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時空探査

(寒い──。なんて、寒いのだろう)

 これが死というものなのか、と考え、刹那は次の一歩を踏み出した。不安定な砂の感触が素足から伝わる。両腕で自分自身を抱きしめ、さらに闇の深くに踏み出す。

「智くん……」

 零れ出た吐息が水面を揺らす。そして二度と言葉を吐き出さない唇を、二度と音楽を聴かない耳を、水泡が包み込む。

 混ざり合う、涙と海水。

 深呼吸をするように夜の温度を躰に招き入れ、刹那は意識を手放した。


 ※


「座標確認」

 そこまで呟いて、キラルはいったん、ヘッドセットを外した。ぼさぼさの黒髪が溢れ出る。大きく息を吸い込むと同時に、ゆっくりと瞼を上げる。

 時刻は午前四時を回り、仄かに青い光が、荒れ果てた研究塔の最上階に射し込んでいた。

(朝、か……)

 時刻という言葉が意味を持たなくなってから、それほどの時間が経ったのだろう。そんな文学的なフレーズを、久しぶりに呟きたくなった。それほどまでに、新鮮な、静謐な、切実な空気が、達成感と共にキラルの心を満たしていた。

 キラルはよれた白衣を脱ぎ捨て、ジーンズを放り出して、たどたどしい足取りでシャワールームに向かった。楕円形の自動ドアが開き、白い光が迎える。

 倒れ込むようにその中に入ると、15秒後には、洗浄・殺菌されたキラルが出てきた。

 もっと長く、うだうだと水滴を浴びていたかった、とキラルは思った。それほどまでに、心の余裕が出てきていたのだ。

「あ、あ」

 キラルは声を出してみた。誰とも話さないここでの暮らしのせいで、きちんと会話できなくなっているのではないか、と唐突に不安になってきた。

「あー、あー、あー…。マイクテスト、マイク……」

 繰り返されるしゃがれた声が、潤いを帯び始め、次第に泣き声に変わった。

「うう、うう……」

 キラルは泣き出した。大きく見開いた両の目から、大粒の涙が流れ出て止まらなかった。

「ますたー。大丈夫デスカ?」

 単調な声が響く。ホープ。キラルの創りだした人工知能で、研究塔の至る所から、キラルの脳内にアクセスできる。体温と脈拍の変化を感知したのだ。

「ホープ!」

 キラルは意を決し、大きな声で呼んだ。

「ハイ」

「君をシャットダウンする!」

 云い放つ。

 マニュピレータを駆動するためには、膨大なエネルギーが必要になる。つまり、キラルが目的を果たすためには、ホープを切る必要があった。

「了解、シマシタ」

 ホープは事務的な声で云った。しかし、その反応が普段よりも0.1秒も遅れていることに、キラルは気付いた。

(な……)

 動揺が背中を包む。が、命令を取り消すことはしなかった。キラルは唇をかみしめた。

 轟音を立て、タービンが停止する。キラルは壁際に歩み寄り、冷却水の流れる配管に手を添えた。次第に熱が失われ、ホープが完全に停止したことが判った。

「ありがとう」

 およそ300年という月日を共にし、愛着が湧かないはずがない。しかし、だからこそ、感情が元に戻ろうとしている今こそ、戸惑っている余裕はないとキラルは考えた。

(冷酷な科学者としての自分は、ホープと共に葬り去る。あとは一人の男として、常識的な寿命をまっとうするのだ)

 ついに誰も居なくなった世界で、キラルはスーツに着替えた。

「ネクタイ、大丈夫かな」

 キラルは呟いてみた。

 身だしなみを確認してから、シャットダウンをするべきだった、とキラルは思った。一方で、一つ一つ、生活能力を取り戻していくことは、自分にとっての試練だとも思い直した。鏡を視ながら、何度も結び目の長さを調整した。

「いよいよだ……」

 紅潮する頬。鏡の中の自分は、いかにも若返っていた。延命薬を何度服用しても、こうはいかなかった。キラルは心の神秘を思い、不敵に笑うと、堂々とリノリウムを歩き出した。

 太陽は一段と高度を増し、研究塔の窓の下一面に広がる庭園をオレンジに浮かび上がたせていた。

ヘッドセットをかぶり、真っ直ぐにゲートの向こう側を見つめながら、ナイフスイッチに手を掛ける。

「エネルギーよし」

 呟きに応える者はいない。これから先の未来は、身一つで確かめるしかないのだ。

(永遠子)

 キラルは、スイッチを傾けた。

 バチバチと不穏な音を立てながら、空間を裂いて広がるゲート。

 ゲートは、いわゆるタイムマシンではない。過去から未来に物を取り出すだけの小さな穴だった。しかしキラルの眼は、その小さな穴から、300年の時を超えて、運命の時空を射抜くように見つめていた。

「来い!」

 キラルは叫ぶ。いびつに折れ曲がった稲妻が、その本数を増し、キラルの視界を埋め尽くす。一瞬の瞬きの向こうに視えるのは、雪山を滑空するビジョンだった。

 飛行機が、黒煙を拭き出しながら、向う側へと崩れ落ちていく。

 その中に、かつてのキラルが居る。恋人・永遠子も。

(永遠子、何処だ)

 マニュピレータと神経がシンクロをはじめ、凍てつく風が両腕にまとわりついた。墜ちていく人影と共にそれをかき分けながら、キラルは眼を見開き、めまぐるしく回転する空を凝視する。

 キラルの頬を照らす緑のディジタル数字は、目まぐるしい速度で変化している。残り4分。

(あるはずだ。ここに、永遠子が)

 1998年。エルブルス上空。

 死体は見つからなかった。

 キラルは口許を歪める。

 死体は見つからなかった。

(300年後の僕が回収するからだ)

 死体は見つからなかった。

(永遠子。僕には視えている)

 キラルはレバーを強く引き、加速する。ディジタル数字は赤く変わり、カウントダウンに入った。重力と風に、躰とゲージが震える。しかしは、キラルは一切の恐怖を感じなかった。ぞくぞくとした科学者の性が、キラルを猛然と動かし続けていた。

 唐突に、一等星のような輝きを視界に捉えた。

 はためく、白い服。

(ああ!)

