少女が空から降ってきた!
彼女には足がなかった。
クソ暑い今日、ただでさえ汗が滂沱に流れて水分が足りていないというのに、僕は朝っぱらから泣きそうになっていた。
「え、ごめん、何!? びっくりさせちゃった!?」
目の前で困ったようにキョロキョロする少女。細身の背丈、真白の肌、桃色の唇、さらりと長い栗色の髪、くりっとした茶褐色の眼。一輪の綺麗な花を差した麦藁帽子を頭に被り、真っ白なワンピースを着て、一見は夏に浮かれた可愛い乙女にしか見えない。
――けれど、彼女には足がなかった。何度見ても、やっぱりなかった。
「見えてる? 見えてるよね? 私の声、聞こえてる?」
返事ができない。喉が上手く開かない。何か声を発しようとは思うのだが、嗚咽にしかなりそうになかった。
黙って頷くと、彼女は恥ずかしそうに頬を掻いた。
「見ての通り、私って幽霊みたい。成仏しようと思ったんだけど、やっぱり素敵な場所で逝きたいなって思って。このひまわり畑までふわふわ移動してきたら、……君が居たの」
恥ずかしそうに頬を染めながら、彼女は話し続ける。僕が返事をしないから、話の行き場を見つけられない様子だった。だからこそ、何か答えてやらなければいけないのだろうと思うのだが、両足が情けなく震えていて、微笑もうとした頬も変に硬直している。
「そしたら急に、最後に下界で誰かと話したい、まだ成仏したくない……って思って。そしたら君が、私に気付いたの。……奇跡だよ、すっごく嬉しい! もしかして、神様が許してくれたのかもね。私の、最後のワガママ」
彼女は言い終えてすっきりしたように微笑むと、さっと左手を差し出した。その手は透けることもなく、生身の人間と変わらない肌色をしている。
「――君の名前は?」
その手を見ていた顔を上げた。彼女と直接眼が会い、少しドキッとしてしまう。
「……あ」絞り出した声は、情けなく小さかった。「相沢、竜太……だけど……?」
不審に思いながら言うと、彼女はカラッとした笑みを浮かべた。
「竜太君?」
彼女は僕の手を無理やりに掴むと、ぶんぶんと握手するように大きく振った。
それから、どこか寂しそうに眉を寄せると、口元を歪ませる。
「私の名前は――って言いたいところだけど、残念。生前の記憶ないんだよね」
「……何も覚えてないの?」
「うん。……もしかして、私と知り合いだった?」
「違うよ」
半ば反射的に返すと、彼女は一瞬不快そうに眉を跳ね上げ、それからすぐに柔らかい笑みを浮かべた。
「そう。ま、いっか」
即答したのは失礼だったか、と僕が心中で焦っているのには全く気付いていない様子で、彼女は微笑んでいる。
そして彼女は、何の未練もなさそうに僕の手を離した。
「せっかくだからさ、このままお話しない? 五分くらいでいいから」
「……もちろん」今度はもっとましに笑えたような気がする。「死後の世界についても聞かせてよ」
「私がわかる範囲でよければ是非!」
離された手に、人肌の熱は残らなかった。けど、内側からじんわりと熱が広がって、暖かいと思った。
*
「ふふふ、竜太君面白ーい!」
「そう? 君の話の方が面白いけどね」
「うわー余裕ぶっこいて。最初私がどーん! と現れたとき、びびって泣きそうになってたの誰でしたっけー?」
「そりゃね。空から足のない女の子が落ちてくるなんて、誰が想像できるもんか」
「確かに……って、きゃ!」
彼女は突然膝に手を置いた。――いや、ワンピースを抑えたのか。
「空から、ってことは……」
見えた? と彼女の目が問うてくる。
見えたも何も、びっくりしすぎて反応できなかったのだが、ここはあえて笑っておく。下品そうにクククと笑うと、後頭部に拳骨が飛んできた。
「サイッテー!」
「死んでから羞恥心なんて気にしてどーするの」
「天国でまだまだエンジョイしますから! 乙女捨てたわけじゃないんだからねっ!」
「ははははは、ていうか、乙女なら恥ずかしそうに身捩ったりするんじゃないの?」
冗談交じりでそう言うと、彼女はきょとんとし、それから勝気な笑みを浮かべた。
「私には似合わないでしょう」
「それ断言する事じゃないよね。しかも格好良く」
「だって事実だもーん」
彼女は声を出して笑い、そして無意味に僕の後頭部を小突いた。甘い痛みが伝わり、釣られて笑ってしまう。
