春の目覚め 3
エロス控えめと言ったな、あれは嘘だ。
「いったい何が始まるんです?」「…ドMロリ調教だ」
覚悟を決めたとはいっても、やはりなんだかんだと気遅れはするもので、私は中を覗けるぐらいに扉が開くと、いったん力を入れるのをやめた。両開きの扉が、ぎいと音も立てずに半開きの状態で静止する。
非力な私には少々重すぎる青女宮の正面扉は、しかし芸術的なまでに精緻な建て付けのおかげで動きは滑らかこの上ない。組み木がレリーフのように合わさった複雑な形をしているのだけれど、木製だというのに小春日和でも夏の盛りでも極寒の吹雪でもきしんだりすき間風が入ったりということはなかった。寒暖のみならず乾湿の変化にも対応した設計ということであって、CADソフトウェアはおろか精密ノギスさえもなしにこれを作り上げた木工職人には感服を禁じえない。おかげで、私はリッテリットに気づかれることなく部屋の中を見られるのだから。
いくらか視力のいい左の翠眼をすき間に押し当てると、細長い四角形に切り取られた中の光景がかいま見えた。もともとは王も通うことのある応接室のようなものだったが、リッテリットと二人で好き勝手に改造した結果、今では威厳のかけらも感じられないくつろぎの空間になっている。シラカバの無垢板を削り出して作られたテーブルと白毛種のルールナ山羊の毛だけで織られたウールのソファーは、白一色で揃えられているものの、私の髪のような蒼ざめた輝きではなく、クリームのような暖かさが感じられる。広い採光窓から新緑の木漏れ日がゆらゆらと降り注いでいるのもじつに心地よさそうだった。
そして、それこそが違和感のもとである。少し覗いた限りでは、リッテリットの姿は見えなかった。こういうとき機嫌を損ねたリッテリットは、部屋の中をぐるぐるとうろつきまわっているのが常だ。部屋の隅から隅をめぐってせかせかと歩く様子は、なんだか動物園のクマが思い出されて少し滑稽だったけれど、そのクマの檻にあえて入らなければならないことに気づいて恐怖したことも忘れられない。しかし今はまるでそんな様子もなく、さらに言えばお茶の用意を命じていたのに、テーブルの上には何もないというのも不可解だ。
死角になっている方の角あたりにいるのかなと思い、私は右の扉をさらに押し開いて、おずおずと半身を部屋の中に踏みいれた。覗いた時には見えなかった部屋の左隅があらわになる。そちらの壁には北国ではおなじみのやたらと大きなマントルピースつきの暖炉が据え付けてあって、もちろんもう雪華北嶺の人間にとっては十分暖かいといえる日中には使われていないものの、まだ氷点下まで気温が下がる夜の間にくべられた薪の燃えがらがうずたかく山になっていた。しかし、やはりこちらにもリッテリットの姿は見当たらない。
「リッテリットぉ……」
私が小声でおそるおそる呼びかけ、もう一方の死角であった右側をふり向こうとした、まさにその時。内開きに開いた扉板の陰から何かが飛び出してきて、私に飛びかかってきた。
「ひゃあぁぁぁ!」
突然のことに情けない悲鳴をあげて硬直してしまった私は、その何者かになすすべもなく、うつぶせに押し倒されてしまった。続けて打ち広げられたドレスの袖を絡まれ、完全に組み伏せられてしまったことに気づくと、とたんに私の心を恐怖が塗りつぶしていく。
去来するのは一昨年の夏至のこと。リッテリットの大おじが亡くなり、葬式のためやむを得ず暇を出したことがあった。リッテリットは私ひとりを王城に残しての帰郷に難色を示したが、まさか尊属の葬式にゆえなく欠席などという不義理の汚名を着せるわけにもいかず、最終的には強権を発動してなんとか帰したのだ。
しかし、あるいは当然というべきか、弟派はその機に乗じて私の排除を画策した。白日のもとで堂々と行われたその計画はひとまず上手く運んだ。リッテリットの代わりに配された侍女は、一応は長子派である宮廷貴族の娘だったにもかかわらず、暴漢が私の寝所に忍び込むのも、私を抱えて連れ去るのも見て見ぬふりをしたからだ。彼らは何の苦もなく、暗幕を下ろして眠りこける私を杖で打ちすえ、のど首に手をかけることができた。しかし、あまりの好事に欲目がたたったか、それとももともと『慈悲深い』計画だったのかはわからないが、彼らは詰めを誤った。そのまま息の根を潰していれば面倒もなかったと思うのだが、彼らは抵抗する気力も失った私の手足を縛り猿ぐつわをかませ、かどわかすという愚挙に出たのだ。