 感嘆のため息が零れる。

 落ちていく永遠子の躰が眼前に迫った。

「来い!」

 キラルは再び叫び、レバーから手を離して両手を差し出した。重力加速度に包まれた永遠子の躰と、キラルの座標は計算通りに重なった。

 受け止めた感覚。同時にタイマーが切れ、指先から300年後に戻っていく。凍てつく風が、波紋のようにキラルの躰を通り越す。桜の花びらが舞うように、うろこが飛ぶように、ビジョンが剥離する。

 そして、しんと静まり返る。

 もたげた頭からヘッドセットが悪露がり落ちる。スーツの両腕はずたずたに切り裂かれ、キラルは腕と頬から出血していた。震える両腕は、しかし回収物を離さなかった。

(やった……、う)

 急に圧迫を解かれた心臓がキラルを苦しめる。凍る寸前の血液が、研究塔の床に吐き出された。

マニュピレータの操作は、想像以上のダメージを伴った。スーツ姿で再会しようと思っていたキラルは、いまや瀕死だった。

(しかし)

 キラルは充血した目を見開く。視線の先、両手に包まれた永遠子の躰を愛しむ。

「やっと……、会えた……」

 急いで髪をかき分け、眠り姫の表情を確認する。

(ああ、こんな顔だった。間違いない)

 蘇りつつある触覚が、温もりに触れる。

 切望を果たした孤独な科学者は、そうして久しい眠りについた。


 ※


「きゃあああ!」

 二人の意識を呼び戻したのは、永遠子の喉から迸る絶叫だった。

 目の前に血まみれの男が倒れている。スーツの両腕を投げ出し、ぼさぼさの黒髪を床に貼り付けて、倒れていた。

 叫びだす理由は、それだけで十分のはずだった。それなのに。

加えて視界に広がっているのは、見慣れない景色。ただ広い空間に、よく分からない計器類が乱雑に積み上げられ、何かの研究所のようだった。

 天国でも地獄でもない。もう何もかもがどうでも良いと思っていた刹那にとって、意外性は何よりの恐怖だった。

「何? 何なのよ……!」

 刹那は立ち上がれず、足の裏の摩擦で、リノリウムの床を後ずさりした。ぼやけた視界が見つけ出したのは、白い靴。

 靴……。

 見慣れない、白い靴、白いスカート、白いブラウス。目の前にもってきた両手のひらも、刹那のイメージする”自分”とは全く違っていた。

 周りを見渡していると、窓が広がっている場所があった。刹那はそちらに這い寄った。窓の下にはオレンジ色の花が一面に広がり、ある意味天国のようではあったが、今はそれどころではなかった。

「あ、あ、ああ……」

 ガラスの向こうで、髪の長い女性がそう呟く。

 声も違う。

(これ、私……?)

 刹那の意志の通りに、女性は白い手を伸ばし、窓の冷たさに触れた。

 そこに、唐突に血まみれの男の影が映った。

「ひっ」

 刹那は急いで振り返り、両手で自分自身を抱きしめた。しかし凝視する瞳が、さらなる意外性に見開かれた。

 そこに立っていたのは、刹那が想いを寄せていた智久その人だった。あまりにやつれ、傷ついているが、見間違うはずがなかった。

「智……智くん……?」

「や、やあ、久しぶり、だね」

 二人は同時に云った。

 先に次の言葉を放ったのは刹那のほうだった。

「智くん、手、ど、どうしたの? 血、血、血が出てる……!」

 刹那は急いで立ち上がり、キラルの腕をとろうとした。その手首が、逆に相手に捉えられる。

 キラルは急に刹那を抱きしめた。刹那は硬直し、なすがままに躰を預けた。キラルの紅い血が、白い服に染みこむ。

「ああ、永遠子……会いたかった」

 刹那は驚く。永遠子? 女の人の名前?智久の唇がそう云った。その事実だけが、刹那の脳に殴りつけるような衝撃を与えた。

「智く……ねえ、ねえ! 離して!」

 キラルはもはや聴いてはいなかった。

「永遠子……」

「離してったら! 私はトワコじゃない!」

 刹那は怒りにまかせて、腕を引き剥がした。延命薬とマニュピレータの衝撃に蝕まれていたキラルの躰は、容易に突き飛ばされた。

「なっ……」

 床に尻もちをつきながら、キラルは眼を見開いて永遠子の躰を見つめていた。

「永遠子じゃない?」

「忘れたの? 刹那よ……」

 刹那は口許だけゆがめ、力なく名乗った。惨めな気持ちが、刹那の胸中に込み上げてきた。

「なんてことだ……」

 キラルは頭を抱えた。

「ありえない、まさか」

 暗澹たる空気が、キラルの全身を包み込んだ。キラルは乾いた笑いをもらしながら、唐突に泣き出した。

 泣きたいのは刹那も同じだった。

「もう、どうなっているの? これが地獄ってこと? あんまり過ぎるよ……」

「地獄だと?」

 キラルは皮肉な笑い声を打消し、強い口調で云った。

「そうか……。君は、本当に、永遠子ではない」

 そうして、永遠子の躰を見つめた双眸は、あまりにも冷たく、刹那は言葉を失った。キラルはよろめきながら立ち上がった。

「信じがたいが計算ミスがあったようだ……すぐに調べなくては。……ホープ!」

 突然の叫び声に、刹那は肩を震わせて驚いた。しかし何も起こらなかった。

(何なのよ……)

