春告香:後
香色の着物の女は、古い住宅街の入り組んだ道を滑るように進んでいく。
燐太郎は、二十メートルほどの間隔をおいて彼女のあとを追う。
妙なことをしている自覚はあった。町で見かけた女性の後をつけるなど、普通に考えたら即通報ものだ。杏子に知られれば、汚物を見る目で見られること請け合いである、が。
(ありゃあ、人じゃあないかもしれん)
それを裏づけるかのように、さっきからずっと耳の中で雨音が鳴っている。宵の空は晴れているにもかかわらずだ。
常識では計り知れない奇妙なものを視たり聴いたりしてしまうのは、燐太郎にとって日常茶飯事である。
古来より妖怪として、ときには神として、人々の間で語り継がれてきた異形のものども。彼の祖父は、そいつらを《アヤカシ》と呼んでいた。
子供のころの燐太郎は他人と異なる知覚をもてあまし、日常生活にずいぶんと苦労した。大人になってからはどうにかなっているが、それは「気にしないことにする」という、消極的にして万能の解決法を身につけたおかげである。
(なのに自分から首を突っ込むとか、何をやってるんだ俺は)
前を行く女が仮にアヤカシならば、理外の存在だ。
アヤカシは不思議としか言いようのない能力を持ち、しばしば人を害する。そのうえ質が悪いことに、害意があってそうするわけでもないらしい。
彼らはただ決定的に――完膚なきまでに、人と異なる。
ゆえに下手な手出しが危ないことは、幼いうちから祖父に厳しく言い含められた。燐太郎自身も、その危険性を理解するに足る経験がある。
にも、かかわらず。
女が幾度めかの角を曲がった。燐太郎も女に倣い、山茶花の生垣が茂るブロック塀を回り込む。
幸先町は区画が複雑に絡み合っており、直角に交わらない道が多い。生まれてこのかた住んでいる燐太郎も、すべてを把握しているわけではなかった。
(こっちだと、滝野川のほう……明治通りへ出ちまうか? 曲がりすぎて方角がわからんな)
燐太郎は眉根を寄せる。スマートフォンがあればすぐに地図を確認できるが、逃走の際に置いてきてしまった。
いつしか残照は退いて、闇が頭上を覆っている。点在する街燈は、町の隅にわだかまる闇を照らし出すには足りないように思えた。
道の両側に連綿と続く住宅には灯りがついているのだが、芝居の書き割りのように薄っぺらく見える。家々から漏れる夕餉の支度の音やかすかな話し声が、かえって静けさを強調した。
静寂の中で、燐太郎の雪駄の足音がやけに大きく響く。
路地に折れてから、誰ともすれ違わない。
女は一度も振り向かなかった。迷うそぶりも見せず、和装にしてはかなりの速度だ。
(さて、どこへ向かっているのやら)
追跡を中断して水秦神社へ帰るべきだということは、重々わかっている。
想定していた外出時間はとっくに超過している。放り出してきた仕事が今さらながらに思い出された。人手はいくらあっても足りないし、六時からは司式をこなさねばならない儀式がある。
それでも立ち止まる勇気が出ないのは――
(雫のはずが、ない)
自分に言い聞かせるように内心でつぶやくのは何度めか。
垣間見えた女の横顔に、懐かしい面影を見出した。反射的に尾行めいた行動に及んでしまったのは、それだけの理由だ。
(雫のはずがない。……二度と、会えやせんのだ。そんなこと、誰よりも俺がわかってるはずじゃあないか)
小さく首を横に振る。溜息をつくと、呼気は街燈に照らされて白い輪をつくった。
(やっぱり戻ろう)
最初からそうすべきだった。疲労がたまっているせいで、理性的でない行動をとってしまっただけだ。
燐太郎が踵を返そうとした、そのとき。
だしぬけに、女が立ち止まった。
「……っ」
思わず息を呑んでしまったのは、半身だけ振り返った女が、こちらを見た気がしたから。
錯覚であったかもしれない。
燐太郎と女との間は、およそ十メートルは離れていたのだ。けれどその表情を、燐太郎は確かに見たと思った。
宵闇に浮かび上がる白い貌は、色も質感も、卵の殻そっくりだった。しかし、その面差しは。
(ああ、似ている)
鋭く黒く切れ上がった、ふたつの目。つるりとした顔の真ん中で、紅い唇が下弦の月のかたちにつりあがる。
凄絶な微笑、であった。
――ごめんね、燐。
目眩がした。奥底へ沈めたはずの記憶が泡のように浮かび上がってくる。よろめきかけて、ブロック塀に手をつきバランスを取った。
視線を戻すと、そこにあったはずの女の姿は消え失せていた。
「な、に?」
突然、高いところから落下するような感覚に陥る。住宅街が一瞬にして闇の中へ溶け去った。
(しまった、筋に取り込まれたかっ?)
