りくどい言い方に杏子が苛立っているのがわかる。それでも目を合わせずにいたら、擦りかけたライターを取り上げられた。
「おい、アンズ。危ないぞ」
「ちゃんと聞いてよ!」
真横に回り込んで強引に視界に入った杏子が睨み上げてくる。意外なほど長い睫毛が揺れていた。
座卓の下で、ウズメさんが面倒臭そうになぁんと鳴いた。
「……俺に何をしてほしいんだ」
燐太郎は咥えていた煙草を箱に戻す。
「だから、燐太郎の見解が聞きたいって」
「無茶言うな。伝聞だけでわかるわけないだろう」
杏子は形のいい眉をきゅっと寄せ、次の言葉を呑み込んだ。
「だいたい俺が、そいつは確かに怪異だねと言ってやったら、お前さんはああそうですかと引き下がるのかね?」
「なんとかしてくれないわけ?」
「どういう理由でだ? その子はお前さんの何だね?」
「……花屋のお客さん」
「他人だな」
「あ、あたしは他人だけど、燐太郎はそうじゃないじゃない。雨降りさまは幸先町の護り神なんでしょ。佳弥ちゃんだって幸先町の住人なんだから」
杏子がおそろしく厄介なことを言い出したので、燐太郎はもう一度深い溜息をついた。
「一理ある。だがね、その佳弥ちゃんの住まいはどこだ?」
「マンションだって。白山通りの」
「つまり、新しい住民だろう。佳弥ちゃん本人はもちろん、その家族だって、ここに神社があることすら知らんのじゃあないかな」
幸先町は都心に近い古い町だ。しゃれた雰囲気とは無縁だが、交通の利便性が見直されたことと、都心の空洞化による地価の下落を受けて、ここ十年ほどは再開発が盛んである。
その結果、住民は増えているのだが、新しい住民と古くからの住民の間には生活域に明確な違いがある。
水秦神社を代々預かる燐太郎は、先代からの縁で古い住民のことはよく知っている。最近はやや薄まっているが、誰がどこに住んでいて、家族構成はどうで、今困っていることは何か、まで把握している場合もある。しかし、新しい住民についてはほとんど知らない。コミュニティが違うのだ。
燐太郎は膝にすりよってきたウズメさんの顎を撫でた。
「そこいらは相当に本質的な問題でな、俺はお前さんよりよっぽど日々考えてるぞ。新しい住民にも祭りや行事に来てほしいからね。しかしね、神社は来る者を拒まんが、来ない者を迎えに行くようなもんでもない」
「でも」
杏子の声からは勢いがなくなっている。
「そもそも前に言ったはずだ。うちはもう、その手の困りごとは引き受けとらん。爺さんの遺言でな」
ハイネックに包まれた杏子の喉が、こくりと動くのが見えた。
駄目押しのように視線を添え、燐太郎は言う。
「――雫の二の舞になるな、と」
杏子は俯き、自分の膝頭を見つめた。
「……知ってる」
知っていたからこそ、「意見を聞きたい」などと曖昧な言い方をしたのだろう。それは燐太郎もわかっている。
沈黙の落ちた部屋に、LEDに対応していない蛍光灯のちりちりという音だけが妙に響く。
やがて杏子は顔を上げた。
「帰る」
外は真っ暗だった。
時刻は七時をすぎたばかりである。石段を下りた先の道には店舗や家から光が漏れ、さかんに人が往来する気配がある。鎮守の森に囲われたこの場所だけが別世界のように静かで、境内の街燈もかえって暗闇を強調しているように見えた。
せめて石段の下まで見送ろうと思ったのだが、杏子は玄関先で「ここでいい」と言った。
消沈した杏子の顔は、そんな義理はないと思いつつも燐太郎の胸を重くする。それでつい余計なことを口にした。
「あー、佳弥ちゃんのことだがね。やっぱり医者の領分じゃあないかと、俺は思う。心配なのはわかるが、素人が気をもんでも……」
「伝聞じゃわからないって燐太郎が言ったんじゃない」
杏子は切れ長の目で燐太郎をねめあげる。
気圧されるように口をつぐんだ次の瞬間、腹部に鈍い衝撃。
突然の肘打ちによろめいた燐太郎を放置してスニーカーの踵を返すと、杏子は石段を駆け降りていった。
◆
この世には、この世ならざるものがいる。
それを燐太郎は幼いころから知っていた。姿が視え、声が聴こえたからだ。
この世に存在するのだから、この世ならざるものというのもおかしいのだが、とにかく異質なものだ。
人のようなものあり、獣のようなものあり、魚のようなものあり。
尾があり、翼があり、牙がある。
彼らは科学的な観測手段に引っかからない。人や獣と異なる生態をもち、ときに奇妙な現象を引き起こす。暗がりに潜む、異形のものたち。
古来、神とも妖怪ともみなされてきたそれらを、燐太郎を育てた祖父は《アヤカシ》と呼んでいた。
――アヤカシの存在を感じ取るのは、曲直瀬の血なのだ。
祖父はそう言っていたが、真偽は不明だし、どっちでもいいと思った。原因がどこにあろうと他人と違うものを視て、聴いてしまうことにかわりはないからだ。
その「曲直瀬の血」を引くものも、今や燐太郎ただひとりとなったが。
(いずれ俺が誰かと子供をつくったら、妙な体質も引きつがれるんだろうか)
