春の目覚め 2
『新生エルゼ帝国、あるいは彼ら自身の呼び方に倣えば、エト=エルゼ・インペラドゥーム。東はエトバルクルートから西はクエンティウムまで、アークティア大陸とローレンシア半大陸の両大陸にまたがる広大な領土を有する、当世随一の超大国である。彼らは今からおよそ1000年前に繁栄を極めた古代の大帝国エルゼの正統な後継を自称し、帝都エルゼルートの奪還を国是に掲げ、新生エルゼが旗を揚げた中央アークティアの広大な草原から東へ東へと突き進んでいった。大国を蹴散らし小国を踏みにじり、ほんの数代の皇帝によって新生エルゼの版図は今の形にまで成長を遂げた。
連戦連勝でローレンシア半大陸の半ばまでを瞬く間に制圧した新生エルゼは、しかし、帝都エルゼルートを目前に初めての停滞を余儀なくされた。彼らの行く手を阻んだのは、皮肉にもエルゼ帝国の遺産たる古の防壁、グランドゥールの長壁であった。新生エルゼの国民は、エルゼ帝国が本領の境界として置いた壁の外側で、エルゼ的な生活様式に耽溺していったのである。』
「だーめだこりゃ……はぁ」
歴史書としてはどうにも感傷的で、そのくせ文体によくよく気を使っているでもない、いまいち不出来な本を閉じて、私は深くため息をついた。エト=エルゼ帝国についての記述がある母国語の本は残念ながらこれ一冊きりだ。ここ数日じめじめした薄暗い地下の書庫に通いつめてようやく見つけたにもかかわらず、たったこれだけの記述しか見あたらなかった。もちろんエルゼ語で書かれたものならば腐るほどもあるのだろうが、私はエルゼ語に不自由だし、そもそも白銀八重城の書庫の蔵書にはない。外国書の類はおおよそがエクスシアナプールに留め置かれていたので、嶺外領がエト=エルゼの手に落ちた今では閲覧は望むべくもない。
結局、私の求める情報の所在はようとして知れなかった。エト=エルゼがなぜ雪華北嶺を征服しようとするのか。そして、エト=エルゼの軍はどのように戦うのか。まさか書物に答えがそのもの載っているとも思ってはいなかったけれど、手掛かりの一歩ぐらいはと期待していたのだが。
「お探し物はもうよろしいのですか、姫様? でしたらお茶などはいかがでしょうか」
私の意識が本からそれたと見るや、リッテリットが声をかけてきた。根を詰めるというほど熱中していたわけでもないが、リッテリットを除け者にしていた自覚はあるので、素直にうなずいておく。空振りに終わった失望感を慰めるにもお茶とお菓子は有意義だ。
「いただくわ。リッテリットは先に行って用意をしておいて。片づけたらすぐに戻るから」
「またそのような……姫様が手ずからなさることはありませんのに」
「身体を動かすのは思索の友にうってつけなのよ、リッテリット。いい考えというのはたいてい雑事に身を任せているときに生まれるものだわ」
「ですが……」
「ひとりでできるわよ。もう9歳になったんだから、心配いらない」
「……では、お先に失礼させていただきます、姫様」
不承不承といった様子で一礼し、リッテリットは古かびたにおいのする書庫から出ていった。あれでは久々になにかしら粗相でもやらかすかなと心配になってくる。例えば、お茶が渋すぎるだとか、手を滑らせてカップを落とすだとか、前例があるだけに杞憂とも言えない。リッテリットはあれで意外と癇癪持ちな一面があるのだ。
私はもう一度嘆息すると、重たい史書の本を抱えて空き棚に向かった。
突然のエト=エルゼの侵攻から一ヶ月あまりが過ぎたが、私の周囲は表面上穏やかさを保っていた。本格的に暖かくなり始め、といってもようやく日中の最高気温が10℃に届く程度だが、早咲きの花も咲き始めたのも手伝ってか、王城の空気はどことなくのどかだ。もともと宮中の官吏や女官は戦とは縁遠い存在だし、城下の市井の人々にとっても北嶺山脈などははるかに遠く感じられるものだ。実感できる違いはというと舶来品が入ってこなくなったぐらいのことで、それにしたって普段使いのものでもなし、外国産の食べものぐらいがせいぜいだ。リッテリットはお茶といったが、茶葉はもう手に入るあてが無いもののひとつで、だから今日の「お茶」というのはたぶんキュプリかリンデンあたりのハーブティーだろう。