同時に、喉元に鋭い痛み。
「ぐ……」
細く固いものが燐太郎の首に巻きついていた。
引き剥がそうと両手の爪を自分の喉元に立てるが、それは思いのほか強靭だった。触れた感触は革紐のようで、表面にごつごつといぼのようなものが突き出している。
そうしているうちに、細いものは燐太郎の首を絞め上げてきた。
(こりゃあ本格的にまずいぞ)
まさかアヤカシに遭遇するなどと思っていなかったので、何の準備もしてきていない。手元にあるのはコンビニの買い物袋だけだ。
そのうえ首を絞められているために声が出せない。怪異に対抗するわざのうち燐太郎が知り憶えているものは、その大半が詞を媒介とするのである。発語ができないのは由々しき事態だ。
喉から呻き声未満の音が漏れる。
意識が朦朧としてきた。背後に重苦しい気配があって、何者かが後ろに立っているかのようだ。
咄嗟に燐太郎は首から右手をはずし、袂へ突っ込んだ。
掴み出したものを背後へ投げつける。
息苦しさが緩んだ。声が、出る。
「――祓い給い、清め給え、守り給い、幸い給え!」
首に絡んだものを振りほどく。
「掛けまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓え給いしときに生りませる祓戸の大神たち、諸々の禍事罪穢あらむをば祓い給え清め給えと、白すことを聞こし召せと、恐み恐れみて白す!」
突然身体が開放され、燐太郎は前へつんのめった。
「うおっ、と!」
投げ出されて地面に両手をつく。土の感触が掌にひやりと冷たい。
喉が意思によらず酸素を求め、燐太郎は激しく咳き込んだ。四つん這いのまま、ひゅうひゅうと鳴る呼吸が落ち着くのを待つ。
それからようやく彼は頭を上げ、周囲を見渡した。
「ここは……」
闇に囚われる直前の路地ではなかった。
鼻先五メートルほどの場所に見慣れぬ家屋があって、燐太郎は面食らう。
よく見ればずいぶんと古い家であった。雨戸はぴたりと閉じられ、灯りがついている様子もない。木造の縁側は一部が歪んでいた。空き家であるらしい。
燐太郎はゆっくり立ち上がった。
竹塀に囲まれた庭の一角であるようだ。おそらく日本庭園のしつらえと思われるが、長年放置されている風であった。庭木はどれもてんで勝手な方向へ伸びている。鹿威しに流れる水はなく、ひょうたん型の池も空っぽだ。
(なんだってこんな場所に)
燐太郎は首をかしげる。
そのときふと、甘いような渋いような香りが、背後から漂ってきた。
振り向いて、香りの出処に近づく。
(ははあ、なるほど)
昏かった空は、いつの間にか宵の薄紺色に戻っている。
その空の下、竹塀の際に。オレンジ色の街燈を背にして天を衝き上げる、くろぐろとした枝。
枝に沿って白い蕾が群れている。下のほうはまだ固いが、高い枝の蕾は膨らみ始めており、雪洞の灯火を思わせた。
それは見事な――白梅、であった。
大木である。長身の燐太郎でも見上げるほどの高さに枝が伸びている。樹齢は相当に古いのであろう。
燐太郎は手を伸ばし、一番低いところにある枝に触れた。
鞭のようにしなやかな枝には尖った節があり、指先を刺す。
「……やれやれ」
肩をすくめた。自分の首に触れ、枝が食い込んだ痕をさする。
見れば、梅の木の根本に先ほど投げつけたお守りがふたつ落ちている。燐太郎はそれを拾い上げ、袂へ戻した。
「さっきのは、あんただな?」
問いかけても、梅の木は答えない。
馥郁とした香りだけが、しんしんと冷えいる中で存在を主張した。
◆
年経た植物は、ときに異界の存在を宿す。
人や獣より長い時間を生きるからだとか、植物が内に抱える虚が異界と接続しやすいのだとかいろいろ言われるが、はっきりしたことはわからない。
いずれにせよ植物が変じたアヤカシは、古来より樹精や花精として人の身近にあった。その典雅なイメージに反し、植物の精が人の精気を吸ったなどという物騒な伝承は各地に残っている。国内のみならず、中国でも清代の『聊斎志異』などに似た伝説が見られるし、古代ギリシアのドライアドも人間の若者を木の中に引き摺りこむというから、どうやら植物とはそういうものであるらしい。
人に悪さを仕掛けるとき、植物は美男美女の姿をとるのだという。
