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第六話 渇き

 眠れなかった。


 野営地の片隅に用意された寝台へ横になっても、目を閉じるたびに意識はむしろ冴えていく。


 疲労がないわけではない。


 身体の芯には、たしかに戦いの後の重さが残っている。


 だが、その重さは眠気にはつながらなかった。


 目を閉じれば、匂いが近い。


 湿った土。


 焚き火の煙。


 薬草。


 血。


 人。


 馬。


 森。


 あらゆるものが近すぎる。


 耳も同じだった。


 布が擦れる音。


 遠くで誰かが寝返りを打つ気配。


 夜番の兵士が槍の石突を持ち直す小さな音。


 どれもが、以前よりずっと鮮明に届く。


 カイラムは静かに目を開いた。


 薄暗い天幕の内側が、はっきり見える。


 夜目が利いている。


 もはや否定しようのない事実だった。


 起き上がる。


 寝台が小さく軋んだ。


 その音すら耳につく。


 外へ出ると、夜気が肌に触れた。


 冷たかった。


 だが、その冷たさが心地よい。


 むしろ天幕の中にいた時より、呼吸がしやすい気がした。


 野営地は静まり返ってはいない。


 焚き火のそばでは夜番の兵が目を光らせ、負傷の重い者は時折苦しげな声を漏らしている。


 眠っている者もいる。


 眠れていない者もいる。


 そのどれもが、妙にはっきり分かる。


 カイラムはゆっくりと息を吐いた。


 眠れない。


 それだけなら、戦の後では珍しくもない。


 だが、今のこれは少し違った。


 不安ではない。


 興奮とも違う。


 胸の奥に、何かが足りないような感覚がある。


 空腹に似ている。


 だが、腹は減っていない。


 渇きに似ている。


 だが、水を欲しているわけでもない。


 言葉にならないまま、その感覚だけが内側に残っている。


「起きていたんですか」


 声がして、カイラムは振り向いた。


 天幕の影から出てきたのはリオスだった。


 手には小さな灯火を持っている。


 夜番を任されているわけではないだろうが、眠れない負傷兵や浄めの対象を気にして見回っているのかもしれない。


「あなたこそ」


 カイラムが言うと、リオスは少しだけ眉をひそめた。


「私は仕事です」


「便利な言葉ですね」


「便利なのではなく、事実です」


 リオスはそこで一度言葉を切り、カイラムの顔を見る。


「……眠れませんか」


「ええ」


「具合は」


「悪くはありません」


 それは本当だった。


 熱はない。


 痛みもない。


 むしろ身体は軽い。


 軽すぎるほどに。


 リオスはその返答に安心した様子を見せなかった。


「悪くないのに眠れない、というのも困るんです」


「困るのはあなたでしょう」


「ええ。困っています」


 即答だった。


 カイラムはわずかに口元を緩める。


 リオスは疲れたように息を吐いた。


「セイル司祭に朝までは様子を見ると言われています。だから、それまではせめて大人しくしていてください」


「大人しくしているつもりです」


「外に出ている時点で説得力がありません」


「天幕の中より、こちらの方が落ち着く」


 その言葉に、リオスは少しだけ表情を変えた。


「……やはり、感覚が変わっているんですね」


 カイラムは答えなかった。


 答えなくとも、否定にはならないと分かっていた。


 夜風が吹く。


 その風に乗って、森の匂いが流れ込んでくる。


 湿った木の匂い。


 遠くの水。


 古い苔。


 獣。


 そして、ごく薄い血の匂い。


 カイラムの視線が、無意識に森の方へ向いた。


 リオスがその動きを見逃さない。


「駄目です」


「何がです」


「今、行こうとしたでしょう」


「まだ歩いていません」


「行こうとした顔をしていました」


 そこまで分かるのか、とカイラムは少しだけ感心した。


 だが、否定はしない。


 実際、足は外へ向きかけていた。


 野営地の灯の外。


 森の暗がり。


 その向こうに何があるのか、確かめたくなっていた。


 気配を探りたかった。


 匂いを追いたかった。


 なぜそう思うのかまでは、まだうまく言葉にできない。


「何か、感じるんですか」


 リオスが問う。


「……分かりません」


 カイラムは正直に答えた。


「ただ、静かにしていると落ち着かない」


 それは初めて口にした本音だった。


 リオスは灯火を持つ手に、わずかに力を込める。


「それは、よくありません」


「でしょうね」


「他人事のように言わないでください」


 少しだけ強い声だった。


 だが、その声に苛立ちより心配が混じっていることを、カイラムは聞き取れた。


 カイラムは森を見たまま言う。


「恐怖ではありません」


 リオスは黙る。


「痛みでもない。熱でもない。だが、何かが足りないような感覚がある」


 自分で言葉にしながら、その違和感を確かめる。


 足りない。


 欠けている。


 終わっていない。


 その感覚の正体を探るように、カイラムはゆっくりと息を吸った。


 森の匂いが肺に入る。


 遠くで何か小さな獣が動いた。


 夜番の兵が身体の向きを変えた。


 もっと奥。


 さらに奥。


 暗い森のどこかに、まだ生きているものがいる。


 その瞬間、胸の奥の空白がわずかに熱を持った。


 カイラムは眉をひそめる。


「……戦いが」


 自分の口から出た言葉に、リオスが目を見開いた。


「何ですって」


「足りないのは、それかもしれない」


 言葉にした途端、しっくりきた。


 空腹でも渇きでもなく、もっと近いもの。


 戦いの前の集中。


 敵を見つけた時の高揚。


 肉が軋む感覚。


 骨が砕ける手応え。


 あの続きが、身体のどこかでまだ終わっていない。


 リオスの顔色が変わる。


「カイラム神官、それは――」


「分かっています」


 カイラムは短く遮った。


 言葉にすべきではないものだったのだろう。


 少なくとも、普通の神官が夜更けに口にする種類のものではない。


 だが、嘘をつく気にもなれなかった。


 リオスはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。


「今夜は、絶対に森へ入らないでください」


 強い声音だった。


「約束できますか」


 カイラムは答えない。


 代わりに、自分の右手を見る。


 灯火の届かない暗がりでも、その輪郭ははっきり見えた。


 指先がわずかに震えている。


 寒さのせいではない。


 疲労でもない。


 恐怖でもない。


 何かを求めるような震えだった。


 リオスもそれに気づいたらしい。


「冷えているんですか」


「違います」


 カイラムは手を軽く握る。


 震えは止まらない。


 だが、不快ではなかった。


 むしろ身体の内側が、何かに向かって整い始めているような感覚すらある。


 それが異常であることだけは、分かる。


 リオスが一歩近づく。


「天幕へ戻ってください」


 カイラムは森を見る。


 暗い。


 だが、見える。


 木の根も、石も、風に揺れる枝も、その向こうに潜むものさえ、今なら見つけられそうな気がした。


 足が、わずかに前へ出かける。


 その瞬間、自分で止めた。


 止められたことに、少し驚く。


 まだ、命令を聞く理性は残っている。


 まだ、自分で自分を押し留められる。


「……分かりました」


 ようやくそう言うと、リオスは目に見えて安堵した。


「本当に、お願いします」


「ええ」


 短く返して、カイラムは天幕の方へ歩き出す。


 背後にはまだ森がある。


 匂いがある。


 気配がある。


 そこへ向かいたがるものが、自分の中にいる。


 だが、今は歩かない。


 歩けないのではなく、歩かない。


 その違いを確かめるように、カイラムはゆっくりと拳を開いた。


 震えは、まだ残っていた。


 だが、やはりそれは恐怖ではなかった。

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