 キラルの背中で、取り残された永遠子の躰がしくしくと泣き始めた。

「そうか……。そうだ、僕は失敗したのか」

 言葉に出すと同時に、キラルは崩れ落ちるように腰を下ろした。

「ねえ!」

 涙声がキラルを呼ぶ。

「泣きたいのは私も同じよ! 説明してよ。あなたは何なの? 悪魔?」

「僕はキラルだ。1975年1月2日に生まれた人間の男で、悪魔なんて非科学的な存在じゃない。職業は夢見る物理学者だったが、それはさっき全て終わった。何もかも」

「本当に……智くんじゃないのね?」

「智くんとは?」

「私の……好きだった人。もう終わったけれど」

 刹那は顔を紅潮させて云った。キラルはふっと噴き出した。

「何が可笑しいのよ!」

「終わったなんて簡単に云うなよ。終わったって云うのは、こういう状態のことを云うんだぜ……」

 キラルは両手を広げ、床に大の字に寝転がった。

「くそ……。300年だぞ? 300年かけたのに……。あとたった21gだったのに……どうしてッ! くそっ、くそっ……。もう300年も待てるわけがないだろ……限界だ! もう限界だ! ……永遠子」

 言葉が嗚咽に変わり、細い腕が鞭のように何度も床に叩きつけられる。ただならぬ空気に、刹那の涙はぴたりと止まった。

「ね、ねえ……」

 刹那はスカートを抱えるようにしてしゃがみ込み、話しかけてみた。自分の胸元で、見知らぬ躰が動悸を激しくしている。それなのに、状況を理解しようという気持ちになっていた。

「話しかけるな! その声で……! なんで中身だけ違うんだよ……どうして……」

 キラルは泣き続けている。

「永遠子……さん、って云うの? この躰の人」

 しかし、キラルは固く瞼を閉ざし、泣いているだけだった。

(はあ)

 刹那は溜め息を一つ吐いて立ち上がり、窓の外を視た。午前の光が、視界一面の花を照らしていた。

(不思議な場所……。不思議な感覚……)

 まるで水中にいるかのようだと刹那は思った。

(死後の世界って、本当に予想外だわ……。変な役割を与えられて、変な劇を見せられて)

 外に出てみよう、と刹那は考えた。とにかくこの場所に居ては、どうしようもないと感じたのだった。

(さよなら。智くんによく似た人……)

 刹那は心の中でそう呟き、リノリウムの床を歩き出した。


 ※


 研究塔の他の階の様子は、最初の部屋と同じく異様なふうに刹那の眼には映った。計器類やデータサーバーのような機械が置いてあるだけで、しんと静まり返っている。刹那はそれらを見つめながら、今、自分は途方も無く技術の発達した、別の世界に迷い込んでしまったのだ、ということだけをおぼろげに理解した。もっとも、ときどき見つかる階段やエレベーターは、刹那がもといた世界のそれと全く同じで、それらを何度も乗り継ぎ、研究塔の外に出ることができた。

 階上から視たとおり、外は一面、花で覆われていた。ここだけ見れば、天国のようだと刹那は思った。

「誰か、いませんかー?」

 刹那は大きく息を吸い込み、そう叫んでみた。声は打ち消されることも反響することもなく、ただ大気に拡散していった。あまりの空虚な感触に、刹那は、ここには誰もいないのだと思い知った。

 花を触る。どこかで視たことがあるが、刹那には名前のわからないオレンジの花だった。質感も、よく分からなかった。

 100メートルくらい歩いてみたところで、刹那は再び泣き出したい気分になった。

 塔を振り返ると、ガラス光沢のある黒い素材が、異様な存在感を放っていた。

(もう一度、死のう)

 あの高さから落ちれば、死ねるだろう。そして今度こそ、正真正銘、何も無い世界に行けるだろう。そう思い返し、塔に入った。

「待て、待ってくれ」

 薄暗い室内に入ると、智久に良く似た男が、薄汚れた白衣を着て、手すりを手繰り寄せながら、よろよろと階段を下りてくるところだった。

(似ているけれど……なんて情けない……やっぱり、智くんじゃないんだわ)

 刹那はもはや怒りに近い感情で、キラルを一瞥した。

「どいてください。私、この屋上から飛び降りて、もう一度死にます」

「その躰を壊すことは許さん」

 息を切らしながら、キラルは両手を広げて刹那の行く手に立ちはだかった。

「許さなかったら、どうするんですか?」

 手の甲で涙を拭き、刹那は毅然と訊いた。キラルは困ったふうに頭を掻いた。

「とにかく話をしよう。思考停止は良くない」

 その時、刹那は初めてキラルという男の瞳を視た。先ほどまで泣きじゃくっていた男とは別人のように、冷静な瞳だった。刹那が視たことの無い種類の光を湛えていた。

「別にいいですよ。どうせ死んだんだし、時間なんて、もういくらだってありますから」

「君は死んだのか?」

 キラルは強い口調で訊き返してきた。

「ええ。自殺したんです。知ってるでしょ? 死神さん」

「だから、僕は死神でも悪魔でもないし、ここは天国でも地獄でもない……。それはともかく、なるほど、君は自殺者か……」

 キラルはしばらくうんうんと唸っていたが、刹那の視線に気付くと、白衣の裾で両手のひらをぬぐい、右手を差し出した。

「ようこそ。悲しい未来世界へ」


 ※


 キラルに導かれて刹那がやってきたのは、豪奢な装飾椅子のある部屋だった。壁際には分厚い本がひしめき、頭上にはシャンデリアが輝いていた。無機質な空間から、自動ドアを一枚隔てただけのところに、このような部屋があったとは。刹那は目を丸くした。

