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第七話 見間違えではない

 夜明け前には、すでに目が覚めていた。


 いや、ほとんど眠れていなかったと言った方が正しい。


 寝台に横たわったままでも、意識は沈まなかった。目を閉じれば匂いが近く、耳を澄まさずとも音が入り込んでくる。夜の間じゅう、それらは絶えずカイラムの感覚を撫で続けていた。


 湿った土。


 焚き火の残り香。


 血。


 薬草。


 馬の吐息。


 負傷兵の浅い呼吸。


 遠くで鳥が一度だけ羽を打つ音。


 どれもが、眠りを許さぬほど鮮明だった。


 天幕の薄布越しに、外の明るさがわずかに変わる。


 朝が近い。


 カイラムは静かに身を起こした。


 胸の奥に残る空白は、昨夜よりも薄れていなかった。眠れば引く類のものではないらしい。むしろ、時間が経つほど静かに輪郭を増している。


 渇きに似た感覚。


 それがまだ、自分の中にある。


 カイラムが外套へ手を伸ばした時、天幕の外で足音が止まった。


「カイラム神官」


 布越しに聞こえてきたのは、リオスの声だった。


「起きていらっしゃいますか」


「ええ」


「入ります」


 返答を待ってから、布がめくられる。


 朝の薄明かりを背に、リオスが立っていた。結い上げた髪の先が肩口で揺れ、寝起きの顔をしていても、その目だけはすでに仕事のものだった。


「セイル司祭が、もう一度診ると」


「朝からですか」


「朝だからです」


 即答だった。


 カイラムは小さく息を吐き、立ち上がる。


「昨夜のうちに結論は出なかったでしょう」


「だから再確認するんです。昨夜より進んでいるかもしれない」


 リオスの言葉は、少しだけ硬い。


 気を張っているのだろう。昨夜、カイラムの手の震えと爪の違和感を見ているのだ。無理もない。


「顔色は悪くありませんね」


 そう言いながら、彼女の視線がカイラムの目元で止まった。


「ですが、やはり……」


「目が変ですか」


 先に言うと、リオスは少しだけ言葉に詰まった。


「ご自身でも分かっているなら、なおさら急いでください」


「分かっています」


 短く返して天幕を出る。


 朝の空気は冷たく、夜よりも乾いていた。東の空には淡い光が差し始めている。野営地は完全には目覚めていないが、すでに動き始めている者もいる。湯を沸かす音。荷の点検。うめき声。短い指示。


 そのすべてが、相変わらず近い。


 だが昨夜と違うのは、カイラム自身がそれを受け入れる準備をしていることだった。


 もはやこれは気のせいではない。


 その前提だけが、静かに腹の底へ沈んでいる。


 野営地の端にある簡易天幕へ向かう。


 浄めの場だ。


 入口には聖印が吊られ、足元には昨夜よりも新しい香草が足されていた。中に入ると、白布をかけた簡易祭壇と、銀の皿、香炉、聖水の器が並んでいる。


 その前に、セイル司祭が立っていた。


 痩せた身体。深い目元の皺。疲れを押し隠すような静かな姿勢。野営の仮設であっても典礼の形を崩さない。


「来たか」


 セイルは短く言った。


「体調は」


「悪くはありません」


「眠れたか」


「あまり」


 その返答に、セイルは何も言わなかった。


 ただ、リオスと一度だけ視線を交わす。


「昨夜から変わったことは」


 カイラムは少しだけ考えた。


 変わったことは多い。だが、どこまで言葉にするべきかは分からない。


「渇きのような感覚は残っています」


「渇き」


「空腹でも、痛みでもない。ただ、何かが足りないような感覚です」


 セイルはうなずきも否定もしない。


「他には」


 カイラムは右手を見る。


「爪の感触が少し違います」


 リオスが息を詰めた。


 やはり覚えていたのだろう。


 セイルは祭壇の前を指した。


「まずは浄めを」


 カイラムは従った。


 香の匂いがふっと濃くなる。


 昨夜よりもはっきり重い。


 浄め用の香だ。穢れを散らし、乱れた魔力を鎮めるためのもの。神官として何度も嗅いできた匂いのはずなのに、今日は鼻の奥へ強く張りつく。


 セイルが銀の皿から細枝を取り、聖水へ浸す。


「力を抜け」


「努力します」


「昨夜も同じことを言っていたな」


 わずかに苦みのある声音だった。


 カイラムは答えず、目を閉じた。


 祈りの声が始まる。


 低く、淀みのない声音。


 昨夜と同じ簡易式の祈祷文だ。だが今朝は、昨夜以上に一語一語が鋭かった。言葉の縁が耳に引っかかる。香は濃い。聖印の置かれた場所まで分かるような気がする。


 額に聖水が振られた。


 熱い。


 昨夜より、はっきりと。


 カイラムの眉がわずかに寄る。


 次いで、手へ。


 やはり熱い。じわりとではない。もっと明確な熱だった。冷たいものが皮膚に触れたはずなのに、内側から押し返されるような感覚がある。


 リオスが小さく息を呑む。


「昨夜より……」


「静かに」


 セイルは短く制したが、その目はすでに昨夜より厳しかった。


 今度は胸元へ聖水が振られる。


 熱はさらに強い。


 カイラムは薄く息を吐いた。


「昨日より強いか」


「ええ」


 隠す意味もなかった。


 セイルは細枝を戻し、今度は香炉を持ち上げる。白い煙が揺れ、祈りが続く。その最中、カイラムは自分の鼓動よりも、隣に立つリオスの呼吸の乱れの方をはっきり感じ取っていた。


