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第五話 浄め

 リオスに半ば急かされるようにして、カイラムは野営地の端へ歩いていた。


 焚き火の明かりが届きにくい場所に、小さな天幕が張られている。


 簡素な布で囲っただけのものだが、入口には聖印が吊られ、足元には香草が焚かれていた。


 簡易浄めの場だ。


 野営地で用意できるものとしては最低限。


 王個体の血に触れた者へ施す手順としては、妥当でもある。


「野営地で簡易浄めまで行うのですか」


 カイラムがそう言うと、隣を歩くリオスは顔をしかめた。


「行います。というより、本来なら正式な浄めが必要なところです」


「設備がない」


「その通りです。だから簡易式で済ませるしかない」


 リオスは短く頷く。


「済ませる、と言っていいのか分かりませんが」


 そこで一度、じろりとカイラムを見る。


「そもそも、触れないでください」


「死体の確認は必要でした」


「素手で、ですか」


「たまたまです」


「カイラム神官の“たまたま”は信用できません」


 言い方は刺があるが、本気で責めているわけではない。


 リオスはこういう時、必要以上に気を回す。


 神官としては間違っていないし、むしろ誠実な部類だとカイラムも知っていた。


「相変わらずですね」


「あなたが警戒しなさすぎるだけです」


 即答だった。


 天幕の前で足を止める。


 入口の布が揺れ、その向こうに小さな灯火が見えた。


 リオスが先に布をめくる。


「セイル司祭。ヴァルグレイ神官をお連れしました」


 中は狭かった。


 床には厚布が敷かれ、その中央に木箱を重ねた簡易の祭壇がある。


 白布。


 銀の皿。


 香炉。


 聖水を満たした器。


 どれも簡素だが、浄めに必要なものは揃っている。


 祭壇の前には、年長の司祭――セイルが立っていた。


 痩せた男だった。目元に深い皺があり、疲れの色も濃い。だが、立ち姿に揺らぎはない。


 野営の簡易儀式でも典礼を崩さない男だと、カイラムは知っている。


「ご苦労、リオス」


 セイルは短く言い、それからカイラムへ視線を向けた。


「カイラム・ヴァルグレイ殿」


「はい」


「少し浄めを行います。拒否は?」


「ありません」


 本音を言えば面倒ではある。


 だが、手順の意味は分かる。


 王個体の血に触れた以上、何もせずに済ませる方が不自然だった。


 セイルは小さく頷く。


「ならばそこへ」


 祭壇の前を示され、カイラムは従った。


 足を止めると、香の匂いがふっと濃くなる。


 浄め用の香だ。


 穢れを散らし、魔力の乱れを鎮めるためのもの。


 知っている匂いのはずだった。


 だが今夜は、それが重い。


 鼻の奥にまとわりつき、焚き火の煙や血の臭いよりも強く届いてくる。


 カイラムはわずかに眉を寄せた。


 セイルは銀の皿から細い枝を取り、聖水へ浸した。


「力を抜いてください」


「努力します」


「努力ではなく、そうしてください」


 静かな口調だったが、きっぱりとしていた。


 枝先から水滴が落ちる