「お待たせ」

 それほど待っていないのに、キラルは身だしなみを完璧に整え、2杯の珈琲を持って入ってきた。

「本当に、ここって、未来なの?」

 尋ねる。刹那の横顔が柱時計のガラスに映り込み、その向こうで振り子が緩慢に揺れていた。

「そう……。今からちゃんと説明する。落ち込んでいる場合じゃないんだ」

 目を伏せて云いながら、キラルは2杯分の珈琲をテーブルに置いた。

「まずは君──」

「刹那」

 話を進めるためだと割り切り、刹那は手短に名乗った。

「刹那くん。君にここが未来世界だと信じてもらわないと話が進まないと僕は考える。何を出せば証拠になるかな」

 キラルという男は、いたって紳士的に尋ね、装飾椅子に背中を預けた。

「証拠って……」 

 刹那は指を顎に運んで考えた。

「記録……記録は無いかしら」

「どんな?」

 しばしの逡巡。

「智くん」

 零れ出た言葉は、やはりそれだった。

「野々原智久っていう、ピアニストの演奏旅行の記録……なんて、ありませんか?」

 キラルは、話が早い、とでも云わんばかりに立ち上がり、書架に向かった。

「あるんですか?」

「もちろんあるさ」

 キラルは書架から一冊、取り出した。それは一見、本のようだったが、そう模られたタブレット端末だった。画面を眺めているだけなのに、文字がするするとスクロールしていった。

「ほら……。ほう? なるほど、これは……僕に似ているのか」

 刹那は椅子から立ち上がり、奪うように端末を受け取ると、画面を見つめた。

2014年、ウィーン。漆黒のスーツを着込み、リストの演奏に没頭するピアニストの写真が、音も無く動いていた。

「智くん……本当に、行ったんだね」

 刹那は小さく呟いた。

「これで信じたかい?」

 キラルは無機質にそう云い、椅子に戻った。刹那は、もっと見つめていたい気持ちを抑え、タブレットを書架に戻した。椅子に戻り、一口珈琲を呑んでから、重い口を開いた。

「ねえ、私、タイムマシンに乗ったってこと?」

「君のうち約21グラムだけがね。そしてタイムマシンではなくマニュピレータ」

 キラルはそう説明し、同じように珈琲を一口飲んだ。

「マニュピレータとは、過去から未来に物を取り出す装置だ。僕はそれで、君を取り出した」

 流暢に紡がれる言葉は、通常の精神状態では信じがたい事だったが、今の刹那には飲み込む他になす術はなかった。

「どうして私なんか」

 カップを置きながら、刹那はなげやりに尋ねた。

「信じがたいことだが、何かの手違いがあったようだ。ああ、その、先ほどは、失礼した」

 キラルはばつが悪そうに、下を向いてそう云った。そしてそのまま、露骨に落胆していた。

「永遠子って人と、間違えたの?」

 厭な気持でいっぱいだったが、刹那は先を促した。

「そうだ。永遠子というのは、1998年時点の僕の恋人だ。航空機事故で雪山に落ち、僕が居なかったら死んでいたはずだ」

「と云うことは、あなたが助けたのね」

 少し興味が出てきて、刹那は尋ねた。と云うよりも、智久に良く似た人が落胆している姿は、刹那にとって見るのが辛いものだった。

「そうさ。当時、大勢の捜索隊が彼女の死体を探したが、見つからなかった」

 キラルは少し自信を取り戻した口調で云った。

「つまり、それは僕が300年後に彼女の躰を回収したからなんだ」

「どうして、そうだって分かるの?」

「いや、だって、その、今目の前にあるし」

 この辺りの理屈は、刹那には少し難しく感じたが、今は飲み込んでおこうと思った。

「この人ね」

 刹那は再び自分の両手を見つめた。

「ところが、中身だけは違っていた。刹那くん……。今から僕らは、それを解明しなくちゃならない。その方が、たぶん、お互いうにとってのためになるだろう……」

 智久の顔に、他人行儀に刹那くんと呼ばれたことに、刹那は小さな溜め息を吐いた。

「私のため……?」

 珈琲の香りとともに、乾いた笑いが零れる。

「私、もうどうにもならないわ」

「自殺したんだったか?」

 キラルは単刀直入に聞いてきた。無神経な、と刹那は憤ったが、もういちいち反応することに疲れた。未来の世界だろうと、死後の世界だろうと、どうでも良かった。刹那にとって重要なのは、智久が自分を離れ、ウィーンでの演奏会を選んだという事実だった。

「そうよ。あなたに良く似た、その顔に失恋してね。一人で冷たい海に身を投じたの」

 芝居がかったふうに刹那は云ってみた。しかし、聴き慣れない声が震えていた。キラルは困った表情をした。

「それは、僕ではない……。だが、まあ、すまなかった」

「謝らないでよ……。 どうにもならないんだから」

 気まずい沈黙が流れる。

「うーん、でも、そうか、入水自殺か、ふむ」

 キラルはそう云い、一人で珈琲を啜った。

「なるほど。少しずつ分かってきた」

(何よ、もう)

 刹那は顔を逸らし、時計のガラス板に映る自分の顔を視た。不自然な長い髪をそっと指で梳かす。目の前の不器用な男、キラルの恋人だったという女性の躰。

「君は、絶命する前に、その智久という人をイメージしていたのか?」

「なっ……」

 土足で人の心に入り込んでくるキラルに、刹那は憤りを感じた。しかし、きつく結んだ唇から、誇りに満ちた口調で次の言葉を吐き出した。

「そうよ。別に、悪くないでしょ」

 破れたとしても、それは命をかけるほどの恋だったのだ。刹那は、しわになるくらい、スカートの膝元を握りしめた。

「なるほど。いや、理屈は合う」

 キラルは両手をぱん、と合わせて、身を乗り出した。

「つまり、ある偶然があったわけだ。僕が永遠子の躰を回収して、持ってくるまでの極めてわずかな瞬間に。君は僕と瓜二つの顔をイメージした。刹那くんの、智久くんに会いたい感情と、移動手段が、同時に存在する時空があったわけだ。その二つを解消するには、君の21グラムをこちら側に持ってきた方がエネルギー的に準安定状態になった。ああ、なんていうか、つまり、世界にとって都合が良い状態に」

「待ってよ」

 刹那は左手を差し出して話を打ち切った。

「私、確かに智くんの事を思い出したかもしれない。それが、私の自殺動機だし。でも、会いたいなんて……。私が居ると、智くんの……あの人の邪魔になるから」

 云いながら、刹那は涙ぐんできた。

「え、会いたいんじゃなかったの?」

 キラルはいかにも不思議そうに訊いてきた。刹那ははっとした。冷たい海水の感触。智久の奏でるリストの曲。胸の奥に閉じ込めていた孤独感が、急に溢れてきた。

「それは…」

 会いたい。

(会いたいよ!)

