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サイカにとって、はじめはただひとり特別な存在だった。
「サイカ」
「はじめちゃん」
「お待たせ、帰ろうか」
甘い、とろけてしまいそうな微笑み。下がる目尻と、上がった口角がひどくやさしい。幼い頃の人見知りの名残りなのか、人前ではあまり笑わないはじめが、サイカの前だけはその微笑みを惜しみなく差し出す。やさしい眼差しで、穏やかな表情でサイカを見、サイカの声に熱心かつ一途に耳を傾ける。サイカは、はじめの特別だった。
サイカは、完璧を絵に描いたようなはじめと違って、これといって特筆するような取り柄はないし、容姿も愛嬌があって親しみやすいものではあるが、特別整っているというわけではない。頭は悪くないがかなり単純な性格をしているし、感受性が強く感情的であり、時折冷静さに欠けることがある。また思い込みが強く、引っ込み思案のくせに、変に思い切りがよかったり、時にはかなり大胆になったりもする。
サイカは、自身のことを客観的に見れないというわけでなかったので、どう考えても自分がはじめに釣り合ってはいないなどということをずいぶん前から認めていた。それに、はじめほどの人物の横に、サイカのようなどこにでもいるような平凡娘がくっついていることが気に食わない連中が当然の如くいつも存在していたので、そうした人たちから何度か『忠告』されていたおかげで、思い上がるなどということとはしていない、つもりである。
むしろ、サイカ自身が一番不可解に思っていた。はじめは、何故今も変わらず自分の隣で微笑んでいるのだろうか、と。
「……サイカ」
「え、なあに。はじめちゃん」
「好きだよ」
「……えっ」
「初めて出会った日からずっと、ね」
めちゃくちゃきらきらと美しく微笑みながら、はじめは当たり前のようにサイカに言った。こんなことは、初めてではない。それどころか、むしろ日常茶飯事だった。サイカが何か躊躇うような素振りを少しでも見せると、決まってはじめはサイカに「好きだ」と、自身の変わらぬ気持ちを囁いた。その度に、サイカはどうしようもなく泣きたくなる。
「……はじめちゃん」
「うん?」
「私も……好きよ」
「うん」
心底うれしそうに微笑んだはじめが、サイカの手を取って、ぎゅっと握りしめる。
――あのねっ! サイカね、はじめちゃんがたいすきよ!!
――ぼく、も……ぼくも! サイカちゃんのこと、ずっと…………ずっとだいすきだよ……!!
そうやって言い合った、ままごとのような幼い初恋は、今も変わらずここにある。それなのに、どうしてかサイカには不安で仕方がなかった。いつか、この大好きな手が離れてしまう。いつか、きっとはじめは置いて行ってしまう。そんな予感が胸の奥を絶えず渦巻いている。けれど、サイカがそんな焦燥を抱く度、はじめは昔と変わらぬ微笑みを浮かべては、あの頃と変わらぬ想いをサイカに何度でも告げ、囁いた。漠然とした不安に怯えるサイカを安心させるかのように。
「あ……あのね、はじめちゃん。今日の晩御飯はね、コロッケなんだって」
「え、本当? おばさんのコロッケおいしいから楽しみだよ」
「それ、お母さんに直接言ってあげてよ。きっと、目をハートにして喜ぶよ〜」
「えー、何それ」
「本当だよ」
「ふふっ」
かつて泣き虫で、何かに怯えていたはじめが穏やかに微笑んでくれる、ただそれだけでサイカは幸福だった。はじめのやさしい笑顔が、あたたかな手が、サイカにとっての何よりも大切なものだったのだ。不思議なくらいに、二人は幼い頃から全く変わらぬ時を過ごしていたのだった。
――異世界トリップとやらを、する前までは。
*
「……な、何だ貴様はっ!」
ドスンという大きな音を立てて落下したせいで、臀部と背中がひどく痛んだ。痛みに顔を歪めながら、背中の布越しにすら感じている床の冷たい感覚に、サイカはパニックを起こしそうになった。目の前には目を怒らせた知らない男がサイカに向かって怒鳴っている。
