現代魔術と魔術兵器 中
少年たちは、燃え尽きた町をただ見つめていた。漆黒の瞳を見開いて、大好きだった町の焼け跡を映していた。
美しい緋色の石畳は、どす黒い紅で汚れていた。誰かが流した血の跡だ。死体は綺麗に片付けられていたが、この場所で殺戮が行われたという痕跡ははっきりと残っている。
未だに耳に蘇るようだった。悲鳴と怒号。下卑た笑い声。炎が建物を喰う、ぱちぱちという音。銃声、金属がぶつかり合う音――――。
陽気で平和で美しい。そんな町なはずだったのだ。楽しそうな笑い声が聞こえて、市場の活気のある声が響いて。大好きなサーカスのみんなと、勉強の出来ない自分に熱心に教えてくれた大好きな先生。その先生の奥さんが、とても美人だった。その娘さんが、とてもかわいかった。
全てが、炎の中に沈んでしまった。大好きなものは、もうほとんど残ってはいない。ただ一つだけ残ったのは、自分の隣にいる少年。サーカスの団員の中で一番大好きな、一番の友達。
「……ステイラに行こう」
友達はただ一言、そう言った。少年は、ただ静かに目を見開いた。
「ステイラに言って、魔術を覚えるんだ。強いもんに、もう全部奪われるのは嫌だ」
友達の瞳には、強い感情が宿っているように見えた。決心のようだが、少しだけ違う。炎のような光だ。その瞳に、少年は何も言えなくなる。
「お前も、一緒に来てくれるよな」
振り向いて、友達は言う。さっきとは違う、懇願するような瞳。少年はただ、頷いた。
こいつの行くところなら、どこにだって行ってやろうと思った。たとえそれが地の果てでも。たとえそれが、天高い場所でも――――どこでも。
「行くよ。ジャンの行くとこなら、どこにだって」
少年の名は、ハインリッヒ。
友達の名は、ジャン。
二人の少年は焼け落ちたスピーリョを後にして、遥か天空の街――――ステイラを目指した。
羊皮紙には、ステイラ北町の地図が浮かび上がっている。その中に一つだけ、かすかな魔力の反応があった。どうやらそれが、投書を書いた人物の魔力のようだ。
「北町の……廃墟の一つですね」
探知魔術を使っていたララが、羊皮紙上の地図を見て言う。ラークは地図を覗きこむと、
「ローボの屋敷に近いな」
ミロが「そうみたいですね」と呟く。その声に驚いた様子はない。ローボに投書を書いたのだ。近くにいることくらいは予想していたのだろう。ロベルトは吸っていたシガレットを灰皿に押し付けて、椅子から立ち上がった。
「場所が分かったならさっさと行くぞ」
とっ捕まえてやる。言って、ロベルトは制止も聞かずに店を出て行った。ミロが溜息を吐いて、その後を追う。
「こちらからは、誰が行く」
ラークの言葉に、ロイドが軽く手を挙げた。
「俺行くよ。ロベルト暴走したら、厄介だし」
そう言ってロイドは立ち上がる。その次にフレットが「俺も行く」と言って立ち上がり、
「……なら、カワセミ団からはフレットとロイドと、俺か」
フレットが頷く。ロイドは「早くあいつらに追いつこう」と言うと、店のドアを開けて外に出た。それに、ラークが続く。
フレットはリカードに「いってきます」と軽く頭を下げると、四人の後を追って店を出た。
北町に立ち並ぶのは、寂れた廃墟の赤レンガだ。所々壁が崩れ落ち、穴が空いている。その奥にはローボの、豪華ではないが立派な屋敷が見え、その景色はどこか対照的だ。
「この中に、いるのかな」
ミロは一つの廃墟の前に立って、そう呟いた。
廃墟の中でも、比較的しっかりとしている建物だった。屋根には穴も空いていないし、窓ガラスも割れずに残っている。古びた様子は否めないが、壁も穴は空いておらず、隠れるにはたしかにうってつけの場所だ。
「誰か……いるな。微かに魔力を感じる」
目を閉じて魔力の気配を確認していたラークが小さく呟くように言った。ロベルトは扉を半ば蹴り開けるようにして中に入ると、その中を見回して。
「おい! いるんだろ!!」
叫ぶ。何もない、どこまでもがらんどうな廃墟の中に、ロベルトの声が響き渡った。あちゃあ、と、ミロが右手で顔を覆う。ラークが苦笑して、フレットがぴたりと固まった。
「お、おいおいロベルト。そんなに叫んだら」
ロイドがロベルトを諌めようとする。だが、その時。
がさり。
どこからか、音がした。
全員が動きを止め、あたりを見回す。ロベルトは音のした方向……少し奥にある階段の、その下にある小さな収納室へと足を向けた。誰かが隠れられる丁度いいスペースだ。
ロベルトは扉を見下ろすと、まず足でどんどんとまるでノックするかのように蹴る。中から音はない。
「ラーク」
ロベルトはラークを振り向いた。ラークは収納室を見下ろすと、目を閉じて意識を集中させる。収納室からはたしかに、微かだが魔力の反応が出ているようだった。
「……」
ラークは何も言わず、ただ頷く。ロベルトは収納室のドアノブに手をかけると、一気に開けた。
大きな音が響く。ドアが壁にぶち当たった音だ。その音に、収納室の中にいた人影が怯えるように身をすくめた。
「……」
ラークは言葉をなくす。
その中にいたのは、少年だった。十四、五歳だろうか。怯えたように引きつった表情はまだ幼く、体つきも小さい。そして何よりもラークの目を引いたのは、その髪型だった。
前髪を、ぼろぼろになったヘアゴムでくくっている。その色は黒で、怯えきった瞳もまた、綺麗な漆黒。
それはジェイクが言っていた少年――――ジェイクを襲い、本を奪った少年の容姿に一致していた。
「てめえ、まさかっ」