 そう、叫びだしたかった。でも、あの時代にも、この世界にも、その人は居ない。

 ゆっくりと顔を上げ、見つめる。目の前には、キラルの顔。智久に良く似た顔が、心配そうに見つめている。

「デリカシーの無い事、云わないでよ!」

 刹那はそう叫んだ。そして、全く違う声色に、はっとした。

云い捨てて逃げ出そうともしたが、行くあても無く、気まずい沈黙に耐えるしかなかった。

「そういえば、あなたって、長生きなのね」

 刹那は装飾椅子に座り直し、次の言葉を繋いだ。この沈黙を破るべきなのは、刹那のほうだと知っていた。

「まあ、ね」

 キラルは珈琲カップのふちを撫でながら、小さく呟いた。

「最初の50年で、なんとか延命薬を開発した。永遠子と再会するためには、まずそれが急務だった」

 そう話しているキラルの顔は、なんとも穏やかで、自信に満ち溢れていた。音楽について語る智久と表情が少し似ていて、刹那は驚いた。

「いろいろあったなぁ……」

 キラルはしみじみと呟いた。

「ねえ。未来の事、聴かせて。私も、智くんも知らない、ずっと未来の事」

 刹那は、こぼれそうになる涙を堪えるように顔を上げ、そう訊いた。キラルは少し笑った。

「でも、君にとっては、あんまり楽しい話じゃない。汚染とか戦争とか。たぶん落胆するだろう」

「ここには、他に誰かいないの?」

 構わずに刹那は問い続けた。

「さっきまで、ホープという人工知能が居たけれど、今は僕だけになってしまったな……。電池切れで、再起動まであと20年はかかる」

 淋しそうに、呟く。いや、実際に淋しい人なのだろうと、刹那は知った。

「他には、誰もいないの? 食事は、どうしているの?」

 何故か智久に出会ったころを思い出しながら、刹那は尋ねた。

「これからは、永遠子が来て、料理してくれると思っていたんだよ……。はぁ」

「貴方って、頭が良いのか悪いのか、分からないわね」

「ああ、それね」

 キラルは口許を穏やかに弛めて呟いた。

「永遠子にも云われたよ。デリカシーが無いともね」

「あ、そう」

 刹那は笑った。はじめ、こんな男を愛する人なんて、どんな人だろうと刹那は思ったが、やはり女は女なのだな、と安堵した。躰を借りているせいなのか、永遠子という女の温かい鼓動が、胸の内に迫った。

 急に、キラルの表情が、泣き出しそうに曇った。

「笑った」

「え?」

 ああ、そうか、と刹那は思った。そしてサービスのつもりで、もう一度、はにかんで見せた。次の言葉は無く、キラルは静かに涙をこぼした。

「すまん……」

 くぐもった声で、そう言い残し、キラルはそっと席を立った。キラルが部屋を出て行ってから、刹那もつられて泣いた。智久の泣き顔を、思い出していた。


 ※


「ねえ」

 刹那は階段を上がり、最上階でキラルの背中を見つけた。いつまでたっても戻ってこないので、キラルが自殺したのではないかという心配が胸の奥から湧き上がってきた。自身が自殺したことを棚に上げて、呑気なものだと、刹那は自嘲した。

「ねえ、何をしているの?」

 キラルは黙々と、おびただしい量の配線を組み替えていた。

「ああ、すまん」

 キラルは刹那のほうを視ず、淡々とした口調で云った。

「刹那を元の時代に還す。エネルギーは、空調の電源を切ってどうにかする。あとは座標さえ分かっていれば、21グラムならなんとかなるかもしれない。今エネルギー収支を計算しているから」

「そんなこと……」

 刹那は、急に不安になった。元の時代に戻ったら、自分は死ぬのだ。それを、キラルも知っているはずだった。

「21グラムって、私の質量?」

 刹那は明るく聞いてみた。

「そう」

「心にも、質量って、あるんだね」

「え? 当たり前だろう。電子1個にだって質量はある。そんな事実は、君の時代でも理解されていたはずだ」

「そっか。ごめんね、私、頭悪いから……。でも、思ったよりも、軽いんだね」

「はあ? とんでもない質量だよ……。まったく、固体じゃなくてプラズマなんだから」

「あの、あんまり無理しなくていいよ」

 刹那は両手を後ろに回し、遠慮がちに云った。

「大丈夫。別に君を殺したいってわけじゃない。さっき判明したが、君は死んでないよ。意識不明になっているはずだ」

「え?」

 驚く。

「私、もう一度、生きれるの?」

 訊きながら、元の世界に戻れたら、次にどうするべきかと、脳はしたたかに考え始めていた。

「精神を丸ごと持って来れた、ということは、プラズマが拡散しきっていない状態なんだ」

 キラルは何でも無い事のように説明した。

「う、うん……」

 自分が生き返れるということに、心底安堵していることに、刹那は気付いた。しかし、不安は払拭しきれなかった。

「私のこともそうだけど、キラルは、これから、どうするの?」

 恐る恐る、尋ねる。

「そうだなぁ。ホープを再起動するまで、エネルギーを蓄積する日々だな……。延命薬をあと4回飲まないとダメだが。あれ、すごく苦いんだよ……」

 キラルは、かなり饒舌になっていた。初めて会ったときの絶望した顔を視てしまっただけに、それがとてつもない空元気であることに、刹那は気付いていた。

「ねえ」

 切り出す。

「私、もう少しこっちに居ようかな……」

 キラルの手が、ぴたりと止まった。

「どうせ、一度棄てようとした命だし。何かお手伝いするよ。次の実験まで、結構かかるんでしょ? 何か手伝うことないかしら? それに、なんだかんだで、永遠子さんの躰を借りてしまったし……。私にも責任があるよ……。あ、あと、キラルって、料理とか、出来ないんでしょ? どうするの?」