「……えっ、あ……うああっ……!?」
「突然どこから現れた!?答えろ、小娘!!」
「ひ、ぃい……っ!!」
甲冑を見にまとい、手に槍を持った知らない男は、突然のことに混乱し切っているサイカの不明瞭な態度にひどく苛立ったらしい。尻餅をついた状態で呆然としていたサイカのすぐ真横に槍を突き立てた。サイカはあまりのことに震えていた。
サイカは必死に自分の身に起こったことを、すっかり混乱している頭で整理しようとした。何故! 自分はこんなわけもわからないところにいるのか! 今日もいつも通り学校を終えて、幼馴染であるはじめと共に下校していたところだった、はずだ。現に今、今年入学したばかりの真新しいセーラー服を着ているし、手には学校指定の学生鞄を持っている。確かに、先ほどまでいつも通りの日常の中にいた。
……だのに、ここは一体どこだ? そして、つい先ほどまでいつも通り隣にいたはずの、はじめは一体どこに行ったのか? 周囲を見渡すもひどく薄暗いせいで、ここがどういった場所なのかは判断がつかない。じめじめとしていて、あまり気持ちのいいところではないことは確かだ。
「おい! 聞いているのか、答えろ小娘っ!!」
「……いっ、た……!!」
答えろと言われていたのに、無視をしたサイカも確かに悪かった。が、何もそんなおもいっきり叩くことはないではないか。ぱんっ! と大きな音を立て、おもいっきり張られた頬がずきりと痛み、サイカは泣きそうになりながら眉を潜め、沈黙した。答えろと言われても、混乱した頭の中ではなんと答えればいいのか分からない。むしろ聞きたいのはこちらだ。気づいたら意味のわからない落下する感覚があって、けれどそれも一瞬のことで、気づいたらここで尻と背中をおもいっきり打ち付けて呆然としていたのだ。そして、目の前にいた、日常の中では決して目にしないだろう格好をした男に怒鳴るように質問され、答えられず口ごもっていたら、突然頬をおもいっきり叩かれていた。今も、警戒するように槍を向けられている。
「わ、わかりません……っ! 私には、何も……何にもっ!!」
はじめちゃんはどこ!? はじめちゃんはどこにいるの……!! と叫び声を上げてしまいたかった。けれどあまりにも訳が分からず、また怖くて堪らなくて。ガタガタと震えてしまう自分の身体を抱きしめながら、サイカはひたすらにはじめの名前を心の中で呼び続けていた。
「……怪しいやつだな。覚悟しろ! お前をひっ捕らえ、お前の目的を吐かせてやる……っ!!」
「ひ、やぁ……!!」
男が槍の柄の部分をサイカに向かって振り上げるのを見たサイカは、目を固く閉じながら、やがて訪れるであろう衝撃に備えて自分の身体をぎゅっと抱きしめた。
「――待てっ!!!」
が、突如鳴り響いた声によって、その恐ろしい衝撃がサイカに降り注ぐことはなくなった。その聞き慣れた大好きな声に、サイカは泣きたくなった。
「……は、はじめちゃん……っ!」
不安だった、怖かった。そんな感情が、はじめの声を聞いた瞬間に溢れ出て、ついに堪えていた涙が決壊を起こしてしまった。そんなサイカにはじめが近寄ると、サイカの震える肩をそっとやさしく抱き、そして慣れた手つきでサイカの背中を撫でた。
「ごめん、怖かっただろう。僕がいるからもう大丈夫だよ。一人にして、ごめんね」
「は、じめちゃ……ううっ!」
「よしよし。我慢しないで、ちゃんと泣いて。サイカ」
その言葉に、もうどうしようもなくなったサイカは声を上げて、はじめの腕の中でひたすらに泣いた。そしてそのまま、子どものように泣き疲れたサイカは意識を手放した。
男が、やって来たはじめに対し「ヘイゼル王子……!?」という言葉を投げかけていたことも、はじめの後ろのいた者たちの現代社会では日常的には見ることのないお芝居のような格好のことも、殴られた頬の痛みさえも忘れて、サイカはただ大好きなはじめの体温の中、ぷつりと糸が切れたように眠った。