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天空のマーギアー  作者: 才原たつき
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現代魔術と魔術兵器 下

 あれは十年前の初夏。ちょうど六月だった。

 開戦からすでに半年が経ち、軍の上層部はすでに張り詰めた細糸のような緊張感を漂わせ始めていた。所々はキンクして、いつ切れてしまうかわからない状態だ。当然下層にもその緊張感は伝わってくる。魔術研究局には連日のように研究結果の開示を求める声が届き、研究局員も、当然俺も毎日うんざりしていた。

 当時は政府軍七番隊のいち隊員だったサイラスは、カルマ帝国への出撃を目前に控えていた。カルマ帝国は魔術ではなく近代科学に特化した国。魔術があれば確かに勝つことは容易ではあるが、魔術は全員が使えるわけではない。当然、ただの人間である彼らに「魔術」という力を与えなければ、容易ではない。

 そのための必要必須条件である、「素質のない人間でも使える魔術」の開発はすべて魔術研究局に委ねられていた。俺は眠気と頭痛に苛まれる頭を引きずりながら、その日も仮眠室から出てきた。

「よおラーク、ねっむそうだな」

 明るい声がする。目の前を見れば、快活そうな笑顔があった。サイラスだ。

 その隣にいるのは、ヴィル。サイラスと共に七番隊に務める、政府軍の隊員だ。

「サイラスか……お前は相変わらず、元気そうだ」

「まあなー。そっちは研究、順調そう?」

「順調そうに見えるか?」

 苦笑して、肩を竦めてみせる。サイラスは「全ッ然」と笑うと、俺の真似をするみたいに肩を竦めた。

「そんなに突拍子もない話なのか。一般人にも使える魔術って」

「そんなことはない。一般人でも、簡単な魔術なら使える。問題なのは、一般人でも人を殺せるレベルの魔術を使わせるという点だ」

 なるほどね、とサイラスは頷く。わかっているのかは定かではないが、少なくともその隣のヴィルはわかっている様子だった。

 ヴィルは軍人だが、魔術の素質はあった。魔力量が少ないため魔術師には不向きだったが、当然簡単なものなら使える。だから、俺の話にも理解をしてくれたのだろう。

「まあ、頑張ってくれよ。……勝ち負けはどーってことねーけど、さっさと終わらせなきゃだしさ」

 急に笑顔を消したサイラスに、俺も自然と笑みを消す。

 戦争が始まってから、市民への負担も強くなり始めていた。戦場は市街地にまで広がりつつあり、市民の死者も出ている。なるべく少なく済ませたい。それが、俺とサイラス、そしてヴィルの共通思念だった。

「わかった。なるべく良い結果を伝えられるよう努めるよ」

「おう。じゃあな」

 サイラスが笑って去っていく。おそらく、訓練に行くのだろう。戦場へと向かうために――――人殺しをするために。

 俺は重たい頭と脚を引きずって、研究室へと向かった。



「ラークさん、おはようございます」

 研究室に入ってすぐ声をかけてきたのは、若草色の髪を揺らす女性。俺の妻、ルチアだった。

 一緒の研究局で働くルチアは、ごく普通の研究局員だ。特に植物系魔術に詳しく、そこから治癒魔術への応用を主に研究していた。

「早いな、ルチア」

「何を言ってるんですか。もうお昼ですよ」

 くすくすと笑って言うルチアに、時計を見る。たしかに時刻はすでに昼を回っている。そういえば、布団に入ったのは朝焼けが見え始めた頃だったと思いだし、俺は苦笑した。

「お疲れ様です。コーヒー、淹れますね」

「ああ、頼む」

 笑って給湯室へ駆けていく後ろ姿を見ながら、俺は自然と笑みをこぼした。いつも殺伐としている研究室が、彼女のお陰で花が咲くようだった。心が軽くなっていくのを感じる。

 俺は自分のデスクに座ると、片付けないまま散らかした書類を手にとった。

 やろうとしているのは、科学に魔術をプラスすることだった。名づけて、「現代魔術」。銃、もしくは近代兵器に魔術を上乗せしてやれば、威力は格段に上がるだろう。そうすれば自国の勝率は目に見えて上がる。魔術を回路に乗せてやることは簡単なのだが、いつも一定の値で、一定の結果を出すためには、魔力を一定にしてやらなければいけないということだ。それがなかなか難しい。

 ため息を吐く。その瞬間、デスクにマグカップが置かれた。湯気を立てるコーヒーの薫りに、俺は顔を上げる。

「ため息を吐くと、幸せが逃げてしまいますよ?」

 心配そうに見つめてくるルチアの表情に、俺は慌てて笑みを作った。だがその笑みが作り笑いであることに、妻である彼女が気づかないわけがない。ルチアは更に心配そうな表情を作ると、

「最近、ちゃんと眠れてないみたいです。眠っている時も皺を寄せて、苦しそうで」

 白く細い指が、俺の眉間を撫でる。俺は笑みを崩さないままに、「大丈夫だ」と呟いた。

「早く研究を進めなきゃいけないからな。上からの声も煩い」

「……人殺しの、研究ですか?」

 沈んだ声が胸に刺さる。思わず笑みを消して、俺は頷いた。

「……如何に早く、確実に、そして残虐に人を殺せるか。それを考えているよ。犯罪者の気分だな」

 まさにそうだった。早く確実に殺せれば、それだけ短い時間で大量に殺せる。そして残虐に殺せれば、士気が下がる。

 戦争は、実際に戦場に出ていない自分でさえも道徳心が削れていくようだった。人殺しをだんだんなんとも思わなくなっていくのが、怖くて仕方がない。

「……悲しいです。また、いっぱい人が死にます」

「……お前は、人を生かす研究をしているのにな」

 ルチアを見上げる。

 ルチアは、如何に早く人の怪我や病気を治してやるかを研究していた。植物の持つ再生能力を応用し、傷ついた人間の身体も心も癒す。それがルチアの研究。

「……さっき、上から人が来たんです」

 ルチアが、急に話をしだす。俺は怪訝そうな表情をすると、「上から?」と聞き返した。

「食人植物の持つ毒性の霧を、擬似的に作ることはできないかと」

 俺は思わず立ち上がっていた。

「お前にまで、そんなことをさせろというのか……!?」

 理論上は可能だろう。単純な毒物であるから、すぐに培養して制作し、しかも広範囲に散っても効果が薄れなくなるようにまで。

 だが言いたいのはそうじゃない。ルチアにまで、人を殺すための研究をさせるということが、俺には我慢がならなかった。

「そんなこと、お前はしなくていい」

 俺はルチアの肩をそっと掴んで、言った。

「お前は同じ研究をしていてくれ。人を生かす研究だけしていてくれ、頼むから」

 上に立つ人間として、あるまじきことだとは思う。だがそれでも、ルチアだけはその手を汚してほしくなかった。

「……コーヒー」

 ルチアが急に、つぶやく。

「冷めちゃいますよ」

 にこりと、ルチアは笑った。

 俺の作り笑いがルチアにわかるように、ルチアの作り笑いも、俺にはわかる。俺はゆっくりと座り直すと、

「お前も少し休んで、飲むといい。あまり根を詰めすぎると効率も良くない」

 ラークさんもですよ。ルチアは、そう言って笑った。

 たとえ作られた笑みでも、花が舞うようだった。





 研究、してきます。そう言って局長室を出て行ったルチアと入れ替わりで入ってきたのは、白衣姿の青年。ショウ・サテライト。自分の部下であり、魔術研究局副局長だ。日系人のような漆黒の髪が特徴で、やや背は低い。いつだかかわいい妹がいるんだと自慢気に話していた。

「おーっす、ラークさん」

 そう言って気怠そうに入ってきたショウの片腕には、二冊の本が抱えられていた。日焼けし、色も黄ばんでいる分厚い本。それはおそらく、魔術書の類だ。

「どうした、ショウ」

「なんか研究倉庫の奥からすっげーもん出てきました」

 これっす。そう言って、ショウはデスクに本を置いた。

 古代レグノス語で書かれたタイトルは、「魔獣図鑑」。もう一方には名前は書かれていない。ラークは名前の書かれていない方の本をぱらぱらとめくり、ショウを見上げた。

「お前……これは」

「原本か写本かわかんねーっすけど。たぶんそれ、メラゾーゼフの魔獣図鑑と、ソーエスティアの契約の魔術書っす」

 そっとデスクに本を置いて、ラークはその二冊の本を見比べる。同時期に制作され、しかも交友の深かった魔術師である二人の本が、ここに二冊揃っている。偶然なのか、それともただ単にセットとして置いていただけなのか。それとも……。

「……調べてみるっすか?」

 ショウが俺の瞳を覗きこんで言う。俺は頷くと、

「あとで過去の論文でもあさって見る。ここにあったってことは、なんらかの研究はされていたはずだからな」

 ショウは頷くと、その本を置いて去っていった。自分の研究に戻ったのだろう。俺は机に残された魔術書を見つめてから、ため息を吐いた。

「……余計な発見じゃ、なければいいんだがな」

 呟いて、俺はその下に敷かれたメモ書きを強引に引っ張りだした。



 それから時間が空いて、時刻は夕方だった。

 研究室奥にある、数々の資料や論文、研究・実験結果が置かれている書庫で、俺は論文を漁っていた。だが、どれほど探しても二冊の魔術書に関する記述は見られない。無駄骨だったか。そうため息を吐きかけたところで、書庫の扉が慌ただしく開くのを聞いた。

「ラークさん!」

「局長ぉ!」

 入口近くの本やら資料やらを崩しながら入ってきたのは、ショウともう一人。白衣の下に派手目なパーカーを着た青年、遠藤アキラだ。手先が器用なアキラは魔術の研究というよりは、その研究を元に道具を開発することの方が多かった。

