春告香:前
正月なので正月の話。たぶん前後編程度で終わる気がします。
「煙草を買いに行ってまいります」
据わりきった目をして言い捨てると、白テントの下の視線が一斉に集まる。
「……何言ってんの? どういう状況かわかってんでしょ?」
緋袴の巫女装束に身を包んだ辻杏子が、眉を吊り上げてパイプ椅子から立ち上がった。
「まだお参りの人、たくさんいるのよ」
「わかってるとも」
彼はそれ以上は言わずに踵を返す。
「ちょっと、燐太郎! 待ちなさいよ、本気なの? 待ってってば……ふっざけんな馬鹿神主! あんた、ここの責任者でしょうがぁ!」
幼馴染の罵声を背に。
曲直瀬燐太郎は、彼の仕事場にして自宅でもある水秦神社から逃亡した。
一月三日の夕刻のことである。
◆
不穏な気配は、すでに十二月からあった。
「あ、雨降りさまが載ってる」
十二月の二週目、月曜の午後。社務所の大座敷に座り込んだ杏子が、スマートフォンを眺めながら言った。
「なんかおしゃれっぽいサイトに紹介されてるわよ。東京都内のパワースポットめぐりだってさ、すごいね」
燐太郎が後ろから覗き込むと、杏子の頭上でポニーテールが揺れる。
彼女が見ていたのは、女性をターゲットにしたタウンガイドサイトらしい。スマートフォンの小さな画面に、細いフォントで『隠れパワースポット! 水秦神社』と見出しが表示されていた。
「別に隠れとらんが」
「そこなの? キャッチコピーじゃない、ただの」
「最近、都電沿線は再注目らしいからな。幸先商店街の店もときどきその手のサイトに出てるぞ」
「前は老人の街なんて言われてたのに、変わったわね。もっと人が来てうちのお店のお客さんが増えたら、あたしも嬉しいけどさ」
「不景気だからなぁ。金をかけて遠出するより近場へ、ってことだろう」
肩越しに杏子が苦笑いした。
「夢がないわねー」
「人が来るならなんでもかまわんよ、俺は」
肩をすくめた燐太郎を、杏子はからかうように見上げる。
「こんなふうに紹介されたら、初詣、混んじゃうんじゃない?」
「望むところだ」
燐太郎は腕組みをして不敵に笑ってみせた。
神社が最も多忙になるのは、初詣の時期である。有名な祭りのある神社や、出雲大社の『神在月』など特別な謂れのあるところでは事情が違ってくるのだが、一般的には正月松の内が年間最大の書き入れどきだ。
東京北部は幸先町の鎮守にして日ごろは閑古鳥もいいところの、通称『雨降りさま』――曲直瀬燐太郎が弱冠二十五歳にして宮司をつとめる水秦神社でも、それは同じであった。
「で、俺はもう出かけるが。アンズがまだいる気なら杉井さんに言っとくから、帰りに一声かけてくれ」
「あたしもお店戻るわ。花屋も年末年始は忙しいのよ」
「こんなところで油売ってるからだろう」
ふたり並んで社務所を出た。燐太郎は、お守りやお札を売る――正式には「授与する」という――授与所へ「行ってきます」と声をかける。
授与所の番をしている杉井氏は近所に住む七十代の男性である。退職後、町内の数人の老人たちと一緒に水秦神社の手伝いをしてくれている。杉井の柔和な笑みに見送られて二の鳥居をくぐった。
「今日も営業?」
「でなきゃこんな格好はしとらん」
石段を下りながら、燐太郎は窮屈そうにネクタイを引っ張った。スーツも革靴もトレンチコートも、着慣れないというほど着る機会がないわけではないのにどうにも落ち着かない。
どこの神社も似たようなもののはずだが、十二月半ばの十日間ほどは、挨拶回りに費やされるのが常だ。水秦神社の神職は燐太郎ただひとりである。なおのこと、行事を手伝ってくれる商店街や資金の出所となる地元企業への義理を欠くわけにはいかない。神職と巫女の助っ人に来る近隣の神社への挨拶と打ち合わせも必要だ。
それで燐太郎も、外回りのための服装をしているのである。
「毎日その格好で仕事してる人いっぱいいんのよ」
「ご苦労なことだな。袴のほうが楽だ」
「ほんと、燐太郎は珍しいやつよね」
さも面白そうに、杏子はけたけた笑う。
杏子の実家『フラワーつじ』の前でふと思い出して、燐太郎は言った。
「今年は何日から来る?」
「うちは三十日までだから、大晦日の朝から来るわ。三が日は全部手伝えるわよ」
「ありがたいな。今年は他に三人バイトの巫女が来るんだが、未経験者ばかりでね」