ロベルトが声を上げる。その瞬間、弾かれたように少年が動いた。ロベルトの横を風のように通り過ぎる。そのまま少年は廃墟の外へと走りだした。
「待ちやがれ!!」
ロベルトがそれを追って走りだす。ミロは慌てたように「ロベルトさん!!」と呼びながらその後を追った。
「ラークさん、今のっ」
「ああ、おそらく」
フレットの声に、ラークが頷く。おそらくあの少年が、ジェイクを襲った犯人の一人だろう。
「フレットとロイドはあいつらを追ってくれ。俺は上から行く」
階段に足をかけながら、ラークが言う。ロイドとフレットは頷くと、ドアから三人を追うべく走りだした。
路地の中を、ひたすらに走って行く。ハインリッヒは背後から迫ってくる足音に怯えながら、振り返ることもできなかった。振り返ったらその隙に捕まってしまいそうな気がした。
きっとあの人達は俺を捕まえに来たんだ。そう、ハインリッヒは思う。あんなことをしたから――――ハインリッヒは自分がしたことを思い出し、背筋を震わせた。
記憶はなかった。だが、気付いたらその人は目の前で倒れていた。銀髪の綺麗な男の人だった。自分が抱えているのはその人が持っていた本で……。
捕まってしまう。そう考えると、怖くて立ち止まれなかった。
ただひたすらに走り続けた。
「どこに行ったあいつら!?」
ロイドは走りながら大きな声で言った。
少し時間を空けすぎたのか、追いかけ始めた時にはすでに姿が見えなくなってしまっていた。路地の影や家の中をくまなく探しながら、走る。
「ロイド!」
声が、空から降ってきた。見れば、屋根の上にはラークがいる。ラークは指を差すと、
「あっちだ。あっちにいる!」
ロイドは指差された方向を見て、「あっちか!」と方向を変える。ラークはそのまま屋根の上を走ると、屋根から屋根へと飛び移った。その足取りは軽く、右足が義足であることをまったく感じさせない。
そう、いつだってあいつはそうだった。そう、ロイドは思う。ついさっきまで、自分はラークが義足であることを知らなかった。あいつはいつでも、大事なことを語ってくれない。ロイドはぐっと苦々しい表情をした。
「ロイドさん、こっちです!」
先を走っていたフレットの声に、ロイドは顔を上げた。フレットが先導する方向へと急ぐと、そこには。
「ロベルト!!」
走るロベルトの姿があった。その少し後ろにはミロが。そして、その前方には……先ほどの少年。
「待てってロベルト!!」
ロイドは脚に力を入れると、先程よりも速く走りだした。
少年は角を曲がり、路地へと入る。ラークは屋根の上で立ち止まった。前方には、大通り。飛び越えられる幅ではない。だがラークは少し助走をつけると、跳躍した。
ラークの身体は大通りの中程あたりへと落ちていく。だがその落下は、少しのところで止まった。まるで透明の足場ができたように。
これが彼の最も得意とする魔術だ。足元に魔力を固め、足場とする。その足場を駆使し天空を舞う姿に、付いた異名は「天空の支配者」――――彼は地上戦ではなく、空中戦を得意とする魔術師だった。
ラークは透明な足場を蹴り、飛び上がる。何度か空中を蹴り向こう岸の屋根へ飛び移ると、再び走りだした。
屋根の上を走り、ロベルトや少年たちが走る上へと追いつく。ラークはそのまま少年を追い抜かすと、その進路方向へと飛び降りた。
少年が立ち止まる。一瞬怯えた表情をして、再び走り出そうとしたその時。
「いい加減にしやがれクソガキ!!」
ロベルトの手が、少年の肩を掴んだ。
「うわあああっ!!」
少年の悲鳴が響く。ロベルトはそのままその小さな身体を腕で押さえつけると、
「ちょろちょろ逃げまわりやがってっ」
荒い息を吐きながら、睨む。少年はその顔を見上げ、泣きそうな表情になった。
その時。
「ばっかやろうロベルト!!」
追いついたロイドが、ロベルトの頭を思いっきり叩いた。
ロベルトが前のめりになる。その拍子に少年を手放すも、少年は地べたに座り込んだまま動かなくなっていた。
「何してんだよてめえ!!」
「怖がってるでしょ!?」
「あぁ!?」
ロイドの言葉に、後ろから追い付いてきたフレットが言う。わけがわからないという表情をしているロベルトに、さらに。
「ロベルトさん凄まないで下さい! ただじゃなくても怖い顔してるのに!」
ミロが追い打ちをかける。ロベルトは青筋を浮かべた顔で「てめえら好き放題言いやがって」と言いかけるが。
「黙れ!」「黙って!」「黙って下さい!」
三人が同時に言う。ロベルトは口を閉ざすと、三人を睨みつけた。
「悪かったな、怖かっただろう?」
ラークは少年の側に膝をつくと、その頭を撫でる。少年は動揺した表情でラークを見上げ。
「ぅ、ぇええ」
か細い声を上げて、ぼろぼろと泣きだしてしまった。フレットも駆け寄って、少年を慰めにかかる。
「ほら! てめえのせいで泣いちまっただろうが!」
「だがこいつはっ」
「いいですから! ロベルトさんが暴走したら聞ける話も聞けなくなります!!」
ロベルトの言葉を遮って、ミロが言う。ロベルトは奥歯を噛みながらミロを睨むと、「勝手にしろ!」とそっぽを向いてしまった。
「……えっと、君がこれを書いたんだよね?」
ミロは少年に歩み寄ると、ポケットから紙を取り出して少年に見せる。少年は涙を拭いながら、小さく頷いた。
「お兄さんたち……誰?」
まだ震える声で、少年が問う。フレットは笑うと、
「君のことを探していたんだ。……魔術兵器を止める、手伝いがしたくて」
