人生で最も辛い時!
この物語は、誰にでも起こりえる、いや、誰にも経験のある出来事ではないだろうか。
それ程、日常で出くわす事件なのだ。
誠二の十八歳の誕生日。それも、日曜日という、滅多に来ない偶然が重なった日程だった。その為に、家族で話し合った結果、みんなで外食に出掛ける事になったのである。そこには、普段では外出しない総一郎の姿もあった。それに、母親の久美子から前以って言われていた事で、幸子の顔もあった。香取家での、久しぶりの家族団欒での外食だった。まあ、この様な日には、高級レストランでもと言う声もあるだろう。だが、昨今の不景気の中での、こう言った行事を行う。数年前に比べると二割程のカットとなった政隆の給料を考えると、精一杯の持て成しではないだろうか。
そんな中、タクシーを使って食べ放題の店に来た香取家。滅多にない事もあって、この日はお酒も飲もうと思っている政隆だった。店内に入った香取家の面々の前に店員が現れる。
「お客様は、ご予約なさっていた香取様で御座いますか」
「はい、そうですが……」
「5名様ですね、こちらへどうぞ」
店員の先導で、テーブルへと導かれる香取家一行だった。
「90分の食べ放題となっております。それでは、ごゆっくりどうぞ」
店員はそう言うと、その場を立ち去った。
「ようし、喰うぞ」
そう言って、真っ先に席を立ったのは、やはり誠二だった。政隆も席を立ったが、行先はビールのところだ。
「あなた達は、行かなくていいの?」
久美子が問い掛けていたのは、膝を立てて座っている幸子と、iフォンばかりを観ている総一郎だった。無言の総一郎に対して、手を横に振る幸子を見た久美子は、
「それじゃ、お母さんが持ってくるから、一緒に食べようね」
そう言って、食べ物の所に向かったのだ。
バイキング仕立てのこの店には、肉類はもちろんの事、天ぷらに寿司、揚げ物に中華、カレーにチャーハンと、様々な主食に加え、ケーキにフルーツ、アイスにかき氷と、デザートも豊富に揃っていた。その為か、食べきれずに残してしまうマナー違反の客も少なくなかった。そう言った事を注意しながら、久美子達は沢山の食べ物を運んできたのだ。
「さあ、喰おうぜ」
肉類ばかりを持ってきた誠二は、早速、鉄板に肉を広げている。その横で、持ってきたビールを旨そうに飲んでいる政隆だった。そこへ、揚げ物や中華と言った、おかずになる物を持ってきたのは久美子である。食べ易い様に小分けした皿を、幸子と総一郎の前に揃えている。そして、ご飯もしっかりと注いできた。
一応の食べ物が揃うと、先ず、久美子が言った。
「誠二さん、お誕生日おめでとう」
「ああ、ありがとう母さん」
久美子の言葉に、持っていた箸を一端置いて久美子を見ながらそう言った誠二だった。その後、直ぐに政隆も祝いの言葉を言っていた。すると、足を下ろした幸子が、
「誠二兄ちゃん、おめでとう」
と、小声で言うと、総一郎も同じ様に小声でお祝いの言葉を言った。それを見た久美子は、余りの嬉しさにハンカチで涙を拭いていたのだ。幸子が不良の仲間と遊ぶようになり、総一郎が引籠りになってからは、この様な事はなかった。この前のサバゲーから、少しだが幸子の誠二に対する振る舞いが変わって来ていた。それに伴い、総一郎も部屋から返事をするようになっていた。そして、今日の出来事で、元に戻りつつある香取家を喜んで見ていたのである。そうこうしている内に食事も終わり、足元をふら付かせる政隆を、脇から支える誠二と総一郎。そして、幸子と久美子は並んで外に出ていた。五人はタクシーを止めると、家路に向かったのである。完全に満腹になった誠二のお腹。普段の倍は喰っただろう。
その翌日に、誠二を襲うまさかの出来事が…… 。
それは、学校からの帰路に起こった。
「おう、昌也。大樹は、もう帰ったのか?」
昌也と大樹とはクラスが違った為に、帰る時は待ち合わせをしていた誠二と敦、それに康彦。校門を出ながら、四人は話していた。
「それがさ、この前のサバゲー以来、大樹は先に帰る様になったんだよ」
「そ、そう言えば、この頃一緒じゃないよな」
「どうしたんだろう、あいつ……」
誠二と敦がそう言うと、昌也がニヤケ顔で言った。
「あいつさ、どうも、友理奈と付き合い始めたらしいぜ。この前のサバゲーの時、大樹が撃たれたのを見た友理奈が、大樹の胸で泣いたんだと……」
「ええ、ほんとかよ…… あの、親衛隊長の友理奈が…… こりゃ、スクープだな」
敦は、昌也の言葉にそう茶化していた。だが、誠二は違っていた。幸子の事を思い出していたのだ。
