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第九話 満たされるもの

 昼前、野営地の空気が少しだけ変わった。


 兵士たちの動きが慌ただしくなる。


 声は抑えられているが、その足運びには明らかな速さがあった。


 荷をまとめる者。


 武器を確かめる者。


 馬具を見直す者。


 焚き火の傍で傷口の縫合を受けていた兵までが、顔を上げてそちらを見る。


 何かあったのだと分かる。


 カイラムは野営地の端、水場の近くでその変化を見ていた。


 リオスもすぐに気づいたらしい。少し離れた場所で兵士に何かを聞き、眉をひそめる。


 やがてそのまま早足で戻ってきた。


「森の南側で、取りこぼしが出ました」


「グールウルフですか」


「それだけではありません。昨夜の人型の個体に似た影が複数、見えたそうです」


 カイラムは小さく息を吐いた。


 胸の奥の空白が、ほんのわずかに動く。


 ほんの少しだけ。


 それだけで、身体の内側の鈍さがわずかに裂けた。


 リオスはそれを見たように、すぐに言い足す。


「行ってはいけません」


「まだ何も言っていません」


「言わなくても分かります」


 その声音は強い。


 昨夜よりも、朝よりも、さらに強い。


 カイラムは彼女を見た。


「では、誰が行くのです」


「第七警戒隊と、残る兵で対処するはずです」


「負傷者が多い」


「それでもです」


 きっぱりと返してから、リオスは一度だけ視線を逸らした。


「……少なくとも、今のあなたを出すべきではない」


 その言葉に、カイラムは答えなかった。


 答えないまま、兵たちの動きを見る。


 数は少ない。


 傷の浅い者を集めているのだろう。


 装備も万全ではない。


 匂いだけでも分かる。血が混じっている。包帯の下に新しい裂傷を残したまま動いている者もいる。


 戦う前の匂いだった。


 張り詰めた汗。


 鉄。


 革。


 不安。


 そして、森の奥から風に乗って流れてくる、薄い腐臭。


 カイラムの指先がわずかに動く。


 爪の先が、意識と一緒に前へ出かかる。


「カイラム神官」


 リオスの声が低くなる。


「ここにいてください」


 その時だった。


「カイラム神官」


 別の声がした。


 振り返ると、ガレドがいた。


 鎧は応急処置の跡だらけで、まだ万全にはほど遠い。だが、その目には戦う者の光が戻っている。


「あなたも聞いていたか」


「ええ」


 ガレドは短くうなずいた。


「本来なら休ませたい。セイル司祭の言うことも分かる」


 そこで一度、リオスを見る。


 彼女は強く唇を引き結んでいた。


「だが、こちらの手が足りんのも事実だ」


「ガレド隊長」


 リオスが声を上げる。


 ガレドは彼女に向き直る。


「リオス神官。あなたが危険視しているのは分かる。こちらも同じだ」


「同じなら、なぜ」


「だからこそ迷っている」


 その言葉に、リオスは押し黙った。


 迷い。


 それはたしかに、その場の空気にもあった。


 カイラムを出すべきではない。


 だが、カイラムがいれば助かる。


 人として扱うべきか、武器として扱うべきか。


 まだ誰も決めきれていない。


 ガレドはカイラムを見る。


「あなたはどうしたい」


 カイラムは森の方を見た。


 南側。


 まだ目には見えない。


 だが、いる。


 ごく薄い気配がある。


 人には見えない影。


 息を潜めたもの。


 それを追う匂い。


「行きます」


 即答だった。


 リオスが息を呑む。


「駄目です」


「止めますか」


「止めます」


 彼女は一歩前へ出た。


「今のあなたが戦場へ出れば、何が起こるか分かりません」


「分かっているなら教えてください」


 カイラムが言うと、リオスは言葉に詰まった。


 分からないのだろう。


 本当に何が起こるのか、まだ誰にも分からない。


「……だからです」


 ようやくそう返す。


「分からないものを戦場へ出すべきではありません」


 正しい。


 神官としても、人としても、たぶん正しい。


 だが、カイラムの中にあるものは、その正しさを聞きながら別の方向を向いていた。


 森の匂いが近い。


 気配がある。


 胸の奥の空白が、さっきよりもはっきり形を持ち始めている。


 埋められる。


 その奥へ行けば。


 戦えば。


 そう身体が知っているようだった。


「私も同行します」


 リオスが低く言った。


 ガレドとカイラムの両方が彼女を見る。


「私が見ます」


 その目は強い。


 迷いはある。だが、それでも退かない目だった。


「止められないなら、私が付く」


 ガレドは数秒だけ黙り、そして小さく息を吐いた。


「分かった」


「……ありがとうございます、隊長」


「出さぬ方が良いのは分かっている。だが、出さぬまま崩れるなら意味がない」


 そう言って、カイラムを見る。


「ヴァルグレイ神官。勝手な行動はするな。影を見つけても深入りは禁ずる。あくまで追い払い、残党を狩るだけだ」


「分かりました」


「本当にか」


「努力します」


 ガレドは眉を寄せたが、何も言わなかった。


 リオスだけが露骨に嫌そうな顔をする。


「その言い方、本当にやめてください」