少年は驚いたような顔をすると、再び顔を歪ませる。そして、ぼろぼろとまた泣きだした。
「お、れっ俺っ」
少年は、必死に涙を拭いながら、震える声で言う。
「――――友達、止めたいんだっ」
大事な友達なんだと、少年は言った。
二人……ハインリッヒ・ナイトハルトとジャン・デーゲンは十年前の戦争で全てを無くした、いわば戦争孤児だった。親の姿はなんとなく覚えているが、「恋しい」と求めるほどではない。彼らにとって親は、自分たちを拾ってくれたサーカスの団員だった。
スピーリョに拠点を置くサーカス団は、その周辺を行ったり来たりしながら稼いでいた。スピーリョに長く留まることが多かったため、自然とスピーリョの町の住人とも仲良くなる。二人はスピーリョの小さな学校に度々顔を出しては、そこにいた教師……ロイドに勉強を教わっていた。
裕福ではないが、幸せな暮らし――――そう言っても過言ではないものが、そこにはあったと思う。少なくとも、ハインリッヒはそれだけで幸せだったのだ。ずっと、このまま日々が続くと思っていた。
だがそれは崩れて消えてしまった。――――ワーウルフの襲撃だ。
二人はサーカスの道具箱に入って、身を潜めていた。木でできた箱に空いた小さな穴から、外の様子を覗きながら。仲間が殺されていく光景を、瞳に焼き付けながら。
ようやく静かになって落ち着いた時、二人は箱の中から出た。ワーウルフの男たちが眠っている隙を狙い、スピーリョの町から逃げ出した。
振り返らなかった。振り返っても、見慣れた町はそこにはなかったから。ただ二人は、走ることしか考えなかった。
森の中に姿を隠して数日後。空にイスギート政府軍の飛空艇が見えた。そっとスピーリョの町に戻ると、もうすでに全てが終わった後だった。
綺麗に死体は片付けられ、それでも町に傷跡が残る。誰もいなくなった、大好きな町――――その町を見て、ジャンは言った。
『……ステイラに行こう』
『ステイラに言って、魔術を覚えるんだ。強いもんに、もう全部奪われるのは嫌だ』
二人はステイラを目指すことに決めた。
飛空艇で行くことはなんとなくわかってはいたが、二人に飛空艇に乗るための金はなかった。幼い子供では仕事をすることもできない。二人は飛空艇の貨物庫に忍び込むと、そこでステイラ到着を待った。
しかしステイラに到着した途端、貨物庫から荷物を取り出しにきた乗組員に見つかってしまった。
『こいつらどうします?』
『軍に渡すしかねえだろうよ。番号何番だっけかなあ……』
捕まってしまう。そう怯える二人の背後から、声がした。男の声だった。
『――――ああ、そんなところにいたのかお前たち』
見知らぬ男だった。今時珍しい、ローブ姿の魔術師。右手には大きな骨でできた杖があり、顔はフードでほとんど隠れてしまっている。唯一見える口元には、深く穿たれた傷跡があった。
『すまないね。この子たちは私の連れだ。勝手に遊んでいたのだろう、許してやって欲しい』
男が言うと、骨の杖が光り輝いた。乗組員はその瞬間、動きを止める。そうしてゆっくりと男を再び見ると、
『まったく、気をつけてくださいね』
『ほらお前等、もうこんなとこ入るなよ』
と、あっさりどこかへ行ってしまった。
魔術に詳しくない二人でも、それが魔術であることははっきりとわかった。ジャンは男の元に駆け寄ると、
『それ、魔術だろ!? 俺たち、魔術を覚えるためにここに来たんだ。教えてくれ!』
男はジャンを見下ろすと、その口元に笑みを浮かべた。
『お安いご用だ少年。この私が魔術を教えてあげよう』
男の名はニャトラ。遠方からやってきた、異国の魔術師だという。ジャンは彼の言葉を信じ、ついていくことを決めてしまった。
『私はある魔術を求めている。二冊の魔術書を揃え、作り出す魔術だ。その魔術があれば、何にも勝る最強の魔術師になれる』
『ぜひとも協力してくれ。完成したら、君たちにも教えてあげよう』
「それで、従ってしまったのか」
あたりはすでに、夕暮れが迫っていた。空は徐々に暗青に染まり、隣にいる人物の表情ですら見えないほどだ。小さく高い、コウモリの鳴き声が届く。
ハインリッヒは頷くと、泣きそうな顔を歪めた。暗い中でも、その表情は手に取るように分かった。
「……図書館から本を盗んだ時、おかしいって思った。でももう、ジャンはおかしくなってて……俺の言葉、聞いてくれなくなったんだ。それで……」
ジャンは何かに取り憑かれたようになってしまっていた。ニャトラの言葉だけを聞き入れ、他の言葉は聞き入れない。一番の友人だった、ハインリッヒの言葉さえ。
「……ごめんなさい」
か細く、ハインリッヒは言った。
それはおそらく、本を盗んだことでもあり、またジェイクを襲ったことでもあるだろう。もしかしたら、ジャンを止められなかったことに対する懺悔かもしれない。
「お前のせいじゃないだろ」
ロイドはハインリッヒの傍らに膝をつくと、その頭を優しく撫でた。ハインリッヒが、ロイドを見上げる。ロイドが笑っているのが、なんとなくわかった。
表情をくしゃりと歪め、ハインリッヒはロイドに抱き着く。スピーリョの町でそうしたように、ロイドはハインリッヒの小さな身体を抱きしめた。
「ジャンは絶対止めてやる。魔術兵器も、絶対止めてやるから。な?」
ロイドの優しい言葉に、ハインリッヒは何度も何度も頷いた。
ちちちち……。
コウモリの鳴く声が響く。暗い空を飛んでいたコウモリは近場の屋根に止まると、ぶら下がってハインリッヒたちを見下ろした。