 刹那は続けてまくし立てた。

 このとき、刹那には、奇妙な名を持つこの科学者と関わることは、自分に課せられた使命であるかのように思えていた。

 智久と似ているからという理由も、実のところあった。暗い海に潜る前、智久に対して何もできなかった自分。黙って逃げた自分。未来の図書館で視た、2014年の映像。償わなければならない、と刹那は思った。

 キラルは刹那の言葉を、黙って聴いていた。

「……いや」

 重い口調が応えた。

「取り寄せてから時間が経過するほどに、こちらで見聞きした情報が増えるほどに、必要エネルギー量は指数関数的に増えていく……早く戻したほうがいい」

「そう、なんだ……」

 刹那は無力感に打ちのめされた。前にもこんなことがあった。

「永遠子が居てくれれば、あっという間なんだろうな」

 キラルは唐突に呟いた。

「永遠子さんって、頭が良いの?」

 刹那は気丈に振る舞おうと、ただ質問した。

「彼女は天才科学者だよ。ホープだって、延命薬の原型だって、彼女が創ったんだ」

「へえ……」

「でも、あと12時間くらいで準備するよ。この300年で、僕も少しは彼女に近づけたはずだ」

 キラルは強い口調でそう云った。孤独を耐え抜いたプライドが、現れていた。

「うん……分かった」

 刹那はゆっくりとキラルから離れ、踵を返した。

「10時間……」

 呟く。

 何故、そんな言葉が口から出たのか、刹那には分からなかった。

「10時間で終わらせて。待っているから」

 云い残し、刹那は最上階を去った。


 ※


 キラルの顔のすぐ横、中空に数値が踊った。計算の結果、厳しい数値が叩き出された。

「これは、外部ブレーンの空調も切らないとダメだな……」

 一人呟く。外部ブレーンの空調、つまり研究塔の外の温度管理を放棄することは、一面の花が死に絶えることを意味していた。花畑は、永遠子を招いた日のために、キラルが地道に用意してきたものだった。

(まあ、仕方がない。永遠子の躰に他人の心を入れておくてなんて、悪趣味だ)

 キラルはゆっくりとトグルスイッチを切り替えて行った。パチン、パチンという金属音は、骨を一本一本折られるような痛みを伴った。

(それはともかく)

 キラルは一人考える。

(刹那の人格が混信してきたことはよく分かったとして、問題は、永遠子の心が何処に行ってしまったかということだ……)

 口に出さなかったが、そのことは非常に難解な問題だった。

 永遠子が去り、世界に一人だけになってから、100年以上が経過した。その間、あらゆる記録を基に時空を探査し、その結果として、現に永遠子の躰を回収することには成功した。それなのに、意識だけが届かない。まだ誤差が大きいということなのだろうか。

(墜落の瞬間、永遠子は意識を失った。それは分かっている。けれど、プラズマの拡散速度からして、エルブルス上空に残滓くらい残っていそうなものだが……。それが一切ないとはどういうことなのだ? この時代に来た永遠子は、すっかり刹那という人格になっていた)

 固いコードを引き抜きながら、キラルは考え、考え続けた。

(まあ、もともと彼女は特別な人だった。夢見がちで、誰よりも世界を翔けていた。プラズマの拡散速度が多少速い……つまり、平たく云えば、すんなりと死を受け入れた、ということも、まあ、あり得る)

 その考えに至ったとき、キラルは溜め息しか出なかった。

(結局、僕は永遠子の速度に追いつけなかったのか。300年経った今ですら)

 ディスプレイの表示が涙で滲む。

(淋しいものだ。あの刹那という娘が死にたくなった感情も、おそらくこういう想いに似ているのだろう。ん? ああ、そうか。そんなつまらん要因も混ざって、こんなアクシデントが……? くそ、あと300年だと? あと300年の間に、僕はもっとましになれるのか? くそ)

 キラルは泣きながら、次々とコードを引きちぎり、花たちを死に追いやった。

「畜生、畜生っ……」

 リノリウムの床が、水滴を弾いた。


 ※


 装飾椅子の部屋で、刹那は一人考えていた。あと10時間、何をすれば良いのか。ああまり出歩くのは良くないと思ったし、勝手に未来の書を読むことも、はばかられた。先ほどと同じ場所に腰かけ、テーブルの上に残された珈琲カップを虚しく見つめる。