「どうした、慌てて」

 論文のファイルを閉じ、本棚に戻しながら言う。二人は俺に駆け寄ると、

「で、できたっす!」

「あんたの言ったやり方でできたよ、銃に魔術組み込むっていう、アレ!」

 一瞬、思考のヒューズが飛びかけた。

 だがすぐに正気に戻ると、俺は二人を跳ね除けるようにして研究室へと走っていた。二人も後から追いかけてきているのが気配でわかる。研究室のドアを乱暴に開けると、人だかりができているデスクへと迷わず進んだ。

「魔導式拳銃は」

 俺が言うと、「これです」と研究員の一人が俺にそれを手渡した。

 銀色に光る、ミスリル製の拳銃だった。微かに虹色に光るそれを見回す。

「……試し撃ちは」

「まだっす。……やってみてください」

 ショウが言う。俺は頷くと、マガジンを抜いて銃弾が入っていないことを確認する。マガジンを再び装着して銃口を開いた窓に向けると、魔術道具にする要領で魔力を込めた。

 自分の理論であれば、魔力を込めて引き金を引けば、圧縮された魔力が弾丸となり撃ち出されるはずだ。指先まで、緊張が走る。その指先で、引き金を引いた。

 乾いた、轟音。

 開け放たれ、蜂蜜のような黄金色が見える窓の外へと、魔力でできた弾が撃ちだされていくのがわかる。たとえ見えなくとも、それが感じ取られた。銃特有の振動と反動が、左手に強く伝わった。

「ラークさん」

「ああ。……間違いない」

 俺は銃をデスクに置くと、

「成功だ」

 笑った。

 それまで殺伐と研究を続けていた研究員たちに、ようやく笑顔が見えた。これで一つの山は超えた。それが安心感へとつながった。

「さて、それじゃこれを纏めるか」

 ため息を吐いて、踵を返す。簡単な研究報告書を書かなければならない。仕事は山積みだが、それでも寝起きに感じた暗鬱さよりは断然晴れやかな気分で、俺は一度両腕を伸ばして背伸びをした。



 近代科学に魔術を組み込む、「現代魔術」。それの完成へは、さほど時間はかからなかった。理論さえ分かってしまえば、あとは簡単な方法だったからだ。これなら量産も可能だろう。手書きで報告書をまとめて終え、俺は一息入れるよりも先に書庫を訪れていた。

 書庫の扉を開けると、二人が崩してそのままの本と資料が散らばっていた。ため息を吐いて、俺はしゃがみ込む。古い資料や論文のようだ。それらを拾い上げて積み戻そうとしたときだった。

 一番下に、奇妙な文がある。手書きのそれは論文というよりはメモ書きだ。研究結果のメモのようなものだろう。俺はそれを拾い上げると、文字に目を通し……そのまま踵を返した。

『魔獣図鑑と契約の魔術書に関する研究』

 それは、俺が探していたものだった。



 メモ書きの内容をまとめて要約すると、内容は以下のものとなった。

 二つの魔術書は互いに魔術式が欠けており、二つの魔術式を組み合わせることにより一つの魔術式となる。その魔術式は破壊の魔術であり、非常に危険だというもの。

 ほらみろ、余計な発見だ。そう俺は心で毒づいて、メモ書きを机に放った。深く深く、ため息を吐く。まったく、研究室の奥はこれだから嫌だ。どこを開けてもパンドラの箱にしかならない。これが見つかれば、上層部が黙ってはいないだろう。戦力とすることを言い出すはずだ。

 たしかにこの破壊の魔術は、上層部が作れと命令している魔術兵器にはうってつけの代物だろう。むしろ、これ以上ないものだ。これを組み込めば、上層部が望む、惨忍で破壊力のある兵器になる。

 どうするか。そう、ため息を吐いた時だった。

「邪魔するぞ」

 そう言って入ってきたのは、自分と同じ金色の髪と金色の瞳――――自分の父親である、ルムス・ガニアンだった。

 父親の姓はガニアンだが、自分は母方の姓であるセスターを使っていた。父親の姓を使うのは、御免だったからだ。

「……軍司令部殿が、こんなところに来るとは。お暇なことだ」

 明らかな嫌悪をむき出しにしながら、俺は言う。ルムスは気にしないように俺を見下ろすと、

「魔術兵器の制作進行はどうなっている」

「こないだ報告した通りだ。そんなにいちいち聞きに来ても、進行が早まるわけではないぞ」

 睨むようにルムスを見る。上官に対して不適切な対応を取る俺には何も言わずに、ルムスは机の上を見た。そして、置かれたメモ書きを拾い上げる。

「……魔術書か」

「片付けていたら偶然出てきたものだ。特に問題じゃない」

 言って、俺はメモ書きをひったくる。そのままゴミ箱に捨てようとした俺に、ルムスは静かに言い放った。

「破壊の魔術」

 俺の動きが止まる。読まれたか。そう思いルムスを見ると、ルムスは更に続けた。

「二つの魔術式を組み合わせ発動される魔術。その威力は甚大なものだと推測される……これを兵器に組み込むというのは、どうかね?」

「……あんな一瞬で、よく読めたな」

 睨みつけながら、俺は言う。ルムスは魔術書を手に取ると、ぱらぱらとめくった。

「読む必要はない。そのメモ書きは、私が書いたものだ」

 目を見開く。

 メモ書きに目を通せば、たしかに殴り書かれた字は父親のものだった。何故今まで気付かなかったのか。俺は内心舌打ちした。

「……それで、どうする」

「却下したいな。威力が強すぎて巻き添え、なんてことにもなりかねない」

 自分と同じ色の瞳を睨みつける。腹立たしいほどに、ルムスと自分はよく似ていた。髪も瞳も、肌の色も。身長も、顔つきも。すべてが自分とこいつが親子であることを示してくる。

「……お前には妻がいたな。ルチアといったか」

 急に話題を変えたルムスを、俺は怪訝そうに見つめる。ルムスは軍服のポケットに手を突っ込むと、そこから何かを取り出した。白い紙に包まれた、細長い何か。ルムスは紙を丁寧に開いた。

 ……そこにあったのは、見慣れた色。若草色の、一房の髪。

 何を示しているのかは容易に理解できた。髪や爪、血というものは本人を示すための重要な部分だ。つまりそれは、簡単に呪術を使えるという、脅迫。しかもそれが自分のものではないという徹底さ。

「貴様……どこまで腐れば気が済む!?」

 デスクを思い切り叩き、俺は怒鳴った。そんな怒鳴り声さえ涼しい顔で、ルムスは聞き流す。髪を丁寧に包み直し、ポケットに再びしまい直して。

「お前の妻を殺したくなければ、作れ。その魔術を組み込んだ、魔術兵器をだ」

 言い残して、ルムスは俺に背を向ける。俺は手元にあった万年筆を引っ掴むと、

「殺してやる……いつか必ず殺してやるからな!!」

 叫ぶ。同時に、左手で持った万年筆をルムスに向かって投げた。

 万年筆はルムスではなく扉にぶつかり、インクをぶち撒けながら床に落ちた。



「……どうしたんですか? ラークさん」

 入れ替わるように、ルチアが入ってきた。ルチアは床に落ちた万年筆を拾い上げると、

「壊れちゃってますね。新しいの、取ってきますか?」

 そう言って、ルチアは立ち上がる。俺は早足でルチアに近づくと、思わず抱きしめていた。細く華奢な身体。よく見れば、少しだけ髪が短くなっている。やや荒れて乱れてきた若草色の髪を撫でると、俺はさらに強く抱きしめた。

「ラークさん、苦しいです……」

 言われて、俺は慌てて力をゆるめた。「ぷはあっ」と、ルチアは俺の胸から顔を少しだけ離す。そして、俺を見上げた。

「どうしたんですか? ラークさん」

 笑顔で言うルチア。

 すべてわかっているはずだ。ルムスに髪を取られた、その意味。そしてそれを俺が知っていること。その意味を。

 すべて分かって笑っているのだ。ルチアは。

「……絶対俺が守るから。何があってもだ」

 俺は言う。

 ルチアは一層破顔して、「はい」と嬉しそうに言った。



 数日後。七番隊がカルマ帝国の激戦地へと向かう日。

 つまり、サイラスとヴィルが戦地へ向かう日となった。

 まだ早朝だというのに、集合場所となっている正門にはすでにたくさんの隊員が集まっていた。必死にペンダントを握りしめているもの、祈りの言葉を呟いているもの、蒼白な顔をしているもの。皆それぞれだが、今から戦地へと向かう緊張感と恐怖感は、やや離れたこの場所にも伝わりつつあった。

 研究所二階、倉庫。その窓から見下ろすのは、建物と建物の隙間の、細い路地だ。滅多に人の通らないその場所だが、サイラスとヴィルはしょっちゅう正門への近道としてその場所を通っていた。

 今日もまた、二人の姿が見えた。軍服を着て、歩み寄ってくる二人の姿だ。その表情にはにわかに緊張は見えるものの、恐怖はしていないように見える。それに少しだけ、ほっとした。

 二人が窓の近くへと近づいた時、俺は下を見下ろして叫んだ。

「ヴィル、サイラス!」

 二人が、俺を見上げる。俺は両手に持ったそれを、二人に向かって放り投げた。

「餞別だ、持っていけ!」

 放物線を描いて、それは二人の手に収まる。銀色に光るそれは、拳銃。試作品だが精度も十分の、魔術式拳銃だ。中には俺が魔力を込めてある。いざという時、守ってくれるように。