「……暗くなってきたな。とりあえず、ハインリッヒくん。うちのギルドに来ないか?」
ハインリッヒはラークの言葉に顔を上げた。
「この辺りも物騒だからな。うちにいた方が安全でいいだろう?」
どうだろうか。ハインリッヒの顔を覗き込むようにして、ラークは言う。ハインリッヒは少し考えたあとに、
「……あいつ、追っかけてこないかな」
「そしたら俺達が守ってやる。心配すんな」
ハインリッヒの言葉にロイドがそう返す。ハインリッヒは2人を見比べると、ようやく頷いた。
「じゃあ、帰ろうか」
フレットが言う。ラークは小さく言葉を呟くと、掌に小さな火の玉を灯らせた。足元を確保するための灯りだろう。
ラークの先導で、一行は歩き出す。コウモリが、それを追いかけるように飛んだ。
「さっきからいますね、あのコウモリ」
ふと、空を見上げてミロは言った。ロベルトが睨みつけるようにコウモリを見る。
「ラーク」
「ああ」
ラークは警戒するようにコウモリを睨む。そして。
「To fir……」
「ま、待って待って!」
ラークが古代の言葉を放つ前に、コウモリが言葉を放った。それは、どこかで聞いたことのある声――――病院でジェイクのそばにいるはずの、カイルの声だ。
「か、カイル!?」
「近くにいたコウモリを使役させただけだってば!」
フレットの声に、コウモリ――――カイルはそう言った。
使役魔術。弱い魔物や動物などを魔術で使役し、伝令役や見張りなどにする魔術だ。カイルは昔からコウモリなどの夜行性の動物や魔物との相性が良く、コウモリを使役することが多かった。
「盗み聞きしてたんだな」
「人聞きの悪い! 情報共有だよ」
コウモリはフレットの肩に止まると、羽を休ませるように落ち着いた。フレットは溜息を吐くと、
「どうせこれ、ジェイクにも筒抜けなんだろ」
カイルは悪びれないように「まあね」と言ってのけた。
カイルが使役するコウモリは、一種の通信機のような働きになっていた。コウモリはいわば、トランシーバーの役割だ。
「そのニャトラって魔術師、おそらく手練だね。人を使役するなんて相当だ」
「……そうだな」
カイルの言葉に、ラークが頷く。「どういうことだ」と言いたげな顔をしているロイドとロベルトに、
「使役魔術は、使役する動物に自分の意思を埋め込む魔術なんです。人間や意思のある精霊なんかを使役する場合は元からある意思とぶつかり合いになるので、ねじ伏せるために多くの魔力と高度な技術を用います」
ミロがそう解説すると、ロイドが「なるほどな」と頷く。ロベルトは「わからねえ」と呟くと、
「なんでそんな面倒な真似する必要がある。手練の魔術師なら、自分でやった方が速いだろ」
「おそらくだが」
コウモリが、カイルの声ではない声を発した。フレットが思わず動きを止める。
「ジェイク!?」
「フレット騒ぐな。煩い」
フレットの声に、ジェイクが鋭くそう言う。小さな溜息のあと、
「話によると、その男はフードをかぶっていたという。その下には傷跡――――目立つ容姿だ。おそらく、顔を隠したいなんらかの理由があるんだろう」
「そ、そういえばニャトラってやつ、ほかにもおっきい傷跡いっぱいあった」
ハインリッヒが言う。ジェイクはその言葉に「なるほど」と低い声で返した。
「なら、その推理で合っているかもしれないな」
「そうじゃなくても目立つ容姿ですしね……探してみましょう」
ラークの言葉に頷いて、ミロが言う。フレットも、「うちのギルドでも探してみます」と頷きながら言った。
「ジェイク、お前はそろそろ――――」
そろそろ寝たほうがいいんじゃないか。
フレットがそう言いかけたときだった。
「っ、ジェイク!?」
カイルの声が響く。フレットが、今度こそ脚を止めた。
「ジェイク、君、その呪印――――っ」
カイルが叫んだ瞬間、集中がそれたのかコウモリの使役が解かれた。フレットの肩から、コウモリが飛び立つ。その瞬間、フレットもまた走りだしていた。
「フレット!」
ラークが呼び止める。フレットは「みんなはハインリッヒくんをギルドに!」と言い残し、止まること無く走り去った。
月が、登り始めていた。
フレットが病室についたとき、真っ先に目に入ったのは魔術陣だった。
病室内に、風が渦巻いている。ベッドに横たわるジェイクは固く目を閉じており、眉の間には皺があった。そしてその、真っ白な胸元には――――。
「なんだ、これっ」
思わず声を上げる。
ジェイクの胸元には、漆黒に穿たれた印のようなものが浮かび上がっていた。印は少しずつ広がり、ジェイクの身体を蝕んでいこうとしている。
「カイル――――っ」
フレットのあとからやってきたラークは、その光景にフレットと同じく目を見開いた。だがすぐに自身のリングを外すと、息を吹きかける。
「ラーク、よかった。手伝ってくれ、僕一人じゃ……っ」
カイルに頷いて、ロングソードを横に構えながらジェイクに近づく。カイルの足元にあった魔術陣の輝きが、一層濃くなった。
病室内に吹き荒れていた風が、収束し、ジェイクの元へと集まっていく。印の元へ風が集まった瞬間、印の上から青い別の印が現れた。魔術陣が消える。カイルはその場にへたり込むと、大きく息を吐いた。
「カイル、これは」
「急に現れたんだ……おそらく呪印だと思う」
「呪印?」
フレットが後ろから問う。カイルはフレットを振り向くと、ゆっくりと立ち上がった。慌てて、フレットは近くにあった椅子をカイルに寄せる。カイルは「ありがとう」と苦笑って椅子に腰を下ろした。