そう言えば…… サチも、俺が撃たれた時に泣いていたな。あれから、俺に対する態度も変わったし……
気が付くと、誠二の顔の前で手を振っている敦が居た。
「誠二―っ、大丈夫かあ」
我に返った誠二だったが、
「まあ、いいじゃねえか。大樹も青春してんだよ。それに、友理奈も結構可愛いし、俺達も、早く彼女を見つけようぜ」
そう言った誠二の瞳は、少女マンガの様に沢山の星が輝いていた。四人が駅に向かう途中で、敦がしゃがれた声で急に呟いた。
「おい、ここでアイスでも買わないか」
ふつと横を見ると、息切れをしながらコンビニの前に立っている敦がこっちを見ていた。確かに暑い。衣替えの時期だが、完全な真夏日和だ。最近の気象は、異常を来している。春先に台風が来たり、いきなりのゲリラ豪雨になったり、急に朝晩が冷え込んだりと、地球が滅亡するのではと思わせる様な天気が多い。この日も、午前中は雨が降ったが、昼からの晴天により熱中症の注意事項をテレビで訴えていた程だ。
「そうだな。こうも暑苦しいとアイスでも食わないと、ぶっ倒れてしまうぜ」
「俺っ、『旨い棒』喰おうっ!」
入り口に立っている敦を押し退けて、昌也が先にコンビニに入って行った。
「お、お前なあぁ」
敦も、昌也を追って入ると、康彦が入り口で呆然と立ち尽くしていた。誠二は、黙って康彦の横に行くと、
「今日は俺が奢るから、明日はお前の番な」
そう言って、店に入って行った。すると、康彦も笑顔を浮かべて後から附いてきた。そして四人はアイスを食べながら、駅に向かったのである。だが、誠二に起こる出来事で、康彦は助ける事が出来ない。それは、後ほど解る事です。
四人は、電車に乗り込んだ。学校帰りの夕方の電車内は、満員だった。特にこの日は、何故か多い気がした。タイミングとは、重なるものだ。
「今日は、ありがとう。明日、必ず奢るから……」
そう言って、電車を降りる康彦だった。その頃、誠二の腸内は、既に行動を起こしていたのである。腸の奥で、耳まで届かない、低い音が鳴り響いていたのである。そんな異変を、薄らと感じていた誠二だったが、殆ど気に留める事がなかった。そのまま二人と会話をしていたのだ。
「しかしさ、大樹の奴、大したもんだぜ。友理奈をものにするなんてよ」
「そうだよな。友理奈って、族に入っているからケバいイメージがあるけど、普通だと、結構、可愛いぜ」
「ああ、可愛いよ。そこらに居るアイドル並だぜ。なあ、誠二」
何気ない会話に、何気なく振ってきた敦の言葉だったが、大きな変化に、何も応え切れない誠二が吊り革を強く握ったまま立っていた。汗ばんだ掌。遠くの方で鳴る雷の音の様に、お腹の奥から微かに響く低い音は、電車の車輪の音にかき消されてはいるが、張本人の耳には、いや、お腹には確実に響いている。
くうう、それどころじゃねえんだよ。腸が…… お腹が……
一点を集中して見ている誠二の姿に、呆気に取られている敦と昌也だった。
「誠二、どう#$%&*?@+」
頻りに話しかける敦の言葉など、全く耳に入らない誠二。頭の中で蠢く、もしかすると人間を辞めないといけなくなるかも、という感情に押しつぶされそうになっている誠二。
よく、こんな時に、呑気に話が出来るな…… くう…… お腹が痛い……
「#$%&*+?¥/#$&%$なしかけているのが、わかんないのかよ」
漸く、腹痛が治まった誠二だった。大きな溜息を吐いて、完全に安どの笑みを浮かべる誠二だったが、それは、ほんの一時の休息に過ぎなかったのだ。隣に居た二人は、いきなりの誠二の態度に憤りを感じていた。
「お前な、人が話しかけているのに、知らん顔はないんじゃねえ」
「ああ、ごめん、ごめん。意味は無いんだよ。本当に良いよなあいつ等。ハハハ…… 大樹と友理奈の話だろ……」
そう言っていると、再び、悪魔の腹痛が誠二を襲う。そんな事を他所に、昌也が話しかける。
「おお、そうそう。あいつ等、&%$##%$&‘*+?¥/¥*+&#$@」
誠二の手に、再び汗が滲む。心は地獄の窯の中だ。
また…… 来やがった。誰か…… たす…… いいや、誰にも言えねえ……
そうだ、もしも敦達にこの事がバレてしまったら、どんな目に遭わされるか解った物じゃない。ふざけ半分にお腹を押さえられでもしたら、誠二のズボンの中は…… 考えただけでも、背中が凍りついてしまう。唯でさえ、背中がゾクゾクして、自分が青ざめていくのが解るほどなのだ。
「ハハハ…… そうだ%$#&*+¥/|¥」
敦と昌也は、何も知らずに隣で笑っている。それを見ることも出来ずに、誠二は腹痛と戦っている。