「まっかせなさい。あたしは高校生のときからやってるもんね。バイト代は弾んでよね!」
杏子は腰に手を当てて偉そうに胸を反らす。コートの下で、豊かな膨らみが揺れた。
「頼りにさせていただくよ」
燐太郎は仰々しく杏子を拝んでみせた。
翌週になると、燐太郎は悠長に構えていた自分を呪いたくなった。忙しさが、文字通り目の回る様相を呈してきたからである。
十二月の最終週からは神社にほとんど缶詰状態で過ごした。最後に外に出たのは三十日、業者が甘酒を持ってきたときだ。
「今年は参拝の人が多そうですねぇ」
どうやらそういうことらしい。トラックを運転してきた酒屋は嬉しそうに言い、燐太郎は内心げんなりしながら相槌を打った。
以後は「若先生」「若先生」と声がかかるまま右往左往し、入れ替わり立ち替わりやってくる手伝いや陣中見舞いに頭を下げ、業者に応対し、質問されるたびに先代の祖父のやり方を思い出しながらしどろもどろに答え、宵祭では幣を振って祝詞をあげ、わずかな休憩時間に杏子の持ってきたコンビニおにぎりをかじる。時間は瞬く間に過ぎた。
「……賑わってほしいとは思ったが、ここまでとは言っとらんぞ」
思わずそうこぼしたのは、年越しの開門に立ち会ったときである。
水秦神社は普段、夜間も門を閉じない。その慣習に唯一変化があるのが大晦日だ。夕刻から門は一度閉じられ、深夜零時に開かれる。
門の外を窺った燐太郎は、石段の下まで続く列を目にして一瞬気が遠くなった。明らかに例年より多い。
「やりがいがあるねぇ、若先生!」
「は……ははは……」
商店街から手伝いに来ている親父連中に肩を叩かれ、燐太郎は乾いた笑いを漏らすしかできなかった。
しかし、ぼやいてばかりもいられない。
人の群れを捌いてまた祝詞をあげ、自室に戻る気力を使い果たして社務所の隅で眠り、明け方に商店街の長老に叩き起こされて祝詞をあげ、授与所を見回り、祝詞をあげ、拝殿の列整理を手伝い、そして祝詞をあげ、祝詞をあげた。
この状況では、時間の感覚は消え失せる。
ようやく人の波が落ち着いたつい先ごろ、放置していたスマートフォンの画面を久々に確認し、彼は今が一月三日の十六時過ぎであることを知った。いや、頭では日付も理解していたのだが、実感が戻ってきたというべきか。
スマートフォンのアプリには、さほど多くない友人たちからの「あけおめ」メッセージが溜まっていた。
狩衣のまま社務所の畳に脚を投げ出し、正月休みを満喫する愉快なスタンプたちを眺めていたら、こいつら全員呪詛してやろうかという気分になってきた。
(いかんいかん、物騒すぎる)
仮にも神職が三が日に考えることではない。
しかも燐太郎は、普通の神職とは少し違う。彼が呪詛などというと、わりと「洒落にならない」のだ。
燐太郎は自分の掌を見下ろし、こわばった指を一本ずつ動かした。
皮膚の感覚が遠く、手足は熱を持っている。疲労が極限近いのだろう。こういうときはいちいち発想が過激になるものだ。
(このままじゃあ、神経が焼き切れちまう)
外の世界が恋しい。埃っぽくてうるさくて、鎮守の森に守られていない場所へ出たい。
繁忙期の職場から責任者が逐電を図った経緯は、そのようなものであった。
◆
元日ほどではないものの、参拝客は途切れる様子もなく石段を上がってくる。
燐太郎は人の流れに逆行して石段を下りた。鬼気迫る表情になっているせいか、すれ違う人々が場所を空ける。
狩衣も烏帽子も社務所に放り出してきた。白衣と浅葱袴はそのままだが、上から二重回しの黒いコートを着込んでいるので一見して素性はわからない、はずである。
それでも石段の途中で誰かが、若先生、と呼んだ気がしたが――きっと商店街の老人衆だろう――、燐太郎は聞こえないふりをした。
石段を下りきって一の鳥居を抜ける。とたんに、街のざわめきが彼を迎えた。
「皆様のデイリーストア、一月三日のタイムセールは……」
「おひとりさま三個までです!」
「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ」
商店街には『新春大売出し』の幟が掲げられている。まだ年始休業中の店もあるが、開いている店には赤文字の値下げ札がそこかしこに踊り、買い物客で賑わっていた。
この五日間、ただの一度も触れなかった俗界の空気だ。
(俺は頑張った。充分頑張ったぞ!)