「呪印っていうのは、一種の呪いだよ。呪印式呪術といってね……呪いの進行とともに、呪印が身体に広がっていく。全身に回ったら死に至る――――」
フレットの表情が、目に見えて青ざめた。ジェイクを見れば、真っ白な胸全体に漆黒の呪印が広がっている。その上に刻まれた青い印が進行を食い止めているが……。
「相当強い魔力だ……僕が抑えきれないなんて」
いつも笑みの浮かんでいるカイルの表情が険しい。ラークはジェイクに近づくと、その呪印に手を置いた。
「ラーク、触れたらっ」
「わかってる、だが」
ラークの手に、漆黒の魔力が纏わり付く。ラークは眉に皺を寄せて、掌に魔力を集中させた。漆黒の魔力が、遠ざかっていく。
素早く手を離すと、未だ魔力の残る手を握った。逆の手で押さえながら、ジェイクを見る。
「……カイルが抑えきれないのも、当然だな」
言って、笑う。その笑みは楽しげな様子など一切なく、ひきつっていた。
「どういう、意味?」
カイルの問いに、ラークは笑みを消す。その代わりに浮かんだ表情は――――どこまでも険しく深刻なものだった。
「……これは邪神の魔力だ」
カイルの動きが止まる。フレットが問う前に、ラークはフレットを見て、
「邪神とは、この世界に昔からいる存在だ。呪術や、俗に『黒魔術』と呼ばれる魔術を伝えたのは、この邪神だとされている」
「でもそれって、お伽話か何かじゃ」
カイルの言葉に、ラークはゆっくりと首を振った。
「存在するんだ、邪神は。実際に……」
言って、ラークは黙りこんでしまう。カイルはバロンリングのチェーンに触れて、「どうすりゃいいんだ」と小さく呟いた。
どこまでも冷たい世界だった。
青い青い氷。真夏だというのに、真冬の空気が肌に纏わり付く。分厚い氷の上に倒れている自分の、その上に倒れているのは、鏡写しの『自分』だ。
遠くに倒れているのは、カイルだろうか。その横にいるのは、おそらくディールだ。ゆっくりと戻ってきた記憶に、ジェイクは瞳を見開いた。
触れるもの全てが、どこまでも冷たい。氷も、鏡写しの自分も、全て。
口を開いて、胸の中の空気を押し出した。声なんて出なかった。喉は壊れた楽器のようにひゅうひゅうと空気を漏らすだけで、音の一つも出すことはない。ただ唇の動きだけで呼ぶのは、最愛の兄弟。
『平気だぜ兄ちゃん、俺が守るから』
その言葉を最後に、彼は冷たく動かない人形になってしまった。
深海の底から浮かぶように、意識がゆっくりと戻ってくる。柔らかなシーツの感触の次に気付いたのは、手をしっかりと握る、誰かの手の感触だった。
「ジェイク」
視線を、声の方向へと向ける。薄暗い病室の中瞳に映ったのは、窓からこぼれる月明かりに照らされた、星屑の銀だった。
「……フレット」
掠れた声で、名前を呼ぶ。ジェイクは思わず起き上がろうとして、身体に力が入らないことに気付いた。痛みはない、だが、身体がまるきり別人のものになったかのように、動かない。
それと同時に、身体の中を蠢く『何か』にも気付いた。まるで、芋虫のようなものが這いずっているような感覚――――。
「――――っ」
喉元まで迫り上がった叫びをどうにか押し殺し、フレットを見る。「どうした?」と案ずるように見てくるフレットに、ジェイクはただ、唯一動かせる首を横に振った。
「……呪い、だって。たぶん、ジェイクの魔術書に残ってた魔力を辿って……」
ジェイクは「なるほどな」と呟くように言って、大きく息を吐いた。
病室の中をよく見れば、カイルとラークの姿も見えた。壁に寄りかかるようにして眠っている。おそらく今は深夜なのだろう。
「……フレット」
掠れた声で、ジェイクが呼ぶ。ジェイクはフレットを見ると、
「……全部終わったら。そんな約束だったが……今のうちに、話しておく」
瞬きするフレットに、ジェイクは続けていった。
「……俺の本名は、ジェイク・アークライトじゃない」
握る手が微かに震えた。動揺を押し殺しきれていない表情を瞳に映して、ジェイクは久しく名乗っていたかった名前を口にした。
「俺は、ジェイク・ローエングリューン。……大魔術師、アンジェリカ・ローエングリューンの息子で、魔術家系ローエングリューン直系の次男だ」
代々魔術師を育て上げてきた名家、ローエングリューン。そこの次男として育ったジェイクには、受け継がれてきた魔術の才能と、多大なる魔力があった。その才能は母親を超えるとも言われ、ジェイクの前に生まれた長男が魔術の使えない落ちこぼれであったこともあり、その才能には期待を注がれてきた。
その期待に応えるかのように、ジェイクは魔術の名門であるオスフィル魔術学院に入学し、常にトップの成績を収めた。どんなに高度な魔術でも、彼には扱うだけの才能があった。古より伝わる古代の言葉も、彼にとっては最も身近な言葉だった。
カイルとディールとは、十三の時に知り合った。二学年合同演習でチームを組んだのがきっかけで、それ以降はカイルとディールと、そして自分と弟のジーク。四人でよくつるんでいた。だからあの時も四人でいたのだ。
「あの時?」
フレットの言葉に、ジェイクはゆっくりと目を閉じて、言った。
「十年前……魔術戦争に、当時オスフィル魔術学院に在学していた生徒が駆りだされた」
フレットの瞳が見開かれた。ジェイクはゆっくりと息を吐く。
「俺達も、戦場に行った。……四人で」