「あの人……」

 刹那は珈琲カップのふちを撫でながら考えた。

 とても孤独な人だったのだな、と、母性にも似た心が、借り物の躰を満たした。

 同時に、300年も、誰か一人を思い続けるなんてことが、自分にできるだろうか、と刹那は自問した。

「私って、弱いのね。たった3年で、不安になるなんて」

 冷めた珈琲の水面に顔を移しながら、刹那は呟いてみた。

『会いたいんじゃなかったの?』

 キラルの言葉が想起される。

 理性で感情を押し殺していた。そして自分自身の躰さえ、殺そうとしていた。そのことを、刹那は今、悔やんでいた。

「追いかけることが、怖かったのよ」

 珈琲の水面に映る永遠子に、刹那は語りかける。

 永遠子の顔は、何も答えず、落胆とも微笑みともつかない複雑な表情をしていた。

「でも、だからこそ受け止めてほしかったのだけど……」

 云いながら、刹那は一人涙を流した。

 ──そうね。

 不意に声が囁いた。刹那が見聞きした音の中で、最も上品な声だった。

「え」

 同じ唇が訊き返す。

 ──大丈夫、還れますよ。

「永遠子、さん?」

 刹那は訊き返す。

 答えの代わりに、刹那の右眼だけから、唐突に一筋の涙がこぼれた。

 ──巻き込んでしまって、ごめんなさいね。

 刹那はしばし、言葉を探した。

「いいえ。私、ここに来れて、良かったです」

 そう云って立ち上がり、柱時計の前に立った。ガラスの向こう側では、美しい長髪の女性が微笑んでいた。対する刹那は、口元を押さえ、驚愕する。見開いた瞳から、大粒の涙が零れた。

「あれ、私。なんでだろう」

 刹那は呟く。それは一瞬の白昼夢だった。


 ※


「永遠子、約束通り10時間で完成させたよ」

 指にオイルをにじませながら、キラルが戻ってきた。刹那は装飾椅子で眼を醒ました。

「あ、いや、刹那くん」

「今、永遠子って呼んだでしょ」

「ああ」

 キラルは溜め息を吐いた。

「すまない」

 語尾に物音が重なる。

 刹那は躰を起こし、唐突にキラルを抱きしめた。驚き、硬直する痩せた躰。

 キラルは、縛られた両手の先を、壊れ物を扱いあぐねるように、中空に彷徨わせた。

「ねえ、キラル」

「何だ」

「抱いて、いいよ」

 刹那は耳打ちした。

「何、だって」

 キラルは息を荒げ、苦しそうにそう云った。

「刹那くん。僕は君よりずっと永く生きているんだ。からかうなよ」

「ううん」

 永遠子さんが、と云いかけて、刹那は黙った。

「その、私、ちゃんと、黙ってるから」

 刹那は食い下がった。

「だって、また、ずっと会えないんでしょ? 会いたかったんでしょ? 二時間、あるんでしょ?」

 必死に言葉を繋げる。

「身勝手な話だけどね、私ね、ここに来れて良かった。なんていうかね、科学の事は分からないよ。でも、キラルと会って、とても勉強になったの。ずっと信じて待っていることの、すごさとか。なんていうか、物事には、全部、ちゃんと理由があるんだって。そこから、逃げちゃ駄目なんだ、って……うまく云えないけれど、私──」

 次第に、言葉がつまり、また泣き出しそうになってきた。今日、一体何度泣けば気が済むのだろう、と刹那は思った。

 次の言葉の前に、キラルの唇が永遠子の唇と重なった。その感触は、刹那に云いようのない安堵をもたらした。

「ありがとう。私、こんなことしか、できないけど」

 離れた唇から、刹那は最後にそう云い、瞳を閉じた。

「永遠子」

 震える声で、キラルが恋人の名を呼んだ。

「はい」

 刹那は瞳を閉じ、無意識にそう応えた。

「ずっと、会いたかった」

 これほどまでに、真剣で切実な人の声を、刹那は知らなかった。キラルは、飢餓の国の子供が食事を貪るように、しかし小鳥がじゃれるように、永遠子の唇や、頬や首に、何度も口づけを施した。二人の手は彷徨い、交差し、躰の真ん中へと誘われた。

「う、あっ…‥」

 思わず声が零れる。白い素肌の、接触した部分から熱が吹き出し、植物の芽が萌えい出るような感覚が広がった。しだいに感覚は刹那のもとを離れ、止まない火照りだけが、二人の頭上を漂っていた。

 刹那の意識は息を荒げながら、寝そべった絨毯の上で、柱時計を見つめていた。振り子が、緩慢に、着実に揺れ動く。ガラスに映る、永遠子の上気した表情。催眠術のように目が離せなくなる。そこに、キラルの顔が迫る。二人の吐息で、視界が曇る。

「だめ」

 それは決して拒絶の言葉ではなかった。そして呟いているのは、もはや刹那ではなかった。キラルもそれを無視し、愛撫を続ける。

「綺麗だよ。全ての時空の中で、一番、綺麗だ」

 苦しそうに吐き出される台詞。衣擦れの音が、酩酊した意識の中をリフレインする。

(永遠子さん、分かる? 分かるわよね。私、もう、凄く妬けるよ……。あとどれくらいの時間? どうすればいいの?)

 刹那は顔面を押さえた。白いてのひらの向こうで、孤独なふたりの科学者が情念の炎を燃やしている。それは刹那にとってまるっきり他人の事だったはずなのに、刹那は、21グラムの心に、熱を注がれていくのを感じていた。冷たい海水の中とは真逆の、密度の高く、温かい流体がこすれ合う。電子が震え、途方も無く混じりあう。未知の感覚だった。


 ※


 ひとしきりの嵐が去ると、玉のように浮き上がった汗と涙が、やけに冷たく感じた。3人はあらゆる気力を絞り切り、息を整えるのに精いっぱいだった。

「二時間、経ったな」

 先に口を開いたのはキラルのほうだった。

「はい……」

「立てるか」

「うん」

 刹那は気恥ずかしさでおかしくなりそうな感覚を、辛うじて繋ぎ止め、椅子の手すりを辿るように立ち上がった。キラルと視線をかわすことははばかられた。行為の最中に、智久の名前を呼ばなかった保証は無かった。けれど、改めて言い訳をする余裕も、刹那には無かった。