「何でもやってみなきゃわかんないよ」
「でも事実は事実なのー」
「結構似合ってたけどな、潮らしいの。もう一回見てみたいなー」
急に強い視線を感じた。振り返ると、彼女の両眼が僕を射抜いていた。僕の、ツッコミ待ちの腑抜けた笑みが宙ぶらりんになって、どうすればいいのか迷ってしまう。とりあえず気の抜けた笑みをそのままにして硬直していた。だけど、彼女は何かを訴えるように僕を見ているだけだった。
どうして急に雰囲気が凍りついたのか、僕には到底わからなかった。
そうしていると、ぽろりと彼女の眼から水玉が溢れ出てきた。それを途方もなく綺麗だと思った。
「何で泣いてるの」
「それはこっちのセリフよ」
「え?」
「りゅーちゃんこそ、何で泣いてるの」
僕は宙ぶらりんだった笑顔を消して、自分の頬を乱暴に拭った。嫌に熱を持った透明な液体が、僕の手の甲を滑り落ちて、ぽたりと地面に落下した。
そうして僕らは、お互い気の済むまで、泣いた。
僕には彼女が泣いている訳がわからなかったし、彼女にも僕が泣いている訳がわからなかっただろう。
泣き止む頃には、太陽は僕らの真上を過ぎて傾こうとしていた。
*
「ねぇ」
「なぁに?」
「絵を描いてもいいかな」
「絵?」
彼女が泣き腫らした眼で僕を見てくる。僕は黙って頷いて、家の方角を親指で示した。
「画用紙とか絵の具とか、持ってくるから。ちょっと待っててくれる?」
泣いていたのが恥ずかしくなって、頬を掻きながら問う。
「……いいよ」
彼女は桃色の唇で美しい半弧を描くと、力強く頷いた。僕は不安な気持ちを押し殺すようにして、踵を返し、家まで走った。彼女がこの間に成仏してしまわないか、気が気でなかった。太陽の直射日光と突然の運動に身体は悲鳴を上げたが、心の泣き叫ぶ声の方が痛かったから、僕は走り続けた。家に着いて画材道具を引っつかみ、また駆けて行く僕を、母親が不思議そうに見つめていた。けれど僕は走った。メロスの如く、ただ走り抜けた。
ひまわり畑を突っ切って、ちょっとしたスペースに抜ける。
全力で往復したせいか、思ったより疲れて、息が上手くできなかった。それでも眼を凝らして辺りを見ると、先ほどと変わらない位置で彼女が笑っていた。
「ちょっと、私より君のが死んでそうな顔してるんじゃない」
笑い返そうとしたが、出たのは情けなさ過ぎる咳だけだった。
「そんなに焦らなくたっていいじゃない」
「君が成仏したら、描けないから」
「それくらい待ってるわよ」
「うん」短く返事をした。「じゃあ、描いてもいい?」
「何度も聞かなくたって、私の答えは一つよ」
余りの緊張に、腕が震えた。ちらちらと遠慮がちに彼女と絵を見比べながら、大胆に肌色を塗りたくっていく。
ムラのないように、白が残らないように、と細心の注意を払って描く。誰が見ても彼女だと思うように、僕が彼女の姿を一生忘れないように、彼女自身を絵に写し取る。白黒で描かれた彼女に色を授けるたび、心臓が飛び出そうになった。震える手指が大きな邪魔者だった。フルフルと震える手で彼女を描くと、同じくフルフルと震えた絵になりそうで怖かった。息を詰めて、緊張で我に返る前に一部分を描く。
僕はピカソだ。僕はレオナルドだ。僕はフェルメールだ。僕は誰だ。僕は僕だ。今、この瞬間だけは、どんな巨匠よりも美しい絵を描ける。描かなければならない。この絵さえ描ければ、もう他に何もいらない。――全部投げ捨てろ。描ける。描けるはずだ。
瞳に落とそうとした筆を、僕は止めた。
この色ではない。じっくりと染み込ませた茶色を流し、絵の具に眼を馳せる。これでもない、あれでもない。焦る。いや、焦るな。僕は巨匠だ。いや巨匠なんて言葉じゃ片付けられない。今、この絵に魂を授ける――。
――長い長い、と彼女が三回目の文句を言った時だった。
「……出来た」
「! 本当?」
彼女が伸びをしながら駆けてきて、回り込んで絵を見ようとする。その際、長い髪が僕の肩に掛かった。またドキッとしてしまうが、彼女はそれには気付かずに、惹き込まれたように絵を見つめていた。
それから数秒後、彼女は首を捻った。
「どうして、眼の色が赤色なの?」
「――チェリーレッド。君の誕生日、三月五日の誕生色だよ」