「帰って来い!!」

 頼むから、帰って来い。死ぬな。

 俺の言葉に、サイラスとヴィルは笑顔を返した。笑顔で、手を一度振る。そして、そのまま正門まで歩いて行った。

 そのまま窓から、俺は二人を見送る。

 この日ほど、朝日が憎々しく見えた日はなかった・



 更に数日後。

 魔術兵器が、ついに完成した。

 最終調整のために、アキラが兵器のコンピューターにプログラムを打ち込んでいる。俺はアキラに近づくと、その肩に触れた。

「うわ、なんだよ局長」

 びくりと驚いたように肩をすくめ、アキラは俺を振り返る。俺はアキラに殴り書いたメモを見せると、

「このコードを組み込んでくれ」

 アキラはメモを受け取って、そこに書かれたコードを見る。そして、ゆっくりと俺を見た。

「……おいこれ」

「ああ。……自壊コードだ」

 苦笑して、俺は言う。アキラはメモをもう一度見て、

「いいのかよ、これ」

「大抵の兵器には、敵に渡っても悪用されないよう自壊コードが設定されているものだからな」

 建前だけどな。そう言って、俺はアキラの肩から手を離す。そして鉄とパイプの塊の、およそ魔術が絡んでいるとは思えないそれを見上げた。

 パイプはクリスタルに繋がれ、直接魔力を供給されるようになっている。そのまま目標座標をコンピューターに撃ちこめば、その座標の頭上に魔術陣が組まれ、魔術が発動する。そういう仕組みになっている。

「……おっけ。全部終わった」

 言って、アキラが立ち上がる。そして兵器を見上げると、深くため息を吐いた。

「また、えらいもん作ったな。俺たち」

「……そうだな」

 俺は頷いて、アキラからメモを受け取る。そして、指で宙にぴんと弾いた。その瞬間、メモは音もなく発火する。そのままメモは床に落ちる前に、燃え尽き灰になった。



完成から、わずか二日後だった。

魔術兵器の発動が命じられた。発動する時刻は、日が落ちた後の午後八時丁度だ。カルマ帝国に残るイスギート兵全員が撤退後、この魔術兵器は発動される。俺はコンピューターに座標を打ち込みながら、何度も唇を噛んでいた。

 撤退予定時刻は七時四十分。だが、五十分を過ぎても七番隊だけが撤退を完了せずにいた。まだ、戦地に残っているのだ。何が起こっているのかは、研究員である俺にはわからない。

 早く撤退してくれ。そう願いながら、俺は座標コードを打ち終える。発動準備を完了させ、最後の点検を済ませ。あとは七番隊の撤退待ちとなったときだった。

「ラークさん! ガニアン司令から連絡!」

 ショウが、俺に通信機を放り投げる。俺は通信機を受け取ると、嫌な予感を胸の奥に押し殺しながらも答えた。

「……魔術研究局局長、ラーク・セスターだ。どうした」

『七番隊が遅れているようだな』

 淡々とした声に、苛立ちが頭を擡げる。俺はその苛立ちを隠さないままの声で、「それがどうした」と返した。

『予定時刻になっても撤退が完了しない場合は、待たなくていい。発動は予定通り行え』

 耳を疑った。

 耳だけではない。その声を処理し理解した脳も、俺は疑った。何かの間違いだ、そうどこかで何かが叫んでいる。俺は恐る恐る、声を絞り出した。

「……冗談だろう?」

 声が震えていた。恐怖と怒り、両面からだ。だがルムスは、無慈悲に告げた。

『冗談ではない。発動は予定通りに行え』

 時刻を見る。発動二分前だ。撤退完了の報告はまだ来てはいない。

 脳裏に一瞬、二人の姿が見えた。倉庫の窓から見送った、最後のあの二人の姿。笑って手を振り返してくれた。生きて帰ってくると、約束した。

 それを――――俺が、破るのか?

「っ、ふざけるな!! 予定を変更しろ!! 七番隊の撤退完了次第にっ」

『お前の妻がどうなってもいいのか』

 三文芝居にでも出てきそうな、ベターでチープなセリフだった。小悪党が発するような、安っぽく使い古された言葉。そのセリフを、こいつは淡々と、何の感情も込めずに言い放った。

 発動一分前。報告は来ない。何の連絡も入らない。時計の針は止まることなく、刻一刻と時を刻んでく。都合よく時が、止まるわけがない。

 俺は通信機を切ると、床に叩き付けた。そのまま、兵器のコンピューターを操作する。

「動作確認――――完了。魔力供給開始――――三十、四十、五十……七十パーセント供給完了。目標、カルマ帝国首都フラクテル。魔力供給百パーセント完了……」

 秒針が、時を刻んでいく。一秒一秒丁寧に時を刻んで、秒針は長針とぴたりと重なった。

 その瞬間、発動のキーが、押された。

 押したのは紛れも無く、俺の指だった。

 同じ部屋に備えられたモニターが、カルマ帝国の様子を映す。上空に映し出されるのは、大魔術レベルの大きな魔術陣。そして、その魔術陣は魔術を発動した。

 大きな雷槌だった。光の柱のようにも見える。それは何度も上空から地上へと降り注ぎ、その地を黒煙と炎で染め上げた。

 ルチアが両手で口元を押さえるのがわかった。そこに映されていたのは、幾万もの命の終わりの瞬間。姿が見えずとも、その惨状まで映らずとも、それは容易に想像ができた。

 そしてあの場所にはまだ――――七番隊が、サイラスが、ヴィルが、残されている――――。

 その自責の念が、思考が、邪魔をして、俺は気付けなかった。魔力値が、異常に上がっていることを。兵器から、奇妙な音がし始めたことを。

「ラーク、兵器が……」

 ショウがそう言って、一歩踏み出した時だった。

 パイプの合わせ目が、亀裂を走らせた。

 電気が走るような音を立てて、光の筋が放たれる。それはショウの頬をかすめ、コンクリートでできた壁に穴を空けた。

「な……っ」

 ショウの動きが止まる。合わせ目から漏れる光……魔力は溢れ出ると。

 四散した。

 焦げ臭さが辺りを包む。暴発した。そう理解するまで、数秒も要さなかった。俺はすぐさまかけ出すと、兵器を止めようとコンピューターへと近づこうとした。

 目の前を、光の筋が通って行った。

 踏み出したはずの右足は、膝から下がなかった。そのままない足は空を踏み、コンクリートの地面にたたきつけられる。一拍遅れて、右膝の辺りから激痛が這い上がり始めた。焼けるように熱く、痛い。

「ラークさん!!」

 悲鳴のような叫び声で、ルチアが俺を呼ぶ声がした。驚愕と恐怖の色に、表情が歪んでいる。ルチアは着ている白衣を翻すと、俺の元へと脚を踏み出した。

「馬鹿、来るな!! 逃げ……っ!」

 逃げろ。その言葉は、最後まで言われずに終わった。

 目の前をもう一度、光の筋が通って行く。先程よりも大きい、人一人を包み込むほどの大きさだ。

 その光は――――ルチアを包み込んだ。

 目の前にいたはずのルチアは、光の筋が消えた後、同じように姿を消していた。こちらへ伸ばされていた左手、その薬指にはめられていたはずの指輪が、コンクリートの地面にぶつかる。ミスリルでできた指輪は転がると、俺の近くでぱたりと動きを止めた。

「……ルチア?」

 名を呼んでも、答えが帰ってくるはずもない。ルチアは、完全に消失した。暴発した魔術兵器によって。――――俺が作った、兵器によって。

 そこで、俺の意識は途絶えた。



「大変だったんだってねえ、そっち」

 目を覚ますと、俺は真っ白な部屋に寝かされていた。目が痛むほどの白。それは、病室の天井だ。

「君、三日も眠ってたんだよ」

 傍らにいたのは、白衣姿の優男だった。銀縁の眼鏡をかけているのは、俺の旧友。カトル・ローズ。救護班に勤めている。カトルはレンズの奥で、目尻を悲しげに下げた。

「…………ショウがね、兵器を止めたって。アキラとね。……死者はその場にいた十名中、君の奥さんを含めて四人。負傷者は君を含めて四人。うち重傷は君だけだよ」

「……死んだ、奴は」

 それしか、声に出なかった。カトルは手に持ったくしゃくしゃのメモを見ると、

「カール・ユーグ。アレックス・フーガ。ウィルバー・オーゼル。……そして、ルチア・セスター」

「……カール、アレックス、ウィルバー……」

 俺は名前を復唱する。全員、一緒に研究を続けてきた仲間だった。仲間であり、部下だった。それを、俺は死なせた。

「……怪我人の方は」

「ワイアッド・フィールとショウ・サテライトは軽傷。頬や腕を掠めただけだ。それと遠藤アキラは弱まってきた雷撃に当たって火傷。君は、言うまでもないだろ?」

 カトルの言葉に、俺は頷いた。

 一瞬だけ見たあの光景を、俺ははっきりと思い出すことができる。そして今も……あるはずの右足の感覚が、一切ない。それが意味することを理解できないほど、俺は馬鹿じゃなかった。

「いつだって、上の無茶で被害被るのは下だね。……今回ばかりは被害が尋常じゃない。あの兵器は魔術式を取り外して凍結だってさ」

「……そうか」

 相槌だけをどうにか絞り出して、俺は天井を見つめる。カトルは立ち上がると、「起きたって、みんなに伝えてくるよ」とベッドから離れていった。

「ああ、そうだ」

 思い出したように言って、カトルは立ち止まる。

「サイラス、無事帰ってきたよ。……ヴィルは、わからないそうだ」

 そうか。俺はまた、それだけを返した。



 脚がなくなった。その程度ならまだ、自業自得で済んだ。

 だが実際は、幾つもの命が失われている。研究局やルチアの命だけではない。幾万もの命が消えた。俺が消した。俺は、大量殺戮者だ。

 戦争はその後、魔術兵器――――後に、ソルと名付けられたそれの、たった一度の攻撃で、イスギート側の勝利で終結した。ソルはカルマ帝国に消えることのない傷跡を残した。

 俺はソルの完全凍結と事態収拾を済ませた後、研究もせずに一枚の書類を作成していた。適当なペンでサインをして、それを――――ショウに渡す。ショウはそれを受け取って、苦虫を噛み潰したような表情になった。