結論から言えば、この判断が私と彼らの末路を入れ替えた。私を詰め込んで走り始めた犬牽きの車は、深夜になってもなお夏至祭に沸く町を尻目に王城の第8壁をくぐったまではよかったが、その直後にアークレーネの家紋を掲げた馬車と鉢合わせてしまった。そして、その雪華北嶺にわずか数台しかない馬車の乗員こそ、リッテリットそのひとであったのが運のツキだったのだ。
リッテリット自身の言葉を信ずるならば、『不穏な気配』を感じた彼女は白夜をいいことに、本来なら夜間は往来を許さない各地の門扉を夏至祭の陽気に乗じ家名を振りかざして押し通り、夜を徹して王城に引き返して来ていたということになる。リッテリットは自分の馬車で道をふさいでこちらの車の足止めにすると、手斧を手に有無を言わさず車内に押し入って、縛りあげられた私を見つけてしまった。おびえを浮かべた私の顔を見て怒りが抑えられなくなったとは彼女の言だが、はたしてその時私が誰におびえていたのかは黙した方がお互いのためだろう。
その後の惨劇は凄惨をきわめた。怒り狂うリッテリットは手斧を容赦なく振り下ろし、気圧されていたのだろう、下手人の若いほうのひとりは呆けたようにその直撃を受けてしまった。斧の刃は首筋に打ちこまれたが、リッテリットも年相応の膂力しか持たない少女のことで、手斧の重さを利用したその一撃でも即死には至らなかった。しかし、頸動脈と気道を半ばまで断ち切ったその傷は明らかに致命傷で、彼は脈打つように痙攣しながら喉を掻き毟り、鮮血をまき散らしてのたうちまわるはめになった。体感では数分、実際はものの十数秒後には、彼は苦悶に歪んだ表情で息絶えた。私の目はそのありさまに釘づけにされていたが、頭はろくに働いていなかった。私にはそれが人の死だとその時は理解できなかったのだ。
しかし、もう一人の男はリッテリットがもう一斬を彼の頭上に振りかざしているのに寸でのところで気づいた。彼は額を浅く割られながらも、なんとか手にした杖で斧の柄を受け、リッテリットの攻撃を防ぎきることに成功した。しかし、本来の力では勝るはずのその男でも、狭い車内ということが災いして手斧をはねのけるまでには至らず、膠着状態に陥ってしまった。結局、馬車から降りてきたアークレーネ家の使用人や御者たちがリッテリットを引き離し、男を取り押さえてその場を収めたのだが、その時には私は血の海となった車内で鉄さびた臭いに耐えられず、股から太ももに生暖かいものが滴るのを感じながら、意識を手放してしまっていたという。
顛末としてはそれだけの話で、真相も木端貴族の軽挙という落とし所に落ち着き、実行犯を供出した2家と侍女を出仕させた家の合計3家が処断されて手打ちとなったのだが、私の生涯の中で最大のピンチであったのは間違いない。リッテリットがその超越感覚で助けに来てくれなかったら、私は物言わぬ骸としてうち捨てられていただろう。
それ以来身辺にはよくよく気をつけていたのだが、政争に決着がついて私も気が緩んでいたらしい。敵が直接青女宮まで入りこんできたのがくだんの一件だけだったこともあって、私はすっかりここを安全地帯と思いこんでいたのだ。
だが、そんな思い込みをあざ笑うかのように、狼藉は私の身にふりかかってきた。刷りこまれた暴力への恐怖はいまだに拭えていない。焦燥が心を揺さぶり、すっかり動転した私は、助けを求めて叫ぶことすらできず、なんとか拘束から逃れようと必死にもがく。だがひ弱な私の腕の力だけではろくに動けもしない。無力感が私を打ちのめした。波うち、毛羽立ったカーペットに押しつけられた頬が痛痒くて、まなじりから涙があふれるのを止められない。
「……めさま。姫様!」
女性の声。耳慣れた、柔らかくて優しい、母猫のような声。
「リッテ……リット……?」
ふっと、私の背中にのしかかっていた重さが消えうせる。まだ混乱する私の視界いっぱいに肌色がにじんだ。ぼんやりとした輪郭が次第にはっきりとしてきて、細められた琥珀色の瞳も、桜草の花びらを張り付けたような唇も判別できるようになる。這いつくばった私の顔を覗き込んでいるせいで、房ごと垂れた亜麻色の髪がふれてすこしこそばゆい。
「またリッテリットが助けてくれたの?」
見当違いの私の言葉に、リッテリットはゆっくりと首を横にふった。
「いいえ、申し訳ありません、姫様。すこしお仕置きがすぎましたわ」
「えっ……?」
リッテリットは呆ける私にすこし鋭い視線を向けて言った。