冬の東京らしくからりと晴れた夕空を見上げ、小さく拳を握る。母親に手を引かれて通りすがった子供が、不思議そうに彼を見上げた。
脱出を果たした燐太郎は背後を窺った。さしあたって追っ手はかかっていないようだ。
現在の水秦神社には、近くの桧葉八幡宮から来た神職がひとりと巫女がふたり、さらに杏子をはじめとするバイト巫女と商店街からの男衆がいるのだが、燐太郎を連れ戻すよりも目の前の仕事が重要と判断したのだろう。
だいたい、彼は煙草を買いに行くと言ったのだ。すぐ戻ることは明らかにしている。非道な行いではない。それほどは。
(よしよし)
燐太郎はひとりで頷くと、JRの駅まで続く商店街の中心部へ足を向けた。
二重回しの裾をひるがえし、人の流れに乗って歩く。煙草を置いているコンビニはここから五分もかからない。
商店街は正月らしいどこか浮わついた雰囲気で、日頃は煩わしく思う人混みにすら妙な懐かしさを感じた。境内の参拝客を捌いていたときはうんざりしたが、自分が紛れてしまえば群衆も悪くはない。少しばかり目立つ服装のせいで埋没しきれていない事実には目をつぶることにする。
コンビニの自動ドアをくぐる。LEDの人工的な光に、燐太郎は安堵した。
店員は疲れた様子だった。幸先町商店街の裏手には、大抵の東京ガイドブックに載っている有名な寺がある。行事のときには水秦神社などの比ではなく混み合うので、この店もさぞ忙しかっただろう。
(お互い大変だねぇ)
レジで煙草の銘柄を告げるとき、燐太郎は自分の声が嗄れていることに気づいた。低く掠れ気味の声を褒められることは多いのだが、今はざらついた余計な響きが混ざっている。一週間で通常時の半年分くらいの祝詞をあげ続けたのだから当然であろう。
「あ、すみません。これも」
レジの下に並んだレモン味ののど飴を追加した。
「六百七十六円です」
会計しようと袂へ手を突っ込んだら、憶えのない感触がある。小銭入れと一緒に出てきたのは、水秦神社で授与しているお守りだった。しかも、ふたつ。
授与所の周辺で紛れ込んだのだろうが、現場の混乱を示すようで、燐太郎は小さく苦笑した。
煙草と缶コーヒーとのど飴を携えてコンビニを出るころには、彼の苛立ちはほとんど収まっていた。
(ふむ。やっぱり、外の空気を吸うのは大事だ)
睡眠不足で足元がややふらつくものの、ぴりぴり肌を刺す寒風が心地よい。彼はひとつ伸びをすると、来た道を戻るべく歩き出した。
視界の端を白いものがかすめたのは、そのときだった。
(……ん。何だ?)
はじめは闇の中に仄かな光が浮かんでいるように見えた。意識を向けるにつれ、それは人のかたちをとった。
燐太郎は歩を留めた。
三が日の最後の日、夕暮れの商店街の雑踏。
誰も彼もが暗色のコートを着た流れの対岸に、白い人影がある。
ほっそりとした身体つき。墨を流したような髪は、顎先の長さですっぱり切られている。女だ。
こちらに背を向けてわずかに覗く横顔は、朧月のように発光して見えた。
ざわ、と皮膚が粟立つ。
女が纏うのは白い着物、いやあれは白ではない、黄色味を帯びた淡い灰色に紅をわずかに交ぜた色には、香色という名があるのだった、それを教えたのは、誰だったか?
――ねえ燐、雅な言い方でしょ。昔の色の名前って、どれも素敵なんだよ。
象牙、練色、利休色、蘇芳に秘色、瓶覗。
記憶の再生と思考がどこか別の場所で行われているような気がした。性能の低いカメラのレンズ越しのように、視界のピントが揺れている。
甘く、酸っぱく、香ばしく。どこか古びた匂いが香った。
「……しず、く?」
燐太郎の唇から、乾いた言葉が零れ落ちる。
彼が呆然と見る間に、人影は商店街を挟んだ反対側の路地に、するりと消える。誘うように。
真冬のさなかにも関わらず羽織すら着ていない異様さは、まったく意識に上らなかった。香色の着物と、切れ長の目――あれ以来、ひと時も忘れることのない闇色の瞳。それだけが、燐太郎を捕えた。
耳の奥で、雨音が鳴り響いていた。