 書類に書かれている内容は一つだけ。ショウ・サテライトに、魔術研究局局長の座を譲るというものだ。ショウは俺を見ると、「いいのかよ」と小さく呟いた。

「お前の技術なら、もう充分やっていけるだろう。後片付けも済ませたし、俺はもうこんな身体だからな」

 未だ、ないままの脚の切断面を撫ぜる。俺はデスクの横に置かれた松葉杖を取ると、それに身体を預けて立ち上がった。

「デスクに置いてあるもの、全部譲る。好きに使ってくれていいし、いらなかったら捨ててくれて構わない」

「……わかった」

 ショウは依然暗い表情のまま頷く。俺は苦笑すると、そのまま部屋を出ようと片足で歩き出した。

「ラークさん」

 ショウが俺を振り返って、言う。

「アキラが、ラークさんに立派な脚作ってくれるって。だから期待しててくれって、言ってました」

 俺はショウを振り返る。ショウは俺を見ると、

「後は俺達に任せて、ラークさんは気ままにやってください」

 そう言って、笑った。無理矢理笑っていることは、明白だった。

「ああ。……お前も、無理はするなよ」

 そう言って、俺も笑う。

 俺の笑顔も、無理矢理つくったものだった。





 ラークの独白が、終わった。

 途中から飲まれることもなく、ただそこに在るだけとなったウイスキー。そのグラスの中の氷が音を立てて溶け、その音がようやく、現実へと意識を引き戻した。

 ラークはウイスキーのグラスではなく、どこまでも透明な、チェイサーのグラスを手に取った。微温いはずの水が、冷たく感じる。本来無味なはずの水が、どこか甘く感じた。

「……俺が話せるのは、これで終わりだ」

 水に冷やされ、潤った喉が、言葉を紡ぐ。その右手は自身の右足に触れており、服の上から義足の繋ぎ目を強く掴んだ。亡いはずの右足が、ひどく痛むような気がした。

「……これでいいか、ロベルト」

 振り返って、ロベルトが座っているテーブルを見る。ロベルトは視線をそらし、「ああ」と低い声で言った。その表情はどこか気まずそうで、その表情を見せまいと顔までそらした。

「……ニャトラとやらがヴィルなら、復讐したいのは俺だろう。7番隊の兵士曰く、ヴィルは雷槌に巻き込まれて死んだという話だ。……俺が、兵器を作った張本人だからな」

 ウイスキーのグラスを持ち上げて、氷の溶けて薄くなったウイスキーを喉の奥に流し込む。その瞬間、ロイドが立ち上がった。

「どうした、ロイド」

 ラークが呆気にとられて言う。ロイドは壁に立てかけた刀を手に取ると、

「俺、そのヴィルってやつ探してくる!」

 言って、ロイドは店を飛び出した。

 目を丸くし、ラークは数度まばたきをする。その間に、店の中にいた者たちは次々と立ち上がっていた。立ち上がって、店の外へと歩き出していた。

 ほどなくして、店の中が一気に静かになる。店の中に残っていたのはラークとリカード、そしてディールだけだった。

「……あいつら、なんで」

 ラークは小さくつぶやく。リカードは磨いたグラスをカウンターに置きながら、小さく笑った。

「馬鹿ですね、みんな。こんな夜じゃ、効率が悪いったらありゃしない」

 ラークが、リカードを見上げる。リカードは笑みを表情から消さないまま、ラークに言った。

「でもきっとそのくらい、みんなラークさんが大好きなんですよ」

 ラークはためらって、その後、ようやく笑った。





 何の音もしない。

 午前二時。ジェイクのいる病室には初夏の夜の美しい闇が流れ込み、静かに停滞していた。窓の外では風で木々が揺れている。その音がこちらまで届かないのは、窓を閉めているからなのか、それとも、他に要因があるのか。

 ……おそらく、「他の要因」とやらだろう。この病室には結界が張られていた。無駄がなく洗練された魔術式は、ラークのものだろう。ここを去る時、結界を張っていったようだ。

 何の音もしない世界。している音といえば、ベッドの横で椅子に座り、そのままで寝てしまっているフレットの寝息くらいだ。

 目を閉じても、眠りはやってこない。依然、肌の下を芋虫が這いずるような感覚は、小さくなっているものの消えることがない。ひたすらに不快なその感覚を抱いて、眠ることはほぼ不可能だった。

 なるほど、こうやって相手は自分を弱らせていきたいらしい。竜である身体を呪いだけで蝕むのはかなり難しいだろう。だが、精神や身体の本質は人間だ。精神をじわじわと殺していくのであれば、容易だ。

 ……音がしなかった世界に、一つ、音が滑りこんでくる。

 病室のドアが開く音に、ジェイクは横目で入り口を見た。黒いジャケットに胸元のあいたTシャツ。濃いグレーのチノパン姿のその男は、カイルだ。

「フレット、寝てる?」

 後ろ手にドアを閉めながら、カイルは言う。ジェイクはフレットに一瞬視線を移すと、ゆっくり頷いた。

「ああ、ならよかった。あんまり聞かれたくない話だからね」

 言ってカイルはリングブレスレットを右の手にはめる。そして小さく空中に文字を描くと、フレットにそっと触れた。おそらく、眠りの魔術だ。

「これで、よし。……じゃあ本題に入ろうか」

 カイルはそのまま右手で、ジェイクの呪印に触れる。本来ならば邪神の魔力が右腕から伝っていき、触れているものまでその呪いに蝕むはずだった。

 カイルの腕に、邪神の魔力が伝い登っていく。だがその魔力は、途中で途絶えた。

「……ま、邪神の魔力の本質が闇ならば、闇そのものの僕が負けることはない、か」

 呟いて、カイルは手を離す。そして肩をすくめると、

「やれやれ、だねえ。これじゃあ僕の秘密まで暴露しなきゃいけない雰囲気じゃないか」

「それは後でいい。……辿れそうか」

「うん。邪神に憑かれた身体が限界みたい。相当弱ってるよ」

 言って、カイルはフレットを椅子ごと後ろに下げた。カイルにそんな腕力はないのだが、おそらく魔術の力を借りているのだろう。壁際まで寄せると、カイルは再びベッドへと歩を進める。

「それじゃあ、ちょっとだけ居場所を探らせてもらうよ」

 カイルは右手の人差し指を横一文字に振る。チェーンの音が、静かに鳴り響いた。



 毛布の温かい感触がする。目を覚ますと、ラークはNocheの奥に置かれたソファーで眠ってしまっていた。

 どれほど寝たのか。身を起こして時刻を確認すると、すでに十時を回っていた。昨日は遅くまで起きていたから、こんなものか。そう思いながら毛布をたたみ始めた時だった。

 近くに置かれた椅子。その背もたれにかけられたラークのスーツジャケットから、振動音が聞こえる。おそらく携帯電話のバイブレーションだ。ラークはポケットからそれを取り出すと、軽く操作し耳に当てた。

「俺だ」

「僕だよ。……邪神の居場所を突き止めちゃった」

 やや疲れたような声の持ち主は、カイルだ。ラークは思わず立ち上がると、

「な、どうやってっ」

「僕なら探知魔術で辿れるよ。すでに呪われた人間なら、新たに呪われることもないしね」

 ラークはカイルの言葉に、動きを止めた。ラークはそのままもう一度ソファーに座ると、

「……どこにいるんだ、今」

「移動してるみたい。北町の廃墟通りに向かってるよ」

 ラークは、わかった、と頷く。電話を切ると、ジャケットを着てもう一度通話をつないだ。今度はカイルではない。

「ロイドか。ああ、俺だ。……カイルが邪神の居場所を突き止めた、今は北町の廃墟通りに向かっている……」

 Nocheを一歩出て、ラークは脚を止めた。

「北町、廃墟通りか。なんだか厄介なことになりそうです」

「ち、うちに近え。面倒事は避けてえんだが」

 扉の前には、ロベルトが相変わらずの仏頂面で、ミロが何やら考えるような顔で、立っていた。

「お前ら、なんで」

 ラークが小さくつぶやく。受話器から聞こえてくるロイドの声も、今はラークには聞こえていない。

「手伝うっつってんだ。感謝しろ」

 ロベルトの乱暴な言い方に、ミロが苦笑する。ラークは一拍置いてから、

「……ああ、悪い。ロベルトとミロもそちらに向かう」

 そう言ってから、通話を切った。

「……お前のことだ。自分の問題は自分で何とかしろ、くらいは言いそうだったんだがな」

 携帯をポケットにしまって、ラークは言う。ロベルトは舌打ちすると、

「勘違いすんじゃねえ、今回のこれは俺達にも関わる。それに、てめえが死んだら元も子もねえだろうが」

 数度、ラークはまばたきをする。ミロは苦笑したまま「えー……」と少し声を上げると、

「ロベルトさんは、俗に言うツンデレってやつなんですよ」

 言ったミロと納得したラークに、同じように拳が飛んだ。



「北町、廃墟通りか」

「うん。僕もそこに行ってくるよ」

 ジェイクの病室。カイルは脱いでいたジャケットを羽織ると、そのまま病室を出ようと脚を進め、

「どこに行くんだ、カイル」

 止めた。

 ジェイクですら動きを止める。壁際で眠っていたはずのフレットはそっと立ち上がると、カイルを見上げた。

「え、ちょ……フレット起きてたの……?」

「起きてた。お前らが何かしてるから起きれなかったんだ」

 フレットは自分よりやや背の低いカイルを見下ろして、きっと睨む。そして、ジェイクも同じように睨みつけた。

「邪神の魔力って、普通触っちゃいけないんだよな」

「あの、えっとね」

「触ったら死んじゃうんじゃなかったっけ」

「え、えーっと……」

「なんで平気なんだ」

「……それは、えと」

 フレットの矢継ぎ早な質問に、カイルは答えられない。フレットはむすっとした、機嫌の悪そうな表情で、ベッドの傍らに置かれていたカトラスを取ると、

「廃墟通りなんだろ。行こう」

 そう言って、病室のドアを開ける。その後を追いかけようとしたカイルと、ベッドで目を白黒させているジェイクをフレットはもう一度睨んで振り返ると、

「あとでちゃんと説明してもらうからなっ!」

 仲間はずれにされた子供みたいに、フレットは言い放った。



「どこ、いくんだ」

 虚ろな目をした少年が、ぽつりとつぶやくように言った。

 灰色の石畳が、少年の両脇を覆っている。空は分厚い雲が覆い、ひたすらにその世界を灰色に染め上げる。彩度の低いその世界の中、少年の左腕に結ばれたバンダナだけが、鮮やかなオレンジ色をしていた。