「あれは私めのしわざにございます。しかし、姫様も。帰りの遅い姫様に万一のことがあればと気が気でなかった私の心中もお察しください。あの夏のことを忘れてしまわれたのですか。あの時私がどんなに恐ろしい思いをしたか。私が姫様を助けられたのは幸運の西風の精のきまぐれにしかすぎないのです。あとほんのわずか帰りが遅かったらもうどうなっていたかわからない。次にあんなことになったら、参じられるかもわからない。ましてお助けできるかどうかなんて。もし姫様が辛い思いをされたら。もし姫様が傷つけられたら。もし姫様を喪ってしまったら。どうか、どうかもう私に二度とあんな思いをさせないで」
最初は自責するような、静かな声音で。しかしリッテリットの口調はだんだんと湿りを帯びていき、最後はもう懇願するように泣きじゃくっていた。
「あっ……ごめん、ごめんなさい、リッテリット。私は、その……」
リッテリットは絶対によく思わないだろうその名を告げるのに私は逡巡し、それでも悲しげな顔をしたリッテリットの手前、呵責にたえられずに口を割った。
「……オーロス将軍と、たまたま、鉢合わせしてね。それで、戦の雲行きとか、聞いておかなきゃいけないこともあったから、だから」
「姫様がこの国のためになさっていることは存じ申し上げております。けれどフェルグナウト卿はいけません。あれが何度姫様に弓引いたか。せめてあれと会うときは必ず私を伴ってくださいませ」
「ん……うん……」
我ながら歯切れの悪い返答である。リッテリットを伴うということは、オーロスとの、すなわちフェルグナウト家と私との会話をアークレーネ家に聞かせることと同義だ。リッテリット自身はアークレーネ家中では異端と言っていいほど私になびいているが、だからといって実家とのつながりが切れたわけでもなく、手紙も頻繁にやり取りしている。政治的な立場上、看過できないぐらいの影響力があるわけで、私としても明言は避けたかった。
だが、当然ながら、怒りにふるえる我が侍従リッテリットがそんな答えに満足するはずもなく。
「どうやら姫様はまだまだ反省が足りないご様子……それもこれまで姫様への諫言を怠っていた私の不徳のいたすところにございますれば、全霊をかけてお勤めの本分をまっとうしてご覧にいれましょう」
言いきって立ち上がったリッテリットの目にはもう涙のあとすらない。寝所までぐいぐいと手をひいて連れて行き、私を天蓋つきの大きなベッドの中央に座らせると、リッテリットはかたわらのチェストの棚をひいて何やらごそごそと探しはじめた。私はひどく『不穏な気配』を感じてそろそろとベッドから逃げ出そうとしたが、ベッドの端から片足を下ろそうとしたまさにその瞬間、リッテリットがきっと振り向いた。
「姫様。よもや逃げようなどとお考えではありませんね?」
にっこりとした表情がひときわ怖い。美人ならではの凄みを感じて、私はすごすごともといたベッドの中央に戻った。もうこうなったらとにかくリッテリットの思うようにさせるしかないだろう。なんとか嵐が凪ぐまでこらえれば、まさか殺されはしないだろうと悲壮な決意を固め、待つことしばし。やあやってこちらを向いたリッテリットの両手には、恐るべき兇器の姿があった。
左手には二対の木枷。アーチ橋のような形の木片が二枚向かい合わせで蝶つがい留めされていて、閉じて錠をおろせば木板に空いた二つの穴が哀れな虜囚の手首や足首を捕らえる構造になっている。リッテリットは再び私をうつぶせに押さえつけると、私の右手首をつかんで右足首の隣に並べ、手早くまとめて木枷に拘束してしまった。同様に左の手首も左足首と並んで繋がれてしまう。そしてリッテリットがかんぬき状の錠をかけると、私はもう転がって動くこともできなくなってしまった。
両足を肩幅以上にわり広げられ、お尻をつき出すように持ち上げたみじめすぎる四つん這いの姿勢を強要され、私は恥ずかしさのあまりに歯の根も合わない。頬も熱いほどに上気して、きっと今の私の顔は真っ赤に染まっていることだろう。しかし、リッテリットはそんな私にさらなる羞恥をもよおす仕打ちを与えた。
ふと、お尻からぞわっとした寒気が背筋をかけのぼってくるのを感じる。拘束された私は自分の下半身に視線を向けることもできないが、下腹部にふれるひんやりとした空気が私に課せられた辱めを教えてくれた。フレアなワンピースドレスのすそをまくりあげられてしまったのだ。
