ボランティアのみなさま、ご苦労さまです。
タイトルは、皮肉でもなんでもない。そのままの気持ちである。
待ちに待った休みが来たのだ。その休みを割いて被災地へ、報酬の出ない仕事をするために赴く。私にはとても、真似ができない。そういう気持ちにならない。東日本大震災のときだって、私はなにもしなかった。テレビは輪番制にしなくていいのか。二十三区でも二区だけ差別されるのか。なんてことを考えながら、自分の生活のことでカツカツだった。
だから純粋に、ボランティアになろうというひとたちを尊敬する。行くことで、逆に迷惑になる。ただの自己満足、偽善だ。そんなふうに叩く輩がいるだろうが、気にすることはない。そいつらだって私と同じく、なにもしてこなかった連中だ。なかには寄付をした者もあるかもしれない。私は寄付すらしなかった。ドラえもん募金やら日本ユニセフ募金やらっていう、胡散臭いのがいっぱいあるし。
ようやくやってきた休みを、働いて費やす奉仕の精神。ふだん働きづめであるはずなのに。ボランティアを叩く連中は、この休みを有意義につかうだろう。自分のために。私だってそうだ。だから私は、ボランティアのかたがたを心から尊敬する。
広島の水害のときにボランティアにたすけられ、恩返しのためにボランティアに赴いたひとがある。その気持ちに、いたく共感する。さいわい私には、自衛隊やボランティアにたすけられた経験がない。私もそういう目に遭ったのなら、このひとと同じようにするのかもわからない。
いちばん気に食わないのは、マスコミだ。また今回も、いろいろとやらかしているらしい。給油待ちの列に割りこんでみたり。炊きだし人にインタビューするために、雨よけの下で並んでいた女の子を雨のなかへ追いやったり。往来を妨害してみたり。深夜にライトを点灯させて、被災者の睡眠を妨害したり。阪神大震災の被災者を嘲弄した筑紫哲也という先輩から、なにも学んじゃいない。反省もなにもない。
その口で、ボランティアに駆けつける弊害を語る。それはたしかに、一片の真実だ。だが、恥ずかしくはならないか? そもそも、恥という概念がないのか? 仕事として被災地に赴き、被災地に害を為す。
ちょっとは自重しろ。そして自浄しろ。できないならしまってくれ、ジャーナリト宣言なんて。