(つまるところ俺は、最初っから魅入られちまってたってことか)
燐太郎は、ごろりと布団の中で寝返りをうつ。
(弱ってたとはいえ、修練不足もいいところだ。爺さまが生きてたらぶん殴られるな)
内心でぼやきつつ再び目を閉じてみたが、眠れそうにない。なにしろ今日はずっと寝ているのである。いくら普段から睡眠不足でも、寝続けるには限度があるらしい。
布団から這い出し、本棚に手を伸ばした。書物の大半は書斎として使っている先代の部屋にあるが、この部屋にも多少は置いてある。
一冊の本を携えて卓上の読書灯を点す。青硝子の灰皿を引き寄せ、煙草に火をつけた。
「燐太郎、起きてるの?」
廊下から声がした。
おう、とああ、の中間くらいの返事が終わらないうちに襖が開く。
「ちょっ……何やってんのよ!」
顔を出した杏子は、寝間着代わりのジャージ姿の燐太郎を見て呆れ顔になった。
「風邪のくせに、薄着で本読んで煙草吸ってるとかどういうつもり? やっぱり馬鹿? 馬鹿なのね? 知ってたけど!」
畳み掛けられて燐太郎は眉を下げた。
「アンズよ、そんなに馬鹿馬鹿言わんでもいいじゃあないか。俺は病人だぞ」
「じゃあ病人らしくおとなしくしてなさいよ!」
正月三日に奇妙な経験をしたあと、燐太郎はものの見事に風邪をひいた。
残る義務の数々は市販薬の助けを借りて乗り切ったが、体調は悪化を続け、一通りの行事がすんだ本日になってこうして寝込んでいる次第である。しかし、発作的現場放棄についてはそれでうやむやになったため、悪いことばかりともいえないのだが。
「仕事抜けてふらふら歩き回って風邪もらってくるなんて、完全に自業自得だわ」
あの日の夕刻に出会った怪異のことを、燐太郎は杏子にも話していない。彼女は彼の妙な知覚について知っているが、余計な気を遣われたくなかった。
杏子が部屋へ踏み込んで掃き出し窓のカーテンを開けた。冬の午後の薄日が差し込んでくる。目を細めた燐太郎を、杏子は腰に手を当てて見下ろした。
「ふぅん。だいぶ顔色いいじゃない」
「お蔭さまで」
「よろしい」
杏子は枕元の切子のコップを取り上げ、ペットボトルのスポーツドリンクを注いでくれた。それを飲み干した燐太郎は、ぽつりとこぼす。
「腹減ったな」
「……あんたって、ほんっと欲望に正直よね! そう言うと思ってお粥つくっといたわよ、感謝しなさい!」
「ありがたき幸せ」
茶の間まで歩いていけそうだったが、せっかく杏子が持ってきてくれたので、寝床に入ったままお粥を食べるという病人の贅沢を満喫することにした。
「何読んでたの?」
「古今和歌集」
杏子は形のいい眉を不審そうに寄せた。またこのインドア野郎め、と思われているに違いない。小学校の同級生であること以外、杏子と燐太郎の間の共通項はとても少ないのだ。
燐太郎が食べている間に、杏子はコートを羽織る。
「お店抜けてきちゃったから、あたしそろそろ帰るけど」
「ああ。いろいろと、ありがとう」
何を思ったのか、杏子は口をへの字にした。
「……どういたしまして。お大事にね」
ひとりになると、家の中に静けさが戻ってきた。
燐太郎はゆっくりお粥をすすった。温かくて、卵と塩の穏やかな味がした。
右手にスプーンを持ったまま、古今和歌集の本を引き寄せる。左手でページを繰りながら、香色の着物の女のことを思った。
(あの梅の木も、花を咲かせるために精気を必要としてたのかねぇ)
燐太郎の迷い込んだ空き家には、表に不動産業者の名で『売地』の札が出ていた。近頃は駅前のマンションに若い家族が増える一方で、住むもののない古い家が増えていると聞く。都心だけに地価が高いため、住人が亡くなった場合は相続人が税金を払えず手放すケースが多いのだそうだ。
くだんの女も、梅の木を手入れするものがいなくなったがゆえに顕れたのかもしれない。問う術はないが。
燐太郎が視線を転じると、掃き出し窓から裏庭が見通せる。物干し台が大半を占める西向きの狭い庭は、冬枯れで黄ばんでいた。
春はまだ、遠い。
春の夜の 闇はあやなし梅の花 色こそ見えね 香やはかくるる
凡河内躬恒
やっぱり思ったより長くなりましたが、ひとまず予告通りの前後編にて。
年末からお正月の神社は面白いネタに溢れているので、そのうちまた何か書きたいです。