 このオレンジ色は、何だっただろうか。少年には思い出せない。思い出そうとする気力さえなかった。ただ、隣にいつもあたたかな何かがあったことは思い出せるのだが、今はそれすらない。今自分と共にいるのは、今にも死にそうにゆらゆらと身体を揺らして歩く、フードを被った男だけ。

 自分は何がしたくてこの男についてきたのか、今はもうわからない。従わなくちゃいけない、ただそれだけを強く思った。

 だけど……何故、従わなくちゃいけないのだろう?

 少年の心に、疑問が頭をもたげる。

 命を奪われるから? ……いや、自分はもう何も持ってない。命も、さほど重要なものではない。いつ死んだって別にいいのだ。今すぐに死んだって、後悔なんかしない。

 ただ、守りたいものがあった気がした。とても大切な何かが、いつも隣にいた気がした。

『ジャン、ジャンってば!』

 いつもオレンジ色に明るく笑う、少年がいた気がした。だけどそれは、いったい誰だっただろう。とても大切なものだったはずなのに、思い出せない。

 フードを被った男は、何も言わずにただ歩いて行く。少年の問いに答えることもしない。向かっているのは、どうやら大きなお屋敷のようだった。

「何しにいくの」

 その問いに、ようやく男は立ち止まる。そして少年を振り返ると、その頭に傷だらけの大きな手のひらをかざした。

「殺しに行くんだよ。邪魔をする、すべての人を」

 男の手が、闇色に光る。

 そして少年の意識は、静かに遠のいて――――。



 緑の多かった景色から、灰色の世界へと変わる。一気に彩度の低い世界へと入り込み、ロイドはその瞳を細めた。

 北町の廃墟通り。その入口に差し掛かった。ロイドは一度立ち止まると、息を大きく吸い込んで。

 叫ぶ。

「ジャ――――――――――ン!!」

 叫ぶのは、少年の名前。いつもどこか冷めたような目をして、それでもハインリッヒと一緒にいた時は楽しそうに笑っていた少年。

 ハインリッヒといつも一緒で、いつも一緒に授業中に寝て、サボって、それで一緒に怒られる。楽しそうだった二人組。

 自分たちのことで精一杯で、救えなかった二人の少年。救えるはずだった少年は今、あの時の悲劇の延長線にいるのだ。

 何も聞こえないことを確認して、ロイドは再び走りだす。廃墟の中、小さな路地。順繰りに見ていきながら、時折立ち止まっては、叫ぶ。

「ジャン、どこだ――――――――ッ!!」

 返事をしてくれ、頼むから。ロイドは反響する自分の声だけを聞いて、奥歯を噛んだ。



 ――――少年の意識は、沈みかけた泥沼から浮上した。

 声が聞こえた。懐かしい声だった気がする。誰の声だっただろう…………そう考えた少年の心に、情景が、蘇った。


 アレは、授業をサボった時だったと思う。スピーリョの回りを覆う森の中に脚を踏み入れて、帰れなくなった時。

 どうしようもなくなって、帰れなくて。泣き出しそうだった時に、聞こえてきた。

『ジャン、ハイン、どこ行った!! 返事しろ――――!』

 まるで自分の子供を探し出すみたいな、必死そうな声。その声に、泣きそうになったのを覚えている。

 そうだ、この声はおっさんの声だ。おっさん……俺達に勉強を教えてくれていた。言葉の勉強は詳しいくせに、数字の勉強は苦手だった。孤児だった俺達の、父親みたいに接してくれた人。おっさん――――ロイドのおっさん。


 少年――――ジャンはその手を、振り払った。

 フードの男が、ぐらりと揺れる。少年は飛び退るように後ろへ下がると、声の限りに、叫んだ。

「おっさああああああああん!! ここだああああああああ!!」

 掠れて、それでも静かすぎるこの空間に、その声は十分すぎるほど響いた。

 左腕のバンダナをつかむ。そうだ、俺の隣にはいつだってハインがいた。ハインリッヒ。俺の友達。俺はその友達に、謝らなくちゃいけない。

 ジャンは息を大きく吸い込むと、もう一度叫んだ。

「俺はここだああああああああああああ!!」



 ロイドは立ち止まると、その声を聞いた。

 心のなかに何かがこみ上げる。だがそれを心のなかに押しとどめると、方向を変えて走りだした。

 幸い、この空間は静かだ。他の音に紛れることなく、その声は聞こえてくる。どこから聞こえてきたのかもわかった。ローボの屋敷のすぐ近くだ。

 左手の刀を、強く握り直す。絶えず響く鍔鳴りの中に、もう一つ、ロイドは音を聞いた。足音だ。

「ロイド!」

 斜め上から降ってきた声に、ロイドは走りながら上を見る。屋根の上には、いつもの様に駆けるラークの姿があった。

「ラーク、ジャンが!」

「ああ、聞こえた!」

 ロイドの言葉に、ラークは頷いた。ラークは走りながら指輪を外すと、短く息を吹きかける。ロングソードに姿を変えたそれを左手で強く握ると、ラークは前方を睨んだ。

 ニャトラ……いや、ヴィルが近い。ヴィルが何を想っているのか、強く思うことは何なのか。それは俺への恨みか、はたまた世界への恨みか。それはわからない。

 だが自分が晴らしてやるべきだと思うのだ。それは自分が作ってしまった兵器のことでもある。焼き払った地上への責任でもある。だが何よりも――――彼の友人であるというただ一つの事実が、ラークの脚を進めている。

 ラークは一気に跳躍すると、空中を蹴った。そのまま真っ直ぐに、巨大な魔力の方向へと向かっていく。闇の魔力が迫っている。ラークは屋根から屋根、空中から空中へと飛び移り、そして。

 屋根から地上へと、飛び降りた。

 砂埃が舞う。壊れた屋根から差し込む一筋の光が、舞い上げた埃を照らし出した。それは彩度の低い世界の中、星屑のように輝いている。

 灰色の世界に、鮮やかな金色が揺れる。傾きかけた午後の太陽を思わせる、やわらかな金色だ。ラークは革のブーツで覆われた右足を、一歩、踏み出した。

「……久しぶりだな、ヴィル」

 風が、男のフードを揺らす。やせ細り骨ばって、深い傷も穿たれている、まるで邪神そのもののような指でフードの端を摘むと、男はフードを脱いだ。

「……十年振りか、ラーク」

 そこにあったのは、記憶通りのヴィルの顔ではなかった。生気に満ち溢れ、いつも輝いていたヴィルの笑顔は、そこにはない。そこにあるのは、痩せて窪んだ瞳と、こけた頬。血色が悪く土気色をした表情に浮かぶのは、歪んだ笑み。

「……久しぶりで悪いが、ヴィル。どうやら俺はお前を殺さなきゃいけないようだ」

「ああ。……俺も、お前を殺さなきゃいけない」

 ロングソードを、横一文字に振る。男……ヴィルは携えた杖をラークに向け、傷の穿たれた口元をにやりと歪めた。

「再会のダンスといこう、ラーク」



 ヴィルは杖を両手で持つと、空をかき混ぜるように大きく回した。杖の軌跡を辿るように、闇色が筋となる。闇色の魔力は魔力のまま細長い矢のように形を変えると、雨のようにラークに降り注いだ。

 ラークはロングソードを頭の上にかざした。そのまま頭を守る形で、一気にヴィルへと、真っ直ぐに駆け出す。矢を避けようなどとは考えてはいない。闇色の魔力はラークの肩を、頬を、腕を貫き、徐々に身体を侵食していく。

「血迷ったかラーク、そのままでは直ぐ死ぬぞ!」

 歪んだ笑みを浮かべるヴィルを見据え、ラークは剣を振るった。金色の光が、灰色の世界に散らばっていく。右足をぐっと踏み込むと、ラークはそのまま跳躍し、ヴィルの頭の上から剣を振り下ろした。

 杖でその剣を、ヴィルは受け止める。空中に留まる形となったラークはヴィルを蹴り飛ばし、後ろへとさがった。地面に触れた右腕を、傷口のように闇の魔力が侵食していく。しまった、とラークは思った。思ったよりも、濃度が高い。

「さあ、そのまま俺と同類になるがいい」

「やな……こったっ」

 ラークは剣を構えると、口元を吊り上げ笑った。そのままもう一度、頭だけを守る形で突進するように走って行く。

「馬鹿の一つ覚えか? それでは俺は倒せない!!」

 ヴィルが杖を降る。空中にできたのは、一際大きな闇の矢だ。ラークはそれを横に飛び避けると、地面に再び手をついた。だが間髪をいれず立ち上がり、再びヴィルへ向かい直進した。