そんなのんきな雪華北嶺の民の態度の裏には、北嶺山脈以北が我らが領土という根強い意識がある。エクスシアナプールを含めた嶺外領は、飛び地というか、地続きなのだから少々の語弊はあるが、いわゆる海外領土といった印象はぬぐえない。嶺外領が雪華北嶺の版図に組み入れられたのはつい先代の王の御世のことだし、住民も外国人や外国系人の割合がかなり高い。それだからか、嶺外領が陥落したというだけでは侵略を受けたという実感に乏しく、おまけに、エト=エルゼの軍が未だもって北嶺山脈の守りの要衝たる氷渓関の砦を抜けずにいるというのも、彼らに楽観を抱かせる材料になっている。
もちろんそうではない者たちもいる。軍人たちや国政を預かる宰相以下の首脳などは皆そろって厳しい情勢に頭を悩ませていて、風華の宮では連日侃々諤々の会議が踊っているそうだ。なにか考え込んでいるかのようないかめしい表情で階段を下りてくるオーロスはその最右翼とも言える人物だ。ここのところは王城であまり見かけなかったもので、てっきり戦地に向かったものとばかり思っていたのだが、意外にもまだ居残っていたらしい。
「こんなところで奇遇ね、オーロス卿」
私が声をかけると、オーロスははっと顔をあげ、慌てた様子でひざを折り、仰々しい臣下の礼をとってきた。公式の場以外で彼から正式の礼を受けるなど初めてのことで、私はかえって面食らってしまった。
「これは、王女殿下。お姿に気づかず大変な失礼をいたしました」
「いいわ。貴方にそんな態度をされたら、かえって鳥肌がたつもの」
「いえ、しかし、王女殿下……」
確かに、目上の者に先に声をかけさせるのは相当な失礼にあたるが、去年までは私相手の礼儀など歯牙にもかけなかったくせにと思わずにはいられない。歯切れの悪いオーロスの態度にいらついた私は、彼を見下ろす目をすがめ、口角をつりあげ、意地悪そうににやりと笑って言い放った。
「くどい。今さら取り繕っても遅いのよ。去年までそうしていたようにすればいいじゃない」
「ううむ…………」
私が言外にこめた厳しい非難に、オーロスはますます恐縮し、黙りこくってしまった。四十がらみの大の大人がたった九つの私の前にひざまずく姿はなかなか哀愁をさそうものだ。散々私を疎んじてきたツケであり、まさしく自業自得、いい気味だと思わなくもないが、これでは話が進まない。私は表情をゆるめて、いかにも寛大そうな口ぶりで、彼の深憂をはらってやることにした。
「まあ、それで貴方の軍権をどうこうしようなんて思っていないから安心なさい。だいたい、こんな情勢で貴方の首をすげ替える余裕も、替える人材もいやしないんだから。だからとっとと顔上げて、立ちなさい。聞きたいことがあるのよ」
もとより、オーロスを中軍大将に留任させたのは国王陛下そのひとに他ならないのだから、しょせんはいち王女にすぎない私に彼の去就をどうこうすることなどできはしない。要は脅しの空手形であって、聞き様によってはこれもまた意地の悪い言い方なのだが、オーロスはとりあえず安心した様子で私の言葉に従って立ち上がった。膝立ちになってようやく見下ろせる位置にあったオーロスの顔が、たちまち見上げるほどの高さに変わる。
「では、僭越ながら。何をお話すればよろしいので?」
「おとぎ話でも語って聞かせてって言ったら貴方は笑うのかしらね……まあ、戦よ戦。中軍を任せられた貴方がまだ王城にいるのはなぜかしら? 氷渓関には敵軍が嵐のように攻めよせて来ていると聞いたわよ」
「笑いなどしませんが、こたびの戦、どうもきな臭いにおいがしましてな」
「……きな臭い」
「攻めよせて来てはおりますが、大軍で寄りきるにしては敵の勢いが弱い。あれを嵐といっては雨風の精が笑いましょう。秋の長雨がせいぜいといったところですな」