なんで俺だけなんだよ。昨日の…… 焼肉の後の…… アイスかな…… それとも、さっきの……
色々と原因を探る誠二だったが、後悔しても後の祭りである。
額に冷や汗が滲む。体内では、血の気が引くのが伝わってくる。逃げ場が無い電車の中。満員の為に、動く事すら出来ない。まさに地獄の箱の中だった。普段の様に少ない乗客の中だったら、靴紐を結ぶ振りをしながら、しゃがんでお尻を抑えることも出来たのだが…… 。
そこへ、再び、敦が話しかけてくる。
「ところでさ、明日#$%&*+¥@?&%・|?」
昌也と笑いながら話しかける敦だったが、何を言っているのか、全く言葉が耳に入ってこない誠二だった。
こいつ等…… 人の気も知らないで……
その時、腹痛が止んだ。そのタイミングで敦が話しかけてくる。
「なあ、明日。いいだろ?」
我に返った誠二だが、その前の経緯が全く分からない為に、どう返事をしてよいか解らないまま答えていた。
「ああ、明日ね。おお、いいよ」
「流石、誠二だな。よし、決まりだ。ハハハ……」
敦と昌也が笑っていたが、なぜ笑うのかが解らないまま、誠二も攣られて笑っていたのだ。そして、第三波目が、誠二のお腹を襲ってきた。これには、今までの誠二も経験の無いほどの痛みだ。
くう、又、来やがった。今度は、普通と違うな…… ケツの括約筋が…… 限界だぜ……
誠二の奮闘中に、昌也が電車を降りようとした。その時、昌也の手が、誠二のお尻を叩く。
「じゃあな、明日頼んだぜ」
「ふううっ」
誠二の異様な声に、昌也をはじめ、敦や周りの乗客も、誠二を見ている。真っ赤になった誠二を見た敦は、
「お、お前、何今の…… ククク…… 恥ずかしい……」
そう言って、下を向いたまま肩を揺らしている。昌也も誠二を見ながら笑うと、そのまま電車を降りて行った。だが、尋常じゃない状態なのは誠二の方だった。昌也の一撃で、間一髪だったのである。
いい加減にしろよ…… 昌也の奴め…… 明日がどうのと言っていたが…… そんな物…… くうう…… 何でもあげるから助けて昌也……
色々と考えている誠二に、電車の揺れも襲う。完全に追い込まれている誠二だったのである。そんな事とは知らない敦は、
「おいっ、誠二。そろ&%$#+*@¥¥/&%¥*+#$」
誠二の真っ赤になった顔を見て笑っている敦は、とにかく、話しかけるばかりだった。だが、真っ赤な顔は、さっきの事が原因ではない。出口まで来ている大便のせいだったのである。敦は、もう直ぐ駅に到着する事を告げていたのだが、時間が麻痺している誠二は、普段は15分で着くところが、その倍以上に思えていた。全く、どこを走っているのかさえ解らない誠二だったのだ。
くう、長い…… 電車に居る時間が…… いつもの数倍に思えるよ…… 早く降りて…… ト、トイレに…… 行きたいよ……
その時、誠二の想いがやっと通じたかの様に、電車の扉が開くと、周りの乗客を押し退けて、お尻を抑える誠二が電車から飛び降りて行った。
「お、おいっ…… なに慌てているんだあいつは……」
呆れ顔で見ている敦だったが、そんな事等お構い無しの誠二は、一目散にトイレに駆け込んだのである。
「ああ、間一髪うぅっ! 電車の中ではどうなるかと、冷や冷やだったぜ」
小声で呟く誠二だった。だが、駅の外では、誠二を探す敦の姿があった。暫くすると、敦の背後から誠二が姿を現した。
「ごめんな、ちょっとトイレに行っていたんだ」
「トイレだって…… 探していたんだぜ、全く……」
二人はそう言いながら、家路へと向かった。そして別れ際に、敦が言い放った。
「それじゃ、明日の事、頼んだぜ」
「何がだよ」
何の事を言われているのか解らない誠二がそう言うと、
「電車の中で、約束しただろう」
「約束……」
「そうさ。明日の帰りに、四人にアイスを奢るって。忘れんなよ。それじゃ…… 明日な」
そう、誠二の頭の中で#$%&*¥/行進曲が流れている時に、昌也と敦が確かに言っていた。誠二は、テープを巻き戻す様に、その時の会話を思い出していた。昌也の口の動きを思い出していたのである。
「ところでさ、明日、みんなにアイス奢ってくれない。今日使っちゃったから、俺達みんな金欠病なんだ」
「なあ、明日。いいだろう」
「ああ、明日ね。おお、いいよ」
昌也のスローモーションの動きが、誠二の頭の中でリピートされていた。
確かに言っていた。あの、電車の中で……。
誠二の頭の中のタイムマシンには、薄らだったが、その記憶が残っていたのである。