 気づいている。


 彼女は、もう昨夜のように「妙だ」で済ませられないと思っている。


 祈りが終わる。


 セイルは静かに言った。


「右手を」


 カイラムは差し出した。


 セイルが自分の指先で爪を確かめる。次に、リオスへ視線を送った。


「お前も見ろ」


 リオスは一瞬だけためらい、それからカイラムの手を取る。


 朝の薄明かりと灯火の光の両方が、爪先を照らした。


 沈黙。


 最初に口を開いたのはリオスだった。


「……昨夜より、はっきりしています」


 声が低い。


「輪郭が違う。削れたわけでも、伸びたわけでもないのに……」


「鋭い」


 セイルが言葉を継いだ。


「硬さも増している」


 カイラムは自分の爪を見下ろした。


 わずかな変化だった。


 だが、もう“見間違い”の域ではない。


 人の爪の形を保ってはいる。けれど、その先端は昨日までのものより、確かに研ぎ澄まされていた。獣の牙や鉤爪のように露骨ではない。だが、人の身体が本来目指さない方向へ、少しだけ形を変え始めている。


「目も」


 リオスが呟いた。


 セイルはうなずく。


「分かっている」


 彼は小さな鏡を祭壇の脇から取り上げ、カイラムへ差し出した。


「見ろ」


 受け取る。


 鏡の中に映るのは、自分の顔だった。


 疲労は薄い。肌色も悪くない。だが、目だけが違う。薄暗い天幕の中で、瞳が微かに光を返している。朝の弱い光を拾っているだけでは説明のつかない光り方だった。


 人の目ではない。


 そう認めるしかない。


 リオスが声を潜める。


「司祭……」


「聞こえている」


 セイルの声音は冷静だった。だが、その冷静さは昨夜とは少し違っていた。判断を保つための静けさだ。


「穢れの侵食なら、もっと濁る。腐食なら、皮膚や血に出る。拒絶なら、聖水への反発がもっと明確だ」


「では、これは」


 リオスの問いに、セイルは即答しなかった。


 視線だけがカイラムの手と目の間を往復する。


「……変質だ」


 その一言は、天幕の空気を少しだけ変えた。


 リオスの唇が引き結ばれる。


 カイラムはその言葉を内側で反芻した。


 変質。


 穢れでも、病でもない。元の形のまま、別のものへ寄っていく変化。


 妙にしっくりくる言葉だった。


「報告が必要ですか」


 カイラムが問うと、セイルはゆっくりと答えた。


「必要になる」


「すぐに」


「まだだ」


 セイルは断言した。


「まだ観察の域を出ん。だが、見過ごせる段階でもない」


 リオスが息を吐く。


 少しだけ安堵が混じっていた。すぐに拘束や通報が決まるわけではないことに、安心したのだろう。


 だが、その安心も長くは続かない。


「カイラム・ヴァルグレイ」


 セイルは初めてフルネームで呼んだ。


「今日から単独行動は禁ずる」


 カイラムは答えない。


 予想していた。


「野営地の外へ出る時は、必ず誰かを伴え。夜は特にだ」


「分かりました」


「本当に?」


 問い返したのはリオスだった。


 カイラムは彼女を見る。


 結い上げた髪の先が、肩口で微かに揺れている。目は強い。昨夜よりもさらに強く、自分の変化を見てしまった者の目だった。


「約束はします」


「守ってください」


「努力します」


「そこは“努力します”じゃなくて、“守ります”でしょう」


 その返しに、カイラムはほんの少しだけ口元を緩めた。


 セイルは二人を見ていたが、何も言わなかった。


 ただ祭壇の上の聖水を見下ろし、その表面に浮かぶ小さな波紋を指先で止める。


「今朝の浄めはここまでだ。リオス、お前は引き続き様子を見ろ」


「はい」


「カイラム、お前は休め」


「休めるかは分かりません」


「休めと言っている」


 その言葉には、司祭としての命令があった。


 カイラムは小さく頭を下げる。


 天幕を出ると、朝の光は少しだけ強くなっていた。


 野営地が目覚め始めている。兵士たちの動きも増え、声も多くなっていく。だが、そのざわめきの中でも、カイラムの意識は自分の手に引かれていた。


 右手を開く。


 爪先は、やはり昨日までのものではない。


 変わり始めている。


 しかもそれは、自分だけの感覚ではなかった。リオスもセイルも見た。触れた。


 もう、見間違いでは済まない。


 カイラムはゆっくりと指先を曲げた。


 硬い感触が返る。


 不快ではない。


 むしろ、ひどく静かな納得があった。


 人の形はまだ保っている。


 だが、その内側では確実に何かが変わり始めていた。


 それは、もう見間違いではなかった。

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