第八話 監視
再浄めを終えて天幕を出た時、陽光はすでに野営地へ広がり始めていた。
夜の青は薄れ、代わりに白んだ空が木々の隙間へ滲んでいる。
兵士たちはそれぞれ持ち場へ戻り、荷をまとめ、負傷者を支え、壊れた道具を直していた。
朝の営みだ。
何もおかしくはない。
それでも、カイラムには昨夜までと同じ朝には見えなかった。
視線がある。
露骨ではない。
だが、ある。
会話の途中で一瞬だけこちらを見る目。
荷を運びながら、わずかに距離を取る足運び。
何かを知っている沈黙だけが、あちこちに残っていた。
カイラムは特に何も言わず、その視線の中を歩いた。
不快ではない。
ただ、煩わしかった。
「気にしないでください」
隣でリオスが言った。
彼女もまた、その空気に気づいているのだろう。手には小さな布束を抱えていた。浄めの場からそのまま付き添ってきたらしい。
「気にしているように見えますか」
「見えません」
リオスは即答した。
「でも、分からないわけでもありません」
カイラムは小さく息を吐いた。
「優秀ですね」
「違います。カイラム神官が分かりやすすぎるだけです」
それが皮肉なのか、本気なのかは分からなかった。
野営地の中央に近い焚き火の脇を通る。
兵士が一人、湯の入った器を持って立ち止まった。
こちらへ持ってくるつもりだったのだろう。
だが、ほんの一瞬だけためらい、それから気まずそうに歩み寄ってくる。
「カイラム神官、湯を」
差し出された器を受け取り、カイラムは一口だけ飲んだ。
温度も、煮た葉の苦みも、妙にはっきり分かる。
「ありがとうございます」
そう返すと、兵士はどこかほっとしたような顔をして下がっていった。
リオスが小さく眉を寄せる。
「見ていますね」
「ええ」
カイラムは湯をもう一口飲み、それを近くの木箱へ置いた。
兵士たちは露骨に怯えてはいない。
ただ、どう扱えばよいのか決めかねている気配だけがあった。
「セイル司祭の指示です」
リオスが言った。
「今日一日は、私が付きます」
「監視ですか」
「経過観察です」
「同じことです」
リオスは少しだけ口を閉ざし、それから言い直す。
「同じではありません。少なくとも、私はそう思っています」
カイラムは彼女を見た。
結い上げた髪は朝の光を受けても地味な色のままで、顔立ちも派手ではない。だが、目だけは強かった。逃がすまいとする者の目ではなく、見失うまいとする者の目だ。
「では、どう違うのです」
「監視は疑って見るものでしょう」
「では、経過観察は」
「見極めるためのものです」
少しだけ間を置いて、彼女は続けた。
「私は、まだあなたを疑いきっていません」
その言葉に、カイラムは答えなかった。
答えれば何かが決まってしまうような気がしたからではない。
単に、どう返すのが正しいのか分からなかった。
野営地の奥から、短い悲鳴にも似たうめき声が聞こえた。
負傷兵の一人が、包帯の巻き直しで痛んだのだろう。
カイラムの視線がそちらへ向く。
血の匂いが、風に乗って薄く流れてきた。
わずかだ。
だが、鮮明だった。
乾きかけた血ではない。まだ新しい、体温を残した匂いだ。
カイラムの足が、無意識にそちらへ向きかける。
半歩にも満たない動き。
だが、リオスは見逃さなかった。
「カイラム神官」
呼びかける声は低い。
強い制止ではない。ただ、確かめるような響きだった。
カイラムは足を止める。
「何でしょう」
「今、何を考えましたか」
静かな問いだった。
だが、逃がす気はなかった。
カイラムは少し考える。
考えなければならない問いではなく、答える言葉を選ぶための間だった。
「血の匂いがしました」
リオスの顔から、わずかに色が引いた。
「それだけですか」
「……気になりました」
「どういうふうに」
さらに踏み込まれる。
カイラムは負傷兵のいる方を見る。包帯の白、滲む赤、痛みに耐える呼吸。そのすべてが近い。
「昨日までより、はっきり分かります」
「そうではなく」
リオスは言葉を切った。
そこで、自分が何を聞こうとしているのかに気づいたのだろう。
彼女は小さく息を吐き、声を落とす。
「それを、追いたいと思いましたか」
カイラムは答えなかった。
それで十分だった。
リオスは目を伏せる。
恐怖ではない。だが、今までより明らかに重い現実を受け取った顔だった。
「自分で止まれました」
カイラムは言った。
「ええ」
「まだ、止まれます」
リオスはすぐには返事をしなかった。
その「まだ」に含まれているものを、彼女も理解してしまったのだろう。
「止まれるうちは、止まってください」
ようやくそう言って、彼女は視線を上げた。
「だから、今日一日は私が付きます」
「優しいですね」
「職務です」
返答は早かった。
それでいて、職務だけの声にも聞こえなかった。
しばらく二人は並んで歩いた。
野営地の中を、特に目的もなく巡るように。
リオスは目を離さない。
兵士たちもまた、ちらちらと視線を向けてくる。
近くにいても、輪の内側へは入りきれていない感覚があった。
同じ場所を歩いている。
同じ空気を吸っている。
だが、どこかで線が引かれている。
カイラムはそれを責める気にはなれなかった。
自分でも分かるからだ。
昨日までの自分ではないことを。
やがて、再びセイルの天幕の前を通りかかった時、中から低い声がした。
「リオス、入れ」
呼ばれたのは彼女だけだった。
リオスは一瞬ためらい、カイラムを見る。
「ここで待っていてください」
「逃げるとでも」
「今のあなたなら、ありえないとは言い切れません」
きっぱりと言ってから、彼女は少しだけ表情を和らげた。
「すぐ戻ります」
そうして天幕の中へ入っていく。
カイラムは一人、外へ残された。
一人。
そう思った瞬間、違和感があった。
昨夜までなら一人でいることは自然だった。
今は違う。
付き添いが外れた、それだけのことに意識が向く。
誰にも見られていない時間を、数えそうになった。
森の方を見れば、木々の向こうはまだ薄暗い。
風が吹き、湿った匂いが流れてくる。
その奥へ行ける。
今なら。
そう考えた自分に、カイラムは静かに眉をひそめた。
足は動かない。
だが、意識だけは一瞬そこへ向かっていた。
すぐに押し戻す。
天幕の外で待てと言われた。
それだけのことだ。
それだけのことで、自分を留めなければならない。
布越しに中の会話は聞こえない。だが、セイルとリオスが自分のことを話しているのだろうとは分かった。
報告。
監視。
経過観察。
扱いはこれからさらに変わるのかもしれない。
カイラムは右手を見下ろした。
爪先はわずかに鋭い。
朝の再浄めで確かめたそれは、今も変わらない。
人の手だ。
まだ。
だが、いつまでかは分からない。
天幕の布が揺れ、リオスが戻ってきた。
「長く待たせましたか」
「いえ」
「司祭からです。今日中は、できるだけ人の多い場所にいてください」
「それは命令ですか」
「そう受け取ってください」
彼女は少しだけ言いよどみ、それから付け足した。
「……少なくとも、私が目の届く場所に」
カイラムは彼女を見る。
真面目な顔をしていた。
だが、その目は職務だけのものではなかった。
「分かりました」
そう答えて、二人は再び歩き出す。
兵士たちの輪の近くを。
焚き火のそばを。
負傷兵のいる側を避けるように。
森から遠ざかるように。
人の輪の中にいる。
それなのに、もう同じ場所には立っていない気がした。