 ヴィルは杖を大きく掲げ、一振りする。闇は矢ではなく大きな球を描き、膨れ上がっていった。これで終わりにする気か、それもいいだろう。ラークは口元を歪め、笑った。

 身体の右側に剣を構え、がら空きになっているヴィルの胴へと剣を振った。同時に、闇の球体をヴィルが放つ。ラークはそれを避けることなく、突っ込んだ。

 邪神の魔力が、身体に入り込んでくる。大量の羽虫が内側に潜り込んでくるような、不快な感覚だ。ただひたすらに不快で、発狂しそうな感覚。ラークは地面にロングソードを突き立てると、その場に膝をついた。

「ラーク、自殺でもしに来たのか?」

 ラークを見下ろし、ヴィルが言う。その表情に、もう笑みはない。ラークはそれでも、笑みを浮かべた。

「何が可笑しい」

 ヴィルが不快そうに眉を潜める。ラークはヴィルを見上げると、

「俺を何だと思っている……元魔術研究局二代目局長……」


「ラーク・セスターだ!」


 ラークの声に呼応するかのように、地面が光り輝いた。三つの点が、金色の光を放つ。それは互いに線を伸ばし合い、丁度正三角形の形を成した。――――ヴィルを囲むように。

「まさか、地面に手をついていたのは」

 焦りを浮かべるヴィルに、ラークはふらふらと立ち上がりながら「ああ」と答える。地面に突き刺したロングソードの上に手をかざすと、

「全てはこのためさ、ヴィル」

 笑った。

 口の中で小さく呟くのは、古代レグノス語ではない。それは現代における言葉と同じ。それを、意味するのは――――。

「照らすは光。遥かな天空より見下ろす太陽よ、空に満ちる光よ、いざ――――っ」

 光が、一層強く光り輝く。そして、爆発した。

 近くにいたラークをも巻き込み、爆風は建物を吹き飛ばす。ラークの身体は壁へ向かって吹き飛ばされ。

 だがしかし、力強い腕に抱きとめられた。

 力ない瞳で、ラークは見上げる。そしてそこに、深海の瑠璃色を見た。

「無茶、しやがって……っ!」

 ロイドの、焦ったような表情がそこにあった。ラークは薄く笑って、唇を動かす。その唇は、「悪い」と、たった三文字を呟いていた。

「今ので、だいぶ弱ったはずだ。濃度の高い、光をぶつけてやったから……やるなら、今……っ」

 立ち上がろうとしたラークを、リングブレスレットをした右手が止めた。漆黒の髪が揺れている。

「まあ、そこでちょっと休んでてよ。あとは僕らに任せて?」

「ラークさん、貴方は一人で戦ってるんじゃない」

 見上げた先には、カイルとフレットがいた。その後ろから、ロベルトとミロの姿も出てくる。吹き飛んだ廃墟に、全員が集まった。

 土埃が晴れる。その中に倒れているヴィルなど、誰も想像はしていなかった。そこにいたのは、杖を支えにして立ち上がっているヴィル。まだ、戦いは終わっていない。

「一対五……どうやって戦う?」

 カイルはにやりと笑って、脚を踏み出した。その笑みに、同じようにヴィルが笑う。

「知れたこと……数には数で、挑むだけよ!!」

 ヴィルは杖を振るった。闇の魔力は杖の先から円を描くように現れ、そのまま吸い込まれるように地面へと消える。完全に魔力が地面へと吸い込まれた次の瞬間。

 石畳の地面に亀裂が入った。

 その亀裂から出てくるのは、人の手。そのまま這い出してきたのは、半分腐った人間だ。

「ゾンビ……」

 ロイドが呟く。ロベルトはその光景に舌打ちをした。

「てめえ、だからここか」

「ああ。……ここには、死体が多く埋まっている」

 ステイラ北町の廃墟通りは、ひと目がつきにくい分浮浪者や行き場を失った者達がよく集る場所だ。故に、野垂れ死ぬものも少なくはない。

「大きな街になるほど、こういった影の場所は大きくなる……」

 ヴィルが呟く間にも、死体は次から次へと地面から這い出してくる。半分白骨化した死体、腕がない死体……その光景はまるで。

「安っぽいB級ホラーだ……」

 カイルが呟く。彼らの回りは、およそ数百の死体の山で埋め尽くされた。それも、動く死体だ。

「さあ行くが良い、死者の軍勢よ!」

 死者の軍勢が、襲い掛かってくる。痩せこけた指を、腕を。白骨化した身体を伸ばし、生きているものを死の淵へ引きずり込もうとする。絶望の行進が始まろうとしていた。

 フレットはカトラスを抜くと、襲いかかってきた死者の一人を斬った。だが痛みに怯まぬ死者は、それでもなお手を伸ばす。フレットは覚悟を決め心臓を貫くが……それでもなお、止まらない。

「無駄だ、そいつはすでに死んでいる! 腕を切り落とそうが、首を切り落とそうが、止まることはない!!」

 高笑いが聞こえる。フレットが奥歯を噛み締めた瞬間。

 視界の端で、何かが閃いた。

 それは二つの白刃。折れそうなほど薄く叩き上げられ、美しく輝く刀身。それはふた振りの刀。妖かしの力を持つ、妖刀……。

「操ってんのは、邪神とかいうやつの魔力だろう」

「だったら、俺達なら」


「斬れる」


 声を揃えて、二人……ロイドとロベルトは言った。

 ロイドは刀を正面に、ロベルトは小太刀を逆手に構え、襲い来る死者を睨みつける。ロベルトは脚を一歩踏み出すと、その白刃を閃かせた。

「死人なら、大人しく死んでやがれ!!」

 死者を、容赦なく斬りつける。死者はまるで痛覚が在るかのように、一歩後ろへと怯んだ。

「これは、いったい」

 フレットが呟く。その問いに答えたのは、フレットの後ろにいたミロだった。

「二人が持ってる刀は妖刀……それも珍しい、退魔の力を持つ妖刀だ」

「妖刀なのに、退魔の力を?」

 カイルが聞き返す。ミロは頷くと、

「東の国に住む白霧という刀鍛冶には、それができたという。刀自身が意思を持つ妖刀でありながら、邪なものを斬る退魔の力を持たせた……」

 ロイドは両手で構えた刀を、横一文字に振るう。一気にまとめて数人の死者を斬りつけると、そのまま背後に迫っていた死者を斬った。

「ロイドさんの持つ妖刀を、『月狼・夜影』。ロベルトさんの持つ妖刀を、『天狼・黒朔』……二つは同時期に作られた、兄弟刀だ」

 切りつけられた死体は、糸が切れた人形のように動かない。邪な魔力を斬られた死体が動くはずもなかった。ヴィルの表情に、焦りが見える。

「くっ……まさか、白霧の妖刀が、ここまでっ」

「うるせえよ」

 呟いたヴィルのすぐ近くには、ロベルトが迫っていた。逆手に構えた小太刀を斬り上げる。ヴィルは一歩飛び退ると、杖を構えた。

「ええい、この際は盾でいい!!」

 ロベルトの目の前に、死体の軍勢が立ちはだかる。ロベルトは不機嫌そうに舌打ちし、刀を頭上高く掲げた。

「邪魔だ……失せろ!!」

 叫ぶ。それと同時に、刀が黒い光を発した。

 稲妻が、辺りに走る。稲妻は死者だけを貫き、辺りに焦げ臭さを充満させた。稲妻に貫かれた死者たちは膝を折り、そのまま文字通り崩れ落ちた。無理矢理呼び戻された身体は、土へと還って行く。

 辺りは、元の静けさに戻った。ロベルトとロイドが、ヴィルの前に立ちはだかる。そして二人が刀を振り上げた……その時だった。

「ジャン!!!」

 少年の声が、聞こえた。

 廃墟の直ぐそばに、ハインリッヒが立っていた。ここまで走ってきたのだろう。ハインリッヒは肩で息をしながら、まっすぐにジャンを見据えていた。

「……ハイン」

「っ、ジャン!!」

 ハインリッヒはそのまま、ジャンに向かって走りだす。ヴィルはにやりと口角を吊り上げると、その杖を振るった。

「っ、ハイン来るな!!」

 ジャンはハインリッヒに叫ぶ。止まらないハインリッヒに奥歯を噛むと、ジャンも同じように走りだした。

 ハインリッヒに向かって、闇色の雷槌が放たれた。ハインリッヒが一瞬立ち止まる。ジャンはハインリッヒを庇うように抱きしめて、地面に転がった。

 二人の身体を、稲妻が貫く。そのまま二人の動きは、静止した。

「ハイン……ジャン……?」

 ロイドが、呆気にとられたように名前を呼ぶ。返事をしない二人に、たまらずロイドは駈け出した。

「ハイン! ジャン!!」

 地面に転がる二人に駆け寄ると、その身体を揺さぶる。二人は目を見開いたまま、動くことはなかった。その淀んだ瞳の色が、もう二度と二人が動かないことを示している。

「……死んだ、のか」

 ロベルトが呟く。ロイドは首を振ると、「まだだ!!」と叫んだ。

「まだ、そんなっあんな一瞬で!!」

 だがロイドは、一瞬で命がはじけ飛ぶことを知っていた。炎に包まれた、緋色の石畳の街。悲劇に襲われたスピーリョの街で、散々見たというのに。

「無駄だ。もうその子供は死んだ」

 嗤いながら、ヴィルは言う。ロイドは二人の体をそっと、地面に横たえた。触れた首筋は、脈打つことはない。触れた胸は、掌に何の鼓動も返すことはなかった。

 見開いたままの瞳を、掌でそっと閉ざしてやる。そして、ロイドはゆらりと立ち上がった。

「貴様……っ」

 ロイドの喉の奥から、叫びがこみ上げてくる。だがその叫びが喉をつんざく前に、その影は立ちはだかっていた。

 揺れるのは、やや癖の強い銀色の髪。携えたカトラスは翡翠色。それは青年、フレットの姿。

「フレット……?」

 カイルはその姿を見て、漏らすように名を呼んだ。その場にいた人物の中で、ヴィルを覗いてフレットの前に立っていたのは、カイルだけだった。

 カイルは、見た。フレットの、翡翠石のような翠の瞳が。

 蒼い炎に包まれ、染まり上がった瞬間を。





「……んー……」

 Noche、カウンター。留守番を頼まれたエレナはカウンターで分厚い本を読んでいた。ジェイクが残した、魔術などに関する書籍だ。だがエレナには少し難しいらしく、さっきから首を傾げてばかりいる。