「刹那くん。君を元の時空に返す」

「心だけ送るって、どんな感じなの?」

 刹那はキラルの白衣の袖を握りしめた。

「心を剥離させないとだめだ。意図的にそうするのは難しい。だから、ひとまず躰も一緒に送ることになるな。転送の途中で、肉体がこちらに残る」

「え」

 思ってもみない説明が返ってきた。

「それって大丈夫なの?」

「大丈夫とは? あとは300年後、また実験するだけだ」

「そんな! だったら私」

 云いかけて、刹那は言葉を飲み込んだ。キラルは、全てわかっていて準備をしたのだった。

「うん、分かった……」

「来い」

「はい」

 刹那は神妙に頷き、キラルに従った。

 二人はエレベーターで47階に昇った。最上階ではないのが、刹那にとっては意外だった。47階には計器類はほとんどなく、代わりに航空機のようなものが鎮座していた。

「これが、タイムマシン?」

「カプセルだ。行ったり来たりは出来ない。これで加速して送り出す。矛盾のない時空に落下するはずだ」

 キラルは機体を撫でながら云った。

「旧時代的に視えるかもしれないが、心配するな」

「うん」

 刹那はキラルに導かれ、言葉少なく、コックピットに乗り込んだ。

「じゃあ、ね」

 刹那はもう言葉を見つけられないでいた。勇気を出して及んだあの行為で、全てが伝わったと、信じたかった。

「今回の実験で、僕も勉強になった。さよなら、刹那くん。もう命を棄てようとするなよ。未来に迷惑だから」

 キラルはそう告げて、コックピットを閉めた。刹那は唇を広げたが、けたたましい機械の音が二人の距離を表現した。キラルは振り返りもせず、カプセルの前の方に歩いて行った。

 2時間だけ永遠子と絡み合った無骨な指が、ナイフスイッチにかかる。埃が舞い、轟音をたてて、シャッターが開かれていく。

 一目で冷気と分かる青い大気が、研究塔の中に吹き込んでくる。枯れた花たちの残骸も。それはどこか、夜の海に似ていた。沈む未来世界を、しっかり焼き付けて還ろうと刹那は誓った。

「うっ!」

 唐突に爆音が響き渡る。何事かと後方に視線を送る隙も無く、加速度が刹那にのしかかった。

 容赦ない加速に、刹那は指先から感覚が剥がれていくのを知った。水泡が激しく暴れる音がする。刹那はついに、瞼を閉じた。


 ※


「刹那、おい、刹那」

 智久が呼ぶ。

 スーツ姿の良く似合う人。細く繊細な指が、刹那の手を握っている。

 刹那は眼を見開いたまま、その映像の意味をゆっくりと理解していった。

「先生、刹那が」

 慌ただしく駆けて行く智久。

「智……くん?」

 呼び止めようとするが、影は行ってしまった。

(ちゃんと、待っていよう)

 刹那は一人、小さくため息を吐いた。病院の白い壁が眩しい。喉に痛みが残る。そんな痛みでさえ、今は何故か愛しい実感だった。

(私、戻って来たんだ……)

 双眸から涙が零れる。他の誰でもない自分の躰から溢れる涙は、弱い心を掃き清めていくような質感を伴った。

 永い夢を視ていたようだったが、詳細には思い出せなかった。ただ、黎明の海と、白い服を着た、見知らぬ美しい女性の姿が、胸の奥に沈んでいくのを感じた。

 再び目を醒ました2014年3月、今を強く、大切に生きようと、刹那は誓った。


 ※


 飛行機は少女の意識を包んで水平線の向こうに飛び去り、空虚になった躰を抱いて、枯れ果てた世界に落下していった。

 青い地平に、オレンジの閃光が走り、爆風がキラルの頬をなぶった。次いでやってきた振動は、研究塔の天井から埃や破片の雨を降らせた。

 キラルは転送完了を確認し、白衣を翻して踵を返した。扱い慣れない旧式の装置を整備し、緊結されたプラグを繋ぎなおした疲労で、キラルの躰は今にも吹き飛ばされそうだった。外の視えない位置まで歩くと、動力切れのオートマタのように、キラルは腰を下ろした。

「ホープ……。いや、永遠子」

 呟く。

 ──はい。

「座標を確認したよ」

 ──何の座標ですか、キラルくん。

 永遠子はおどけたふうに云う。

「永遠子の」

 ──やっと、分かりましたか。

「ああ。1998年10月8日5時47分、墜落した君の躰に、既に意識は無かったんだ」

 ──そうですよ。

 キラルは満足し、ふっと笑う。

 ──何でホープの応答が0.1秒遅れたと思っているんですか。肝心なところで見逃すなんて不注意です。

「ずっと、ずっと傍にいたんだな」

 キラルは深い溜め息を吐いてから、そう確認した。

 ──ええ。

「どうして、僕が君をこっちに連れて来られないと解かっていて、実験を中止させなかったんだ?」

 ──だって、キラルくんにも、女心に気づいて欲しかったんですもの。あのですね、女が還るのは、想い人の中に決まっているのよ。シンプルだけど、とっても大切なこと。それを知るために300年もかけるなんて、キラルくんもまだまだですね。

「なるほど。……でも、おかげで永遠子の躰、燃えてしまったよ……」

 久しぶりに話す言葉は、ただの事実を述べるだけでも、一音一音が新鮮で、キラルを穏やかな笑顔にした。

 ──はい……。そうですね。でもほら、よく云うでしょう? 人は、人の心の中で生き続けるって。

「実に陳腐だ」

 散乱したガラス片に映った永遠子は、白いブラウスの袖を口元にあてて、からからと笑った。

 ──それに、私たち、ちゃんと一つになれましたよね。二時間ほどですが……。

 聡明な永遠子の声が、デクレシェンドする。

「永遠子。僕はちょっと疲れたよ。久しぶりに激しく動いたから」

 キラルもそう囁き、少年のように頬を紅潮させた。

 ──ええ、おやすみなさい。あーあ、私も、少し眠ろうかしら。

 おやすみ、永遠子。

 おやすみ、キラルくん。


 END


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