まるで昨日のことのように思い出せた。響く悲鳴と怒号に、破壊魔術が響かせる轟音。踏み越えるのは顔見知りの生徒の死体。自分たちも、何人も殺したように思う。正義のためとか戦争とか、そんなことは考えてはいなかった。死にたくなかった。だから、目の前の敵を殺した。
戦闘を開始してから、もう数時間経った頃だった。魔力より先に体力が尽きかけ、頭の回転を疲労が遅くしていく。必死に古代の言葉を紡ごうとする唇が震え、喉の奥から乾いた咳が零れた。
油断していたんだと思う。戦闘は徐々に終わりの兆しを見せ、敵の数も一気に減ってきた。ようやく終わる。その安堵が、全てを奪った。
響いたのは銃声だった。魔術でもなんでもない、近代兵器の音。鉛弾が貫いたのは他でもない、自分の薄い胸板だった。
当時十五歳。子供の心に『死』の恐怖は大きかった。死にたくなかった。だが指先から、身体から力が抜けていく感覚が、その恐怖の輪郭をよりはっきりとしたものにしていく。
「……俺の中には、獣がいるんだ」
ぽつりと、ジェイクが言った。
「ローエングリューンの祖先は、より多大な魔力と、より精巧な技術を得るために、人ではないものと血を交わした。……エンシャントドラゴン、竜と」
フレットはその瞳を見開いた。
竜には、数多の種類がある。温厚で人懐こい飛竜、人々を脅かすサラマンダーなどの猛竜。そして「エンシャント」と名の付く竜は、竜の中でもその位は高く、知能も高い。寿命は数千年と長く、そして何より、人の姿を持つことで有名だった。
「竜や精霊と交われば、その血は消えることはない。色濃く残った竜の魔力が、俺の中に流れてる」
そしてその魔力は、心に芽生えた恐怖を起爆剤に――――暴発した。
ジェイクの中に眠る竜は、氷の魔力を多く持っていた。暴発とともに地面に広がったのは、分厚い氷。その氷は敵もろとも、仲間をも飲み込もうとし――――。
『兄ちゃん!!』
その時、ジェイクを止めたのはジークだった。双子である彼もまた、ジェイクと同じように多大な魔力を持っている。その魔力をジェイクに送り込み、ジェイクの中の魔力を抑えこむことで暴発を防いだ。
だが、多大な魔力の暴発を食い止めるのに必要だった魔力は、より多大なものだった。身体の中にある魔力のほぼすべてを使ったジークは、そのまま眠りについた。
そしてその後、魔術兵器完成の報が届き、その兵器が全てを終わらせた。
戦争が終わり、魔術学院が落ち着いた頃、ジェイクは魔術学院を飛び級で卒業した。そのまま大学院に進む道もあったが、ジェイクはそれをしなかった。
二十歳を超えた頃、周囲の反対全てを押し切ってジェイクは家を出た。しばらく各地を点々として、そして拾われたのだ。カワセミ団リーダー、マルコに。
「そうして、あとはお前の記憶通りだ」
長い長い話を終え、ジェイクは再び口を閉ざした。少し疲れたように、息を吐く。フレットはジェイクの手をしっかりと握った。
「……俺の中には、竜がいる。死の淵に立ったら、また暴走するかもしれない」
ゆっくりと、ジェイクはフレットを見た。その瞳に、少しの悲哀を乗せて、言葉を紡ぐ。
「その時は……俺を殺せ、フレット」
言葉が、静寂の中で輪郭を描き、はっきりと響いていく。静寂を浮き立たせるそれは闇の中に溶け、ゆっくりと消えていった。
かすかに、フレットは頷く。それを、ジェイクはどこか安心したように見つめた。
「……でも、絶対そんなことさせないからな」
強く、ジェイクの手を握る。少し痛いくらいの強さで。
「俺がいる限り、ギルドのメンバーは誰も死なせない。ジェイク、お前もだ」
強い決意の宿る瞳。その瞳をまっすぐ見据え、ジェイクはただ小さく頷いた。
「呪術!?」
そう大声を上げたのはロイドだった。
夜もだいぶ更けてきた、午後八時頃。カワセミ団アジトこと「Noche」に集まった面々は病院から戻ってきたラークの話を聞いて驚愕の表情を浮かべていた。「ああ」と頷いて、カウンターに座ったラークが前髪を掻き上げる。
「胸に呪印があった。魔力も相当絡みついていたし、何より相手は邪神……正直俺も、どうすればいいか」
「なんで、ジェイクにっ」
椅子を蹴倒して立ち上がったまま、ロイドはラークを見て言う。解せない、解したくない。そう言いたげな表情を一瞥して、ラークは言った。
「おそらくだが……相手は契約の魔術書を使おうとしたんだろう。だがジェイクと契約をしているから、言うことを聞かなかった。だから魔術書に残っていたジェイクの魔力を辿って、ジェイクを狙った。ジェイクが死ぬか死にかけるかして、ジェイクの魔力が薄れれば、自分でも制御ができるだろうと」
あくまで推測だ。そう言って、ラークはカウンターに置かれていた琥珀色の液体を一気に煽った。グラスがあった場所のそばには、アーモンド色の四角い瓶が置かれている。ウイスキーの瓶だ。
氷で冷やされた、度数の高いウイスキーのオンザロックを、半分ほど一気に嚥下する。安い酒特有の、喉を焼いていく感触を確かに感じながら、ラークはその奥から溜息を吐いた。その息には、抑えこまれた怒りの色が滲んでいる。低く、深い溜息。
「どうすれば、呪いは解けるんだ」
カウンターで同じくグラスに入った酒を傾けていたロベルトが、ラークを見て言った。その瞳は、見ると言うよりは睨むに近い。ラークはグラスを濡れたコースターの上に置きながら、
「呪術の類の解き方は、例外もあるが大抵の場合は決まっている。解呪魔術を使う。あるいは術者に呪いを説かせるか、術者が死ぬか」
「殺しゃいいのか」