「どうしたんですか?」

 ディールは食器を片付ける手を休めると、エレナに歩み寄った。エレナは本の文字を睨んだまま、

「よくわかんない……闇の魔力っていうものを持ってるのは、みんな悪いんじゃないの?」

「ところが、そうでもないんですよ」

 ディールはエレナの隣に座ると、本をそっと取る。そのページをめくりながら、

「たしかに闇の魔力を持つ種族は、たいていは人間に悪さをします。ですが、その悪さもピンからキリまでありまして……特に、この種族なんかかわいいものですよ」

 本のページを指差す。そこに書かれている種族の名は、「ハロウィン」

「ハロウィン?」

 エレナがその文字を読み上げる。ディールは「ええ」と笑って頷くと、

「最初は人間と何のかわりもない状態で生まれてくるんです。ですが、一度死ぬとその能力を覚醒させます。ハロウィンの『お化け』と呼ばれるのは、それが由来ですね。する悪さもすごくかわいくて、彼らは自分の能力を使うのにお菓子を必要とします。なので人間の子供からお菓子を奪ったりするだけです」

 へえ、とエレナは頷く。ディールはにこにこと笑って、ふと、考えこむように本のページを覗きこんだ。

 そういえば、あのハインリッヒという少年は、どこか人間ではないような気がした。だが何ら人間と変わらなかったし……まさか。

「どうしたの? ディールさん」

 エレナが不思議そうに顔を覗きこんでくる。ディールは慌てて笑みを作ると、「なんでもありませんよ」と首を振った。

「きっと、考え過ぎなんです」

 ディールはそう、小さく呟いた。



 そこにいたのは、厳密に言えばフレットではなかった。

 翡翠色のカトラスでさえも、蒼く染まっていく。ヴィルを睨む瞳は、どこまでも淀んだ蒼い炎。フレットの回りにはほのかに邪気が纏っているような気さえする。

 それは、その場にいた誰もが知っているフレットではなかった。フレットではない、他の誰か……。

「ふん、誰が来ても同じことよ……!」

 ヴィルはその杖を大きく振ると、先ほどと同じ、闇色の雷槌をフレットへと向ける。雷槌は耳に痛いほどの雷鳴を上げながら、フレットへと直進した。

 フレットはそれにも関わらず、その場から動くことはなかった。ゆっくりと、右手に握ったカトラスを振り上げる。そして、雷槌を。

 斬った。

 闇色の雷槌が、空中に霧散する。「なっ」とヴィルが一歩下がった。その間合いを詰めるように、フレットは大股で一歩脚を進めた。

「っ、来るなっ」

 立て続けに、ヴィルは幾つもの闇を放つ。だがフレットはそれを物ともせず、ただ右手に握るカトラスで、斬った。

 フレットの持つカトラスは、退魔の剣ではないはずだ。闇は斬れない。ならばどうして……。そう、壁に背を預けて座るラークは思う。蒼く染まったカトラスを見つめ、それが闇を斬った瞬間……ラークは、見た。

「そうか……アレは斬ってるんじゃない」

「どういうことだ」

 ラークの呟きに、ロベルトが言う。ラークはロベルトを見上げると、

「あれは闇を吸収している……今のフレットは、闇そのものだ」

「どういうことだよっ。フレットって、天使なんじゃないのか!?」

 ロイドが言う。ラークは壁に手を付きゆっくりと立ち上がると、

「天使とは通称にすぎない。本来のあれの名は光鳥族という。鳥族の中でも光の魔力を多く持つから、光鳥族と……だが、聞いたことがある。光の魔力を多く持ちすぎるとその分、『影』ができてしまう……と」

 光が濃くなれば、当然その分影も濃くなる。多すぎる光の魔力は闇の魔力を産み、光と闇、相反する二つの魔力を身体に抱えてしまうことになる。「光」とはまた違う性質を持つ「影」は大抵違う人格として表に現れるため、同種をひどく混乱させた。

 光……太陽に近付き過ぎたため、闇へと落とされた。闇の魔力を持つ光鳥族は、「天使」とは違う名で呼ばれる。

 人呼んで、「堕天使」と。

 フレットはヴィルへと早足で近づくと、そのカトラスを振るった。闇の魔力に染まったカトラスはヴィルの腕を斬るが、その身体には何の傷もついてはいない。互いに闇である彼らに、お互いの攻撃は通用しない。

「まずい……フレットも闇であるなら、ただの時間稼ぎにしかならないぞ……っ」

 ラークは言って脚を踏み出すが、闇の魔力に侵食された身体は上手く動いてはくれない。がくりと膝を折ると、その場に跪くように崩れた。

「ラークっ」

 ロイドがその場に駆け寄る。ラークは小さく舌打ちすると、自身の掌を見た。

 すでに肌の色が、闇の色に染まりつつある。闇の魔力は確実にラークの身体を侵食しつつあるらしい。ラークはロイドの肩に手を置くと、

「すまない……ロイドかロベルトか、どちらでもいい。刀を貸してくれ」

「っ、どうするんだよ」

「いいから」

 渋るロイドの代わりに、ロベルトが自分の小太刀を差し出した。ぶっきらぼうに差し出される小太刀に、ラークは苦笑する。「ありがとう」と苦笑って小太刀を受け取ると、ラークはその小太刀の刃を――――自分の胸に突き刺した。

「ラーク!?」

  ロイドがラークの名を呼ぶ。小太刀はラークの薄い胸板を貫くと同時に……ラークの中にあった闇色の魔力をも、貫いた。

 ラークに纏っていた魔力が、傷口から流れだしていく。真紅の血と共に流れだしたそれは灰色の石畳に流れ落ちたと同時に、空中に霧散した。

「退魔の剣であるなら、俺の中にある魔力も斬れると思ったが……どうやら、正解だったらしいな」

 言いながら、小太刀を胸から躊躇なく引き抜く。血の溢れ出す胸を右手で抑えると、ロングソードを地面に突き立てるようにして立ち上がった。

「でもラークっ」

「心臓や太い血管は避けたに決まってるだろ。まあ、俺は医者じゃないから、正確な位置なんてわからないから漠然としてるがな」

 ロングソードを構える。魔力が晴れ、すっきりとした脳内には静寂が広がっている。集中するには絶好のコンディション。コンセントレートは、魔術師にとっては必要不可欠なスキルだ。

「Ul Ragica……Lant ful」

 唇から漏れだすのは、古代の言葉。胸に風穴が空いているとは思えないほどの冷涼とした声は、その場に静かに広がっていく。

 それと同時に、ラークの足元に広がるのは魔術陣だ。魔術陣は二つ、三つと数を増やし、フレットの足元に広がっていく。フレットがそれに気づき脚を止めた、その瞬間。

「悪いフレット」


「To Sreup(眠れ)」


 ぶつけるのは、高濃度の光。それも眠りの魔術を孕んだ魔力だ。魔力はフレットの足元から胴体、頭へと上がっていき、フレットを眠りへと誘う。フレットは膝を折ると、崩れ落ちるようにその場に倒れこんだ。カトラスの色が、淀んだ蒼から澄み切った翡翠色に変わる。

「ロイド!」

 ロングソードを構えたままのラークが叫ぶ。それだけで、ロイドは弾かれたように走りだした。

 ヴィルのそばに倒れこんだフレットを抱き起こすと、そのままヴィルから離れるように走りだす。逃すまいと放たれた闇色の魔力を受け止めたのは、リングブレスレットをした右腕。

「悪いね、ヴィルとやら。僕は君に攻撃できないけど、盾にならなれる」

 闇色の魔力はカイルの腕に吸収されるように消えていく。その様子に、ヴィルは驚きの表情を浮かべた。

「黒髪に金の目……貴様、レーガンの人柱か!」

「やだなあ、その名で呼ばないでよ。人柱だなんて、なんだか格好付かないでしょ?」

 金色のリングブレスレットをした人差し指で、カイルは空中に何かを描く。それは闇色の障壁になると、ヴィルとカイル達を境界線になるように隔てた。

「フレットにあんまり見せたくなかったからさ。あの子ほら、心配症で面倒見がいいでしょ?」

 右手の人差し指を口元に寄せて、片目を閉じてみせる。ルックスの良いカイルがやればそれこそ女性を落とすには十分すぎる仕草なのだが……闇色の魔力を纏う今の姿では、どう贔屓目に見てもダークヒーロにしか見えない。