「へぇ、物知りなのねぇ」
「色言葉があるんだ。現実主義、豊かな感性、情熱――それから、地に足のついた考えを持つしっかりした人」
彼女はそれを聞き、目を丸くした。みるみる頬が桃色に染まり、それから耐えられないようにぷっと吹き出した。
「ふふふ、ふふふ! 足がないのに、地に足のついた考えを持つ人、だって! 最高!」
「だろ? ふと思いついて。でも本当の色言葉だからね」
「最高ね。ちゃんと覚えておくわ。君のは?」
彼女は微笑みながら、首を傾げる。僕も笑いながら、スムーズに返した。
「七月十三日。不幸な人を見過ごせない慈悲深い人……が色言葉の紺青だね」
「その通りね」
彼女は声をあげて笑い、自分自身を指差した。
「私を助けてくれたもの。楽しかったわ、最後の一日」
過去形であることに僕は気付いた。
空を見上げると、もう月が昇ろうとしてきていた。そろそろ、暗くなってくるだろう。
「僕も楽しかったよ」
返答に迷いながら返すと、彼女は嬉しそうに肩を竦めた。それからもう一度絵に眼を落とし、それから深く甘い、どこか官能的な溜息を漏らした。
「素敵」
僕も同じように眼を落とした。
絵の中の彼女は、強い意志を抱いた赤眼で僕を射抜いてくる。何かを訴えようとしているようにも見えた。
「――感謝しなさいよ? きっと一生ないよ、幽霊と過ごす一日なんて」
「そだね」
そう返しながら、絵を見せびらかす。
「忘れないよう、ちゃんと持っておくから」
「天国まで持ってきてよ。君が死んだときでいいからさ」
「そんなにお気に入り?」
「だってその絵の私、すっごく美人だから」
「まさか」
僕は絵を反転させ、自分自身で見直した。
「君の方がずっと綺麗だよ。……ってこのセリフ、なんか歯が浮きそう」
「それ思った。……でもりゅーちゃん、眼が本当、綺麗に描けてる」
絵を指差して言われたが、僕は彼女の両眼に視線をやった。どこか憂いを帯びたその両眼は、若干濡れているようにも見えた。
絵の具がつかないようにして抱えながら、僕は彼女に向き直った。
「そろそろ成仏するの?」
「うん」
彼女は快い笑顔を放ち、それから空を見上げた。そしてくるりと振り返り、笑う。
「君色の空だよ、りゅーちゃん」
言われて見上げると、空は暗みを増し、紺青ぐらいの色になっていた。
彼女はまた大きく伸びをすると、少しだけ高く浮いた。
「今の色のうちに成仏したいから、もう行くね」
「……うん」
きゅうと心臓が痛む。それでも笑顔を向けて、僕は手を振った。
「さよなら、ありがとう」
他にもっと、もっと何か言いたい。何かあるはずだ。たくさん、たくさん。
それなのに、彼女はあっさりと微笑み、薄くなり始めた。
「私も凄く楽しかった。ありがとうね。……じゃ、また君が死んだら会おうね! それまでゆっくーり待ってるよ!」
明るい別れの言葉。
僕はそれを聞いて、咄嗟に両手を伸ばした。彼女がきょとんとした表情になる。それでも僕は、ますます高く浮かぼうとする彼女の手首を掴み、地面に引き摺り下ろした。そして、無我夢中で腕の中に閉じ込める。
「ちょっと、りゅーちゃ……!?」
成仏に高さは関係ないようで、僕の腕の中で彼女は薄くなっていく。
僕は消えていく彼女を一層強い力で抱きしめると、嗚咽を押し殺す為に唇を噛み締めた。尖がった歯が唇に突き刺さり、鉄くさい匂いが口内に溢れかえる。
「りゅーちゃん……?」
短く呼んでから、はてと彼女は自分の口元を抑えた。今更になって、自らの呼び方がおかしいことに気付いたのだろう。そのまま彼女を抱き締めていると、急に腰回りに衝動を感じた。突き飛ばされるだろうか、と足を踏ん張らせたが、彼女の意図は真逆で、彼女は僕の腕の中に一段深く飛び込んできた。
僕の胸板に顔をうずくめるようにして、彼女が何かを叫ぶ。
それが自分の名前だと気付いた僕は、腕に最大の力を込めながら呼び返した。
「……杏里」
妙に自分の声が明瞭に聞こえた、と思った瞬間、すかっと腕が交差した。そのまま前のめりになり、勢いを殺しきれずに地面に倒れこむ。それから慌てて上半身を起こしたが、彼女――杏里の姿はどこにもなかった。
僕はそれを確認した後、もう一度地面に身体を投げ出した。
そして、最大の心を尽くして、泣き喚いた。