ラークの言葉に間髪を入れずにロベルトが言う。「ロベルト」とリカードが諌めるように言った。ち、と小さく舌打ちが響く。
「話し合ったところで、邪神とやらが呪いを解いてくれるとは思えねえ。あの魔術兵器を使おうとしてんだぞ」
「でも何故、邪神が魔術兵器を」
んなもん知るか。ミロの問いにそうロベルトが言おうとしたとき、別のところから声が上がった。
「復讐、って言ってた」
店の奥。氷の溶けてすっかり薄くなったオレンジジュースの入ったグラスを見つめているのは、前髪をヘアゴムで上げた少年、ハインリッヒだ。椅子にあぐらをかくように座って、ただ俯いている。「どういうこと」とミロが言うと、ハインリッヒは小さく唇を開いた。
「何も知らない愚か者を、俺が殺してやるんだ。あの兵器の恐ろしさを、俺が味あわせてやる……そう言ってた気がする」
ミロはその言葉に、復讐、と小さく繰り返す。ラークはカウンターに両肘を付き、組んだ手に額を乗せていた。その様子はどこか、項垂れているようにも見える。
「……だが、わからねえ。邪神ってのは神なんだろ。んな周りくどいことしねえでも、簡単に同じことができんじゃねえのか」
苛立った様子のロベルトに答えたのは、カウンターの奥で話を聞いていたディールだった。
「邪神というのは、正確に言えば神ではありません。この世界の、闇の精霊の始まりがそう呼ばれると言われています。あまりの強大さと残忍さに、人々はそれを神と呼んだ、と」
邪神の物語。魔術学校に通った者ならば、必ず授業で出される話だ。闇と黒の魔術の始まり。最も闇の深い場所にいるとされる邪神――――ニルヤトラテス。
「だが今は、昔現れた魔術師によって力のほとんどを封印され、闇の奥に幽閉されたという。残された魔力は幽閉された邪神の代わりに化身となって、闇の深い場所を歩く」
ジェイクを苦しめているのは、おそらくそれだ。そう、ラークは言う。グラスを再び手に取って、煽ろうとしたラークの肩に、手が触れた。目の前にはリカードの顔。一気飲みを諌められて、ラークは一口ウイスキーを傾けただけでグラスを置いた。
「魔力は人や獣の身体を乗っ取り、その身体を滅ぼしながら憑代にするという。ならばおそらく、身体だけは人間のはずだ」
「それならいい」
ロベルトは空っぽのグラスを叩きつけるようにカウンターに置いて、低い声で言い放った、
「身体が人間なら話は早い。ふん縛っちまえばいいんだからな」
「問題は、どうやって探すかですね」
ミロが言う。
邪神の魔力がジェイクに纏わりついているのなら、ララの探知魔術が使えるだろう。だが邪神の魔力は、魔力だけでも邪悪な力を持つ。たとえ邪神の居所は掴めても、ララの身が危険にさらされる事になる。
「……うちの情報屋呼ぶか」
ロベルトが、ぽつりと言った。その言葉に、ミロが「ああ、それなら」と納得する。
「例の、有能な情報屋か?」
ロイドが問うと、ミロが頷いた。
「うちの情報屋は二人タッグなんですけど、そのうち一人が他人の思い浮かべるものをカメラで写真に映し出す術を使えるんです。それなら」
言って、ミロは立ち上がる。ゆっくりと、だが確かな足取りで向かうのは、一人俯くハインリッヒの元だ。ハインリッヒの傍らにしゃがんで、目線を合わせる。ハインリッヒはそのアクアマリンの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「その男の顔を、見たことがある?」
ハインリッヒは数度まばたきをする。ゆっくりと記憶を辿って、ハインリッヒはしっかりと頷いた。
「思い出せる?」
その言葉にも、ハインリッヒは頷く。ミロはにっこりと微笑むと、立ち上がってロベルトを振り返った。
「これなら、その術を使えそうです」
ロベルトは立ち上がると、まっすぐにドアへと向かった。そのまま乱暴にノブを引っ掴むと、ドアを開けて外に出る。ミロはそれを小走りで追いかけると、ドアの前でくるりと中を振り返り、
「その情報屋を呼んできます。見つけたら、またここに来ますので」
言って、一礼する。そしてドアを開けると、ミロもまた外に出た。
追いかけるような足音が、遠ざかっていく。ラークは苛立ったような、落ち込んだような複雑な表情を浮かべて、カウンターの上に散らばるグラスの光を見つめていた。
何度目かわからない溜息を、喉の奥から吐き出す。蹴っ倒した椅子を直して隣に座ったロイドは、ラークの肩をとんとんと叩いた。
「ラークのせいじゃねえよ」
ラークはちらりと、金色の目でロイドを見る。ロイドはにっと歯を見せて笑った。
「ついに、お前にまで心を読まれるようになったか、俺は」
「何年一緒にいたと思ってんだよ」
腕を組んで、その両肘をカウンターにつきながら、ロイドは言う。ラークは苦笑を浮かべて「そうだな」と言った。
「作りたくてつくったんじゃねえだろ?」
ロイドの言葉に、「まあな」と小さく返す。グラスを左手で持って、ラークはふと気付いた。
ロイドが座っているのは、ラークの右側だった。左利きであるラークは、左側に座られると腕があたってしまう。いつの間にこんな気遣いができるようになったのだろう。ふと、ラークはそう感じてロイドを見た。
「なら、ラークのせいじゃねえよ」
気ぃ負うことねえって。ロイドは笑って、ラークに言う。
自分より四つも年下のこの男に励まされるのは、何度目だろう。そう、ラークは思う。昔ロイドがギルドにいたころ、いつもラークはロイドの隣にいた。相棒。そう呼んでも過言ではないと思う。太陽のようなこの男の笑顔に、いつもラークの心の闇は晴らされて来たのだ。そう、いつだって。