雪華北嶺での女性の下着というものは、いわゆるファウンデーションの類であって、その役目は主にドレスのシルエットの見栄えをよくすること。私のちいさなお尻やまだ幼いわれめをリッテリットの視線から守ってはくれない。徒労にすぎないどころかかえって逆効果だとわかってはいたが、私はなんとかしてそれらを隠しおおせようと躍起になってお尻をふった。そしてそれは、案の定、リッテリットの嗜虐心を煽ることにしかならなかったのだ。
「ひゃう!」
突如として感じるむわっとした温かさに、私はまたしても悲鳴をあげるのをこらえられなかった。はぁーっという人の体温をそのまま伝える吐息は私の皮一枚をなでるように流れ、直後に肌寒いほどの冷気が素肌をちくちくと突き刺しに来る。交互に私を責めたてる温度差はむずむずした什痒感を呼び起こし、それなのにもぞもぞとうごめくことしかできずにもどかしい思いでたまらなくなる。二度、三度とそうやって焦らされ、いっそ直にさわってと私が懇願に屈しようとした、限界のぎりぎり一歩手前で、それは放たれた。
「ぎひぃ!」
そんな甘っちょろい思いが脳裏から残らず流れ出してしまうほどの鋭い熱。たまらずこぼれたこれまでとは質の違う悲鳴に、私は戸惑いを隠せない。つい先程までの掻痒など比較にもならない強烈な感覚が、私からすっかり思考力を奪ってしまったのだ。何度も何度も走る熱感が筋状から網状に膨れあがり、やがてじんわりと持続するようになって、ようやく私はそれが痛みだと気づいた。と、同時にリッテリットの右手にあった兇器を思い出す。どうして今までそれを意識の外に置いていられたのかわからないほどの存在感を持っていたはずのそれは、カンバの枝の束ねられた笞だった。その笞が今私のむきだしのお尻に何度も何度も襲いかかっているのだ。
そう思い至ると、もう私はなりふりも構っていられなくなった。
「もうやめてぇ……うぎゅっ! 痛いよぉ……許して、ゆるしてリッテリット……」
人聞きもはばからずに泣きわめき、リッテリットに許しを請い叫ぶ。まぶたの堰を切って氾濫する塩水が柔らかな毛布を濡らす。手首足首が枷にこすれて軋むのも構わず、残された微力を振り絞って這い逃れようとする。そして、そのどれもが無言で振り下ろされる無慈悲な笞の激痛の前に泡と消えていった。
まったくリッテリットは、本職の拷問吏も舌を巻くほどの天性のサディズムを秘めていたのだろう。それが彼女自身の自覚する才能かはわからないが、とかく、リッテリットは私の心を折ることが上手だった。まず、ときおり彼女は私の哀願に応えたかのように私を打つ手を休めた。そして、私がやっと許してもらえたという甘い願望をいだき、食いしばった歯をゆるめ、安堵のため息をついたちょうどその油断を狙って、ひときわ強烈な一撃をくれるのだ。緊張が抜けたばかりの私の身体も意識もとうていそんな緩急に対処できず、実際に神経が受容した痛覚の何十倍もの苦痛を味わわさせられた。それでも、リッテリットは笞打ちをはじめてからひとことたりとも口にしないし、私からはリッテリットがどんな表情をしているかまったく見えないから、リッテリットの手が止まることは私にとってこの地獄から脱する唯一の希望である。だから私は、それがリッテリットの用意したえげつない罠の餌だとわかってはいても、何度も手を伸ばしてはそのたびに手ひどく打ちのめされるということを繰り返した。
私はいつ果てるともないリッテリットの体罰というしつけの中で、次第に無力感を獲得していった。泣いてもわめいても、それどころか本当に改心したとしてさえこの境遇から解放されることはないという諦観が私を支配すると、私はもう被虐の奴隷に堕ちていくことすら恐ろしいとは思えなくなってしまった。打たれすぎておかしくなってしまった痛点は断続的に与えられる刺激を甘いご褒美と勘違いしはじめる。そしてついにいかなる化学変化が生じたのか、お尻を焼く打擲の熱は私の未成熟な身体の中で発酵し、よどんだ蜜となってあふれ滴っていた。
しとどに濡れたブランケットのしみこそが、私が私として初めて迎えた春の目覚めの確たる証拠であり、また自身の性向の異常性の表れのひとつでもあったと、耳年増な私が自覚して赤面するのは、またすこし後の話である。
リッテリットさん大暴走の巻。
ペルちゃんがラストでだれうまってセルフどや顔してますが、サブタイトルと深い係わりはありません。スルーしてあげてください。ペルちゃんはマゾなのでたいへん悦びます。