「さあ、どうするヴィル。もう君の攻撃は、僕らには効かない」

 両腕を広げて、カイルは微笑する。だがヴィルはその口元を歪め……笑った。

 くつくつと、歪んだ笑い声が響いていく。怪訝そうに眉をしかめるカイルに、ヴィルはその笑顔を見せた。

「貴様等は何もわかっちゃいない……俺の手元に、何があるのかもな」

 闇色のローブからヴィルが取り出したもの、それは分厚い本……ジェイクの、契約の魔術書だ。

「魔力を辿れば、呪印の魔力などすぐ強くできる。今直ぐ、この本の持ち主を殺してやるわ!」

 本に纏わり付く魔力が、一際濃くなる。その分、本とリンクしているジェイクの魔力が弱まりつつあった。ラークが脚を一歩踏み出し、奥歯を噛む。

「くそっやめろよ!!」

 ロイドが叫ぶ。だがその叫びでヴィルがやめるはずもない。どうする。ラークがそう思考を巡らせていた時。

 炎が、辺りを包んだ。

 オレンジ色の炎が、ヴィルの周りを包んでいく。ヴィルが驚き怯んだ隙に。その手の本が「見えない何か」に奪い取られた。

「本、とった!!」

 見えない何かが、そう叫ぶ。壁際まで移動したそれは空気の無色透明から徐々に色づき、少年の姿を浮き彫りにさせた。髪を適当にハサミで切りそろえたような、ざっくばらんな髪の少年。

「ジャン、ナイス!」

 炎を身体にまとわせながらそう笑うのは、前髪をヘアゴムで結んで額を出した少年だ。本を奪った少年に笑いかけると、親指を嬉しそうにつきだした。

 少年……ジャンは本を抱えてロイドたちの元へと駆け寄る。もう一人の少年、ハインリッヒもまた同じように駆け寄ると、

「本奪い返した!!」

「ま、俺達のコンビネーションなら楽勝だな」

 そう得意気に言う二人を、ロイドは唖然とした表情で見下ろす。そして、漏らすように言った。

「お前ら……なんで、生きて」

「「わかんない」」

 二人の少年は、声を揃えて言い放った。代わりに答えを言ったのは、ラークだ。

「おそらく……今のはハロウィン族の能力だろう……一度死んでから能力を覚醒させ、復活するという種族……そうか、お前等はハロウィンだったのか」

 ハインリッヒとジャンは互いに顔を見合わせる。そしてにへっと笑うと、

「よくわかんねーけど、生き返ってしかも役に立てたなら結果オーライじゃん?」

「そーそ!」

 ロイドは思わず、二人を抱きしめた。小さな身体はロイドの大きな身体にすっぽりと埋まる。「うわっ」「苦しいっておっさん」と笑う二人の頭をわしゃわしゃと撫でると、

「よかった……っ」

 そう心から漏らした。

「……安心してる暇はねえぞ」

「感動のシーンは、まず敵を倒してからにしよっか」

 小太刀を構え、ロベルトが言う。カイルも右腕をヴィルに向けながら笑って言った。

 ジャンが奪い返した本を取り、ラークはその本から邪神の魔力を払う。正常に戻った本からは、リンクしているジェイクの魔力の強まりを確かに感じることができた。

「これで平気なはずだ。ジェイクの件は解決した」

 ラークの言葉に、全員が頷く。ロイドは刀を構えると、ヴィルに直進した。

「く、来るなっ」

 放つ闇の魔力は、退魔の力を持つ刀にすべて絶ち斬られる。徐々に間合いを詰め、ロイドはその白刃を一閃した。

 刀は杖に受け止められる。だがロイドは、にやりと笑った。

「ラーク!!」

 名前を呼ぶ。そして一歩下がった。

 ヴィルの頭上には、天空を支配する雲雀の姿があった。午後の光のような、金色の艶を帯びる雲雀。雲雀は左手に持つロングソードを、ヴィルの胸に突き立てた。

 絶叫が、響いた。

 それはおそらくヴィルのものではなく、邪神のものだろう。魔物のような断末魔を聞いた後、ラークは傍らに倒れるヴィルの頬をそっと撫ぜた。

「……悪かったな、ヴィル」

 邪神の払われたヴィルはにっと笑った。それはもう、歪んだ笑みではなかった。

「いいってことよ……俺こそ、すげえ迷惑かけちまったな」

「元はといえば俺のせいだろう。……お前を殺したのは、俺か」

 ばーか。そう、ヴィルは言った。ラークはきょとんと目を見開く。

「……俺は撤退時刻の数十分前に、すでに死んでたんだぜ?」

 ラークはヴィルを見る。そして、泣きそうな顔で、笑った。

「そうか……」

「おうよ。だからお前は、俺の分まで背負わなくてもいいんだよ。……達者でな」

 ヴィルの亡骸が、土へと消えていく。崩れゆく掌をそっと握って、ラークは溢れそうな涙をこらえながら。

「ルチアに会ったら、よろしく頼む」

「おう。相変わらずいい男だったって伝えておくよ」

 じゃあな。そう言い残して、ヴィルは崩れ落ちていく。完全に土に還ったその躰は風に流され、消えていった。





「じゃあつまり、死体に残った無念を、邪神が増幅させたと?」

 後日。Nocheのカウンターに座ったカイルは、リカードの言葉に「そうみたいだね」と頷いた。

「ヴィル自身の無念と、周りに漂っていた霊魂の無念が宿って、増幅させちゃったみたい」

 現在のNocheに、普段いるべき人間がややいない。ラークは胸に刀を突き刺した怪我で入院中だ。ジェイクは呪印も消え回復はしたのだが、弟の見舞いで同じく病院にいる。

 ロベルトとミロはその後の後始末を勝手出てくれた。起動しかけた魔術兵器は、研究局の局員……ラークの部下達が、シャットダウンしてくれたらしい。

 全てが終わった。そう実感は在るのだが、なんだかつかみどころがない。そう、フレットは思う。おそらくそれは途中から意識が飛んでしまったからというのもあるのだろう。意識を失っていたあいだのことはカイルから少し聞いたのだが、自分ではよく覚えていないので他人のことのように聞こえた。

 光鳥族とか堕天使とか、そう聞かされてもよくわからない。フレットは終始、首をかしげることしかできなかった。

「ヴィルは魔術兵器の発動前に死んでいたみたいだしね。ラークも少しは、軽くなったんじゃないかな」

 そう言って、カイルは水の入ったグラスをカウンターに置いた。



 テーブルから、グラスに入った水を取る。それを一気に飲み干して、サイラスは「ぷはあ」と息を漏らした。

「んじゃあ、ヴィルはちゃんと逝けたわけだ」

「ああ。……ちゃんと空に還っていったよ」

 そっか。サイラスはそう安心したように笑った。その後ろにいた白衣姿の医者……ラークとサイラスの旧友、カトルを見て、ラークは苦笑う。

「にしても、お前まで軍を辞めてこんな場所で働いてるとはな」

「飽き飽きしたんだよ、もう軍隊の相手は嫌だね」

 肩を竦めて、カトルは言う。その様子に、サイラスは声を上げて笑った。

「ところで、ジェイクの様子はどうだった」

 ラークはカトルを見上げて聞く。カトルは笑みを消して額に手を置くと、「やれやれ」と首を振った。

「あのねえ、一応言うけど。ジェイクの怪我は粗方治って経過は順調だったんだ。あいつは元から魔力が高い上に竜の魔力入ってるんだよ? 治癒能力はかなり高い。だから君の方がよっぽど重傷なの。人の心配の前に、自分でやったというその胸の風穴どうにかしな」

 言って、カトルはラークの胸を軽く小突く。ラークは眉をぐっとしかめると、テーブルに突っ伏すようにして倒れこんだ。

「カトル……お前……」

 傷口を小突かれたラークは呻くように言う。カトルはその様子にくすくすと笑った。



 その病室からやや離れた、静かな個室。ベッドの上で眠るのは、自分と瓜二つの容姿をした青年だ。

 十年前から眠り続けているその姿を、ジェイクは見つめる。そっとその頬に触れると、なんだか少し温かい気がした。もう夏だから、この部屋も暑くなっているんだろうか。そう、少しだけ思った。

 ふと見れば、ベッドの傍らには花の生けられた花瓶が見える。その側に、小さな箱が置かれていた。その箱に、少しだけ首をかしげる。

 中身をそっと覗けば、そこには二つ並んだガトーショコラがあった。刻んだチョコレートが上に乗ったそれは、よく知っているガトーショコラだった。そんなものを作れる知り合いは、一人しか知らない。やや癖の強い髪を思い出しながら、ジェイクは少しだけ、口角を吊り上げた。

「まったく……ジークは寝てるんだぞ。どうやって食えって言うんだ」

 その口調とは裏腹に、声音にはどこか嬉しそうな声が含まれていた。箱を丁寧に置き直して、ジェイクはジークを見る。

 そして、その瞳を見開いた。

 病室に、自分と同じ声が、かすかに響く。かすれていて、弱々しい声。でもそれは、紛れも無く――――。

「……ジーク」

 名前を呼ぶ。そしてジェイクは今度こそ、美しい雪色の笑みを浮かべた。





「ところでさあ、フレット」

 カイルは一枚の紙を拾い上げながら、やや引きつった笑みを浮かべて言った。

「……これ、何?」

 紙に描かれているのは、奇妙な絵だった。耳が長いからうさぎ、ということはわかるのだが、目は子供が描いたようにぐりぐりとペンで塗りつぶされていて、いつか本で見たハニワか土偶のように見える。子供が描いたように拙いのだが、そこからは子供の絵独特の可愛らしさが微塵も感じられない。あるのは、ひたすらな奇妙さだけだ。

「それ、ジェイクの絵だぞ」

「え」

 嘘だろ。そう言いたげに、カイルはまじまじとその絵を見つめた。

 どう考えても、天才肌なジェイクからこの絵が生まれたとは思えない。何度も何度も目をこすりながら見るカイルをきょとんと見つめて、フレットは嬉しそうに笑った。

 幼なじみだと言うカイルが、知らなかったジェイク。それを知っていたというのが、なんだか無性に嬉しい。嬉しくて、フレットはくすくすと笑った。

「下手だよな、ジェイクの絵」

「下手だねえ、ジェイクの絵」

 同じように二人は言って、また、くすくすと声を上げて笑った。


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