それを思うと燐太郎は、湿気た煙草を吸ってしまったときのような、どうしようもなく不愉快な気分になるのだった。
◆
杏子が帰ると、家の中の空気が一変した。
具体的に何がどうとは言いがたい。ただ、雰囲気が変わる。気配を感じる。
何かが、いる。
――■■■……■……
さっそく耳の奥に囁きが聴こえはじめ、燐太郎はうっとおしげに首を横に振った。
目を塞ぐことは難しくない。瞑ればいいのだ、そうすれば何も見えなくなる。しかし耳を塞ぐには、両手が必要だ。
おかしなものを「視ない」ようにする方法は、大人になるにつれて身についた。人に説明するのは難しいのだが、肉体の目を閉じるのとさほど要領は変わらない、と燐太郎は認識している。
一方で「聴かない」ようにするのは困難で、いまだにうまくいかない。
――……■■……■……■■■……
家の中だけではない。燐太郎が《彼ら》の存在を感じ取ってしまう場所はいたるところにある。むしろこの家は静かなほうだ。鳥居と鎮守の森で護られているから悪いものが入れないのだ、と祖父は言っていた。
結局、正常な生活を送るために燐太郎が編み出した技術は、できるだけ気にしないようにする、といういたって消極的な方法だった。
「げに偉大なるは人間の鈍感さよ、と」
足元にまとわりつくウズメさんをいなしながら洋服に着替える。一度外へ出て社務所に鍵をかけ、茶の間を軽く片づけていたら、杏子が座っていた座布団の脇に紙袋を見つけた。
紙袋に記された文字には見覚えがある。商店街の和菓子屋『三間堂』のものだ。細長くて、見た目より重い箱が入っている。
「忘れ物かな」
そのとき、見計らったように燐太郎のスマートフォンが振動した。アプリがメッセージの着信を知らせている。
『言っとくけど、忘れたわけじゃないから。渡しそこねただけだから』
『晩ごはんの前に食べたらダメだよ』
杏子からだった。
その前にも何件か未読のメッセージが入っている。彼女の訪問前に送られていたものらしい。燐太郎は今さらながらに画面を上へスクロールして、メッセージを読んだ。
『今から行っていい?』
『急にごめん。でも、他の人には相談できないことだから』
『ちょっと困ったことが起きたの』
新しいものから古いものへ。
一番古い未読メッセージは、こんな内容だった。
『助けて』
燐太郎は片手で額を押さえ、溜息をつく。
「最初からそう言えば……いや、言われても困るんだが……」
ともあれ最新のメッセージへの返信のつもりで、燐太郎は『ありがとう』と書いて送った。杏子からの返事はなかった。
蕎麦に大量の葱を乗せたいい加減な夕食のあと、杏子が置いて行った箱を開けた。
予想通り、中身はカステラだった。
表面にざらめの形が残る、古式ゆかしいタイプだ。
「昔はよく食ったなあ」
ひとり暮らしが長くなると、独り言が増える。燐太郎は座卓の上のカステラを前に、あぐらをかいた脚の隙間に埋まるウズメさんを撫でながら、煙草に火をつけた。
かつてこの家には、三人が住んでいた。
前宮司だった祖父と、燐太郎と、それから雫。
当時は人の出入りが盛んだった。祖父は神職としても地域の代表者としても今の燐太郎よりはるかに熱心で、頻繁に社務所で勉強会を開いたり、書道やら香道やらの教室に場所を貸したりしていた。
さらに、変わった相談を持ち込む人々がいた。
失せ物探しや占いが多かったが、ときには、不思議なできごとを引き起こす物品をどうにかしてほしい、などといったものもあった。
その手の相談に乗るのは、もっぱら雫だった。彼女はその分野に類稀な才能を持っていたのだ。
それらの解決には、通常の祈祷などと同じく初穂料――金銭を受け取っていたが、酒や菓子類もしばしばもらった。
「あの頃はお前も小さかったのにな」
顎を撫でてやると、ウズメさんはヒゲをひくひくと動かしている。境内に迷い込んだ子猫を拾って育てたウズメさんは、いまや齢十二になる立派な成猫だ。喉が鳴る音が、やけに響く。
この家は、静かだ。
テレビすらない。燐太郎がひとりになってしばらくして壊れ、それきり買っていない。ニュースならネットで足りるし、DVDはパソコンで観られるし、バラエティには興味がない。他人にはそう言っている。
だが、外界から自分を切り離そうとしているのではないかと問われたら、返答に窮する。
燐太郎は煙草を揉み消すと、ウズメさんの邪魔をしないようにそっと脚をほどく。座卓の上のカステラをそのままにして、立ち上がった。
カステラが好きだと杏子にいつ言っただろうか。記憶にない。だが杏子は、そういう人物だ。友人全員の誕生日を憶えていて、メッセージを送るような。
「たまにゃあ、豆でも挽くかね」
台所に、祖父の代から使っていた手回し式のコーヒーミルがある。コーヒー豆もまだ少しあったはずだ。
板張りの廊下へ出ると、息が白かった。
――■■……■■■■……
掃出し窓のカーテンの隙間から、闇が覗いている。
「眠ったまま起きない子、ねぇ……」
十二月の夜は、ただ深々と冷えていた。