オーロスは鼻で笑ったが、その目はまるで笑っていない。軍官の中にもこの弱勢をして敵を見くびる輩がいると聞いたが、さすがに歴戦の賢将は意識の持ちようが違うとみえる。
「確かに氷渓関は天然の要害、細く険阻な山道を通らねばならぬゆえ、大軍と言えどもいちどきに注ぎこめる兵力は限られております。しかし、砦の守兵はわずかに4000。急ぎハローロ将軍を大将とする先手の兵5000を送りましたが、それでも1万に届かぬ小勢。一週間もすれば綻びがでるものと思っておりました」
「うちじゃあ砦に拠る1万を小勢とはとても言えないけどね。あっちは10万からの軍、さすがに桁が違うか。世知辛いわね」
「しかし、ひと月たっても綻びどころか戦死者すら百に満たぬとのこと。おまけに砦攻めだというのに投石機も破城槌も見たものがおりません。これはなにかあるなと感じたので、迂闊に動けずにいるのです」
なるほど、理屈だと私も思った。前線に出張ればその戦域はよく見えるようになっても、全体を俯瞰することは難しくなる。戦力に余裕のない雪華北嶺の軍を率いる身であれば、後の先を取るのが基本則になる以上、王城で報告を待ち、見に徹するというオーロスの判断は正しい。これはもとより自明だ。
「なるほど。でも、解せないわね」
だから、私が感じた違和感というのはそのことではない。
「なんでエト=エルゼが裏を構える必要があるの。あれだけ戦力に差があれば力攻めで十分でしょうに」
「さて、見当もつきませんが、まあ、攻城兵器を使わないのではなく使えないのではないかというのがひとつの予想ではあります」
「いくら山道が細いったって一台二台も入らないってことはないでしょ。氷渓関にだって重弩は据え付けてあるわけだし」
「エト=エルゼは平原の国です。投石機ひとつをとってもわが国のそれより大がかりでも驚くには価しませんな」
確かに、国土の多くを山林が占め、積雪があるのが常の雪華北嶺では、攻城兵器も小さく軽くが身上となっている。威力や射程はまさっても、いざという時運べなかったり雪原に沈んでしまうようではものの役に立たないからだ。その点、平地ばかりのエト=エルゼならば、築城も平易で城壁は厚いだろうし、威力に腐心するようになってもおかしくない。となれば、大型化した攻城兵器が険しい山岳の隘路を越せないというのもうなずける話だ。
「でも、それだけでああも足止めに甘んじるものなの? ないなら作ればいいだけよ。まさか、それだけの余裕もないはずはないわ」
「兵は隼たるべしと言いますからな。しかし動かぬとあれば、なんぞ企みがあると見ていい」
私に馴染みのある言いまわしならば、兵は神速を尊ぶといったところだろうか。こういう物事の重大な基幹というのは、いつどこでも変わらないものだ。もしエト=エルゼの総大将がそういう基本的な道理すらわきまえていないとすれば気楽なものだが、むやみに敵をあなどるのはよくない傾向だ。オーロスの言うとおり、彼らの腹には何かしら思惑があると考えた方がいいだろう。
「たくらみ、ねぇ……」
私は、指を一本一本たてながら、思いつくままにその「たくらみ」を並べ立てた。
「迂回」
「氷渓関を迂回する枝道はないはずです」
「包囲」
「補給が途切れぬ砦を包囲とは片腹痛い。いざ攻め手が弱腰とみれば勢いづくのが守兵というものです」
「補給路を断つなら迂回するのと一緒か。なら封鎖」
「嶺内の上がりだけでも国民の食いぶちは十全に賄えましょうが」
「物資はそうでも、人の移動が断たれたのは痛いかな。情報が手に入らなくなることに等しいんだから、長期化すると厄介よね」
オーロスはいかにもちくちく刺さりそうな不精のあご髭に手をやって、考え込むそぶりを見せた。
「ふむ。海路も、結局は北嶺の内外を結ぶものですからな。しかし、あれだけの大軍勢を用いてやることでもありますまい」