「……だが、生み出したのは俺だ。責任は、俺が負うさ」
うん。そうロイドは言う。ロイドはもう一度ラークの肩に手を置くと、とん、とん、とゆっくり叩いた。
「俺も手伝うからさ。……ちょっとは荷物、預けろよ」
触れられた右肩が、じんわりと温かい。深い海の底のような瑠璃色の瞳が、笑顔に細められた。ラークはシャンパン色の瞳を、ゆっくりと笑顔の形に細める。作り笑いが下手になった。その自覚は、たしかにあった。頬が引きつって、上手く笑えない。
「……ありがとう」
泣き笑いのような表情で、ラークは言葉をゆっくり紡ぐ。
笑うのが下手になった。ロイドは小さくそう思った。
「それで、俺が呼ばれたってわけなんだな」
ロベルトたちが出て行ってから数十分。再びNocheに戻ってきたロベルトたちが連れてきたのは、二人組の男だった。
一人は夜の闇より尚深い漆黒の髪を短く切りそろえた男だ。カウンターの前に立って、あたりを見回している。もう一人はダークブラウンの髪をやや長めに伸ばしている。
漆黒の髪の男は、高嶺秋水。ブラウンの髪の男は、庄司清彦。
二人はギルド・ローボに昔から情報を提供してきた腕の立つ「情報屋」だった。古今東西全ての情報を収集し、そのスピードは他の情報屋の倍近く。その正確さにも定評が付いている。ステイラの情報屋ではその右に出る者はいないと言われるほどだ。
秋水は話を聞き終えると、肩にかけた大きなショルダーバッグからカメラを取り出した。比較的新しい、ポラロイドカメラだ。そのレンズ部分には真っ黒に塗られた紙がテープで貼り付けられている。
「なんだこれ」
そうまず声を上げたのはロイドだった。ポラロイドカメラを見下ろして、首をかしげている。
「これじゃ何も写んねえだろ」
「写すもんは、風景じゃねえからな」
カメラを手に取って、秋水はレンズを軽く覗く。どこまでも深い、闇がそこに広がっているようだ。だが実際は、黒く塗った厚紙で固定されているだけだ。
「写したい記憶の持ち主は、誰?」
秋水の一言に、ハインリッヒは黙って手を上げた。俯いて、片腕で膝を抱えている。秋水はその側に片膝をつくと、ハインリッヒの顔を覗き込んだ。
「君か。……早速やるけど、いいか?」
笑みを含んだ声で、秋水は優しく言う。ハインリッヒがゆっくりと頷いたのを見て、秋水は手に持ったカメラを構えた。
「ゆっくりでいい、思い出せ。写したい記憶を、ゆっくり。でもはっきりと」
ハインリッヒは紙で隠されたレンズを見つめ、頭の中からゆっくりとその記憶を引き出した。フードで隠された、その奥の顔。傷だらけで、火傷の跡もあって、それでもはっきりとした顔だった。
顔が、ゆっくりと脳裏に蘇ってくる。その様子がはっきりとした瞬間、秋水はシャッターを切った。
写真がカメラから吐き出される。まだ真っ黒なままの写真をテーブルに置いて、秋水はその写真を見つめた。
「何も写ってねえぞ?」
「ポラロイド写真なんだから、最初はそうですよ」
ロイドの言葉にそう返したのは清彦だった。秋水の肩越しに写真を見つめるその表情には、どこか余裕が表れている。
ポラロイド写真は、端の方からじわりとその色を現し始めた。深い闇の色、フードの端だ。徐々に現れていく顔を見て、動きを止めたのはラークだった。
写真が、全てを写し出す。深く、そして無残に穿たれた傷跡。火傷の跡。だがそれでも、はっきりと分かる。その顔は。
「……ヴィル」
ラークが小さく呟く。その呟きにロイドは思わずラークを見た。
「知ってるのか」
ロイドの声に、はっとしたようにラークは押し黙る。ロベルトは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がると、その肩を掴み壁に押し付けた。
鈍い音が響く。一瞬痛みに歪んだ顔を睨め付け、ロベルトは低く言った。
「この期に及んでまだ隠すのか。……てめえが諸悪の根源だろうが」
ロイドがその肩に手を置き、「落ち着けって!」と声を上げる。だがその手を振り払うと、ラークのシャツの胸元を掴んだ。絞まる首元に、ラークの表情が歪む。
「言え、てめえがしたこと全部だ。どうせ病室じゃ、全部は話しきれてねえんだろう」
低い声と凄む左目が、胸に突き刺さるようだった。ラークは一瞬、追い詰められたような表情を見せた。歪む金色に、ロイドは思わず手を伸ばした。
ロベルトとラークを、強引に引き剥がす。睨んでくるロベルトを無視するようにロイドはラークを振り向くと、
「……ラーク、話したくないんだろうけどさ」
真剣な色を浮かべた瑠璃の瞳が、ラークを見つめる。
「俺、聞きたいな。ラークに昔、何があったのか」
すべてを隠そうとするラーク。それは自分の罪を隠したいじゃなく、おそらく、話すたびに胸が痛むからなんだと、ロイドはそう考える。だからこそ、ロイドはすべてを話して欲しかった。話せば、痛みは薄れていくから。
ラークはロイドを見つめる。一瞬歯を食いしばるような、泣くのを堪えるような表情をしてから、ラークはゆっくりとロイドの横をすり抜けた。
座っていたカウンターの椅子に再び腰掛けて、リカードにウイスキーのお代わりを頼む。そして、深く息を吐いた。
「……主観が入るから、真実とは程遠い。それを踏まえてくれ」
ロイドはラークを見ると、強く頷いた。その空気を読み取ったかのように、ラークは軽く頷く。
「あれは十年前の初夏。ちょうど六月だった」