 それでも、彼女はもう退かなかった。


 準備は早かった。


 軽装の兵士が五人。


 ガレド。


 カイラム。


 そしてリオス。


 南側の森は、礼拝堂のあった一帯とは少しだけ空気が違った。木々は細く、下草が多い。影が分かれ、隠れる場所が多い。


 人には見づらい森だ。


 だが、カイラムには違った。


 気配がある。


 風の流れの中で、匂いだけがわずかに濁る場所がある。


 そこに潜んでいる。


「止まってください」


 カイラムが言う。


 一行の足が止まる。


 ガレドが小声で問う。


「何だ」


「前です。二つ」


 兵士たちの顔色が変わる。


 彼らには見えていないのだろう。


 だが、カイラムには分かる。


 木の幹の陰。


 低い枝の上。


 人型の、細い四肢。


 のっぺりと暗い顔。


 湿った光を返す目。


 昨夜のものに似ているが、もっと痩せていて、もっと薄い。


 影に溶けることだけに特化したような魔物だった。


「右の上に一つ。左奥に一つ」


 言い終わるより早く、左奥の影が動いた。


 兵士の首を狙う、低く鋭い跳躍。


 だが、その軌道はカイラムには遅かった。


 身体が先に動く。


 考えるより早く、地面を蹴っていた。


 森の匂いが裂ける。


 風の流れが開く。


 魔物の気配だけが、一本の線のように鮮やかだった。


 手が伸びる。


 今度は頭ではなく、腕を掴んだ。


 骨の位置が分かる。


 細い。


 軽い。


 そして脆い。


 捻り、そのまま力のまま投げる。


 嫌な音がした。


 魔物の身体が半回転し、そのまま地面へ叩きつけられる。


 兵士の悲鳴は出なかった。


 出る前に終わった。


 もう一体が枝の上から滑るように動く。


 ガレドが剣を抜く。


 兵士たちも続く。


 だが、その動きすらカイラムには遅かった。


 木の幹を蹴り、上へ出る。


 魔物がこちらを見る。


 その目の奥にある殺意が、驚くほどはっきり分かった。


 見えている。


 分かる。


 次にどこへ逃げるかまで。


 逃がさぬと、カイラムは右手を振り抜く。


 爪先が肉を裂く感触があった。


 魔物の身体が宙で傾く。


 そのまま落ちる前に、メイスが振り下ろされる。


 骨が砕けた。


 そこから先は、短かった。


 残っていた気配は全部で四つ。


 兵たちが二つを追い立て、ガレドが一つに深手を与え、最後の一つはカイラムが森の奥へ逃がさず潰した。


 戦いと言うには小さい。


 だが、終わった時には、胸の奥の空白が少しだけ静かになっていた。


 呼吸が整っている。


 耳に入る音も、匂いも、戦う前よりむしろ落ち着いていた。


 カイラムは地面に落ちた黒い液を見た。


 血とも泥ともつかないそれが、根の間へゆっくり染みていく。


 手の中のメイスは重いはずなのに、ひどく馴染んでいた。


「……カイラム神官」


 声がして振り向く。


 リオスだった。


 顔色が悪い。


 だが怪我はない。


「無事で何よりです」


 そう言うと、彼女は一瞬だけ言葉を失ったような顔をした。


「あなたこそ」


「ええ」


 カイラムは短く答える。


 その声が、自分でも驚くほど静かだった。


 先ほどまで野営地で感じていた煩わしさも、胸の奥の乾いた空洞も、今は少しだけ遠い。


 ガレドが近づいてくる。


 剣先には黒い液が付着していた。


「動きが昨日より速い」


 独り言のように言ってから、カイラムを見る。


「……いや、速いだけじゃないな。迷いがなかった」


 カイラムは答えない。


 答えなくとも、自分でも分かっていた。


 戦っている間だけ、感覚が噛み合う。


 匂いも、音も、気配も、多すぎるのではなく、ちょうどよくなる。


 身体がようやく正しい場所へ戻ったような感覚すらあった。


 リオスがそれを見ている。


 兵士たちも見ている。


 だが、一番強く見ていたのは、たぶん彼女だった。


「戻りましょう」


 リオスの声は低い。


 それ以上ここで戦わせたくないのだろう。


 カイラムは素直にうなずいた。


 帰路、森の匂いは相変わらず濃かった。

 だが、さっきまで胸の奥を掻いていた渇きは、今は少しだけ静まっている。


 消えたわけではない。


 なくなったわけでもない。


 ただ、遠のいている。


 野営地が見え始めた頃、リオスが不意に言った。


「……今の方が静かでした」


 カイラムは彼女を見る。


「何がです」


「あなたが、です」


 彼女は前を向いたまま続ける。


「野営地にいた時より、戦っている間の方がずっと落ち着いて見えた」


 その言葉に、カイラムは少しだけ黙った。


 否定できない。


 それどころか、自分でも同じことを感じていた。


 野営地でじっとしている時より、魔物の気配を追っている時の方が、ずっと静かだった。


「良くないことですね」


 リオスが言う。


「ええ」


 カイラムは答えた。


 その返事は正しい。


 きっと正しい。


 だが、言葉とは別に、胸の奥では別の理解が静かに形を取っていた。


 渇きは消えていない。


 だが、戦いはそれを静かにしてくれた。

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