やはりオーロスでさえ情報の重要性を過小評価していると思うと、私は内心落胆を禁じえなかった。ときには10万の兵より助けになるのが情報というものなのだが、それを軽んじて戦場の泥をなめた将がいかに多かったことか。情報の即時性のないこの時代ではそういう傾向が強いが、私からすれば、即時性がないからこそなおさら貴重なのだと思う。
「そうね。それだけじゃ割に合わないかもしれないけど、別の狙い……例えば」
私も軽く握ったこぶしを口にあて、つと考えをめぐらす。たとえば私が、あの軍勢を率いて雪華北嶺を攻めるとしたらどうするだろうか。単純な力攻めより効果的でドラマチックな、そんな横着な手法があるとすれば。
「大軍で威圧して、降伏を迫るってのも常道ではあるわよね」
だが、そんな私の素人考えをオーロスは苦笑いして否定した。
「寡聞にして話し合いがもたれたと聞いたことはありませんが。降伏を迫るどころか、こちらからの使者すら拒絶しているありさまだと」
となると、エト=エルゼはあくまで軍事的勝利を求めているということになる。だが、困ったことにそのわけがとんと思いつかない。これまで雪華北嶺の外についてまるで知ろうとしなかったことが悔やまれる。そのつもりがなかったわけではないが、身近の争いに精一杯でとても手を出す余裕がなかったのだ。
私はふと自分の手のひらを見て、往年の苦労を思い出した。身を守るのも地位を守るのも自分ひとりでやるしかなかったあの頃。あげくには弟派の切り崩しまで、こんな小さな手でよくもやりおおせたものだと思う。だが、それでもなお足りなかったと思うと、わが身にふりかかる苦難の重さを呪わずにはいられない。
「あーもうわかんない。なーんにもわかんない。私ってこんなに馬鹿だったのかしらねぇ……どおりでみんな見限るわけだ?」
「お戯れをおっしゃる。将の中にさえ、王女殿下ほどにものごとをよくよく見ているものなどそうはおりません。まして王女殿下のお歳を考えれば、とても私などの及ぶところでは……」
おせじを言うには苦すぎる表情で、オーロスは言った。なるほど、これがオーロスの偽らざる心中なのかと私には思われた。
オーロスは雪華北嶺で一番の将帥の器と称されるほどの偉丈夫だ。私もあえてそれに異を唱えようとは思わない。むしろ、国外を含めてさえなお数指に入る名将だと考えているほどだ。この時代に兵站や外交軍事をわきまえ、かつ戦場で兵を率いて戦える人物など希有どころの騒ぎではない。平時と思えばこそ、なんとかして中軍大将の地位を追わねば私の身が危ういと考えたものだが、その一方でその将才を惜しくも感じていた。
よくよく思い返してみれば、私を軽視していたオーロスの派閥だが、彼自身が私の能力に難癖をつけた覚えはない。確かに王族とも思わぬ態度であったし、そういう意味で軽んじてはいたのだが、私の廃嫡を強硬に唱えるものの態度としてはらしくないと感じることもあった。しかしその根底にあったのが私への畏怖だとすれば、それも納得がいく。彼が今私を見る目には、まさにそんな、人ならざる異形を見るかのような、曰く形容しがたい恐怖が潜んでいる。
しかし、それもむべなるかな。軍略について一国の首将と互角に議論を交わすわずか9歳の少女というのは、早熟だとか神童だとかいう言葉では計れないそら恐ろしさというのが感じられることだろう。もっと子供らしくできたらと自省するところではあるが、これに関してはもはや手遅れだ。三つ四つの時分から積み重ねてきた評価を打ち崩すのは並大抵のことではない。
逆に言えば内面の成長が無いともとれるわけで、二十すぎればただの人と巷でよくいうように落ち着くかもしれないのだが、9歳児にとってのあと10年は来し方よりもなお長い。それまで廃されぬようにというのが私のこれまでの方針だったのだが、今となってはその10年後に雪華北嶺が存在しているかさえ定かではなくなってしまった。いわんや私の命運をや、である。
「そうかしらね。頭の良し悪しってそういうこととも違うと思うわ……今となってはね。なんにしろ、貴方は私の戴冠に真っ向から反対した。そういうことでしょう?」
「いえ、私は……」
「まあ、いいわ。貴重なお話ありがとう。また変わったことがあったら教えてちょうだい。なにせ、貴方以外の誰に聞いてもろくに答えてくれないんだから」
「は。浅学のこの身でよろしければ喜んでお相手させていただく所存です」
「それじゃおしごと頑張って。私が、じゃあ励みにならないでしょうから、雪華北嶺の王族として、貴方を頼りにしてるわ」
私はひらひらと手をふって、申し訳程度の激励をした。オーロスとの会話は私にとって実にみのりの多いものであったが、だからといって私から謝意を受けても彼にはかえって迷惑だろう。先のことを考えても、私とオーロスが接近する、あるいはそう受け取られかねない交流を交わすのはまだ時期尚早だ。内々の話で済ませられればそれはそれで価値があるだろうが、私はもとよりオーロスも腹芸が得意なたちではないのが問題で、海千山千の宮廷貴族連中にかぎつけられて厄介ごとのネタにされるのが関の山だろう。
立礼で見送るオーロスを背に、私はリッテリットの待つ青女宮へと急ぐ。私の矮躯にはいささか以上に急な階段を上り、天華宮がその名の由来とする豪奢な吹き抜けのエントランスを奥に進むと、幾分小ぶりで典雅な風情の宮殿が左手に見えてくる。瑠璃のちりばめられた宝型屋根が春の青空に映える、私とリッテリットだけの宮だ。もともとは妾妃や故ある王族らのために建てられた青女宮は、今は王太子たる私が押し込められるような場所ではないのだが、ずっとここで暮らしてきたという馴染みもあり、またリッテリットひとりで手が届く広さにも限度があるので、自ら望んで留まっている次第だ。
思わぬ遭遇をこれ幸いと話し込んでしまったので、リッテリットの機嫌はますます下り坂になっていることだろう。リッテリットは口うるさくお小言を言うような、いわゆるロッテンマイヤー先生のようなタイプの侍女ではないが、ひとたび機嫌を損ねるとなかなか後を引くし、人の目のないところでは癇癪を炸裂させるのをためらわない。そのくせ私相手でもなければ外面は完璧なので始末におえない。
とかくリッテリットは私がひとりであれこれ動くのを好ましく思っていないところがあって、自室以外で私がリッテリットを遠ざけたり、使いにやったりしようとすると途端に機嫌が悪くなる。それは子供をひとりにしておくことへの保護者としての責任感からくる嫌悪感というよりは、ずっと私を取りまいていた悪意と策謀への防御的忌避感とでも言うべきもので、だから私にはリッテリットのそんな態度を責めることがどうしてもできないでいるのだ。
実際、リッテリットがそばについていてくれたから辛くも難を逃れたということは幾度もあった。毒を忍ばせた紅茶はリッテリットが絨毯に飲ませ、ドレスに刺さったままのまち針はリッテリットのいい加減な着付けのせいで私の肌を傷つけることなく床に転げ落ちた。ときにはリッテリット自身が狙われることもあったが、彼女は驚異的な、あるいは悪魔的とも思えるような危機察知能力でそのことごとくをかわし、伏魔殿の魔手はついに彼女の髪の一本すらつかめなかったのだ。それらがひとえにリッテリットの能力によるものか、あるいは兎の前足の加護が過分にあったのかはわからないが、ともかく私が敵に回したくない人物の筆頭であるのは確かだ。
とはいえそれらもリッテリットが私を想っていてくれればこそ、彼女の他に信のおける直参のひとりもいない私にとっては、ありがたみもひとしおにしみいる。機嫌を取り結ぶぐらいはどうということもない。普段は気恥ずかしくてなかなかできないこともあってか、リッテリットは私が外聞もなく甘えると途端に機嫌を直すことを、私は経験から知っている。
二、三度深呼吸をして、可愛くて手のかかるお姫様を演じる心の準備は万端。覚悟を決めた私は、青女宮の重厚な扉にのせた両手にゆっくりと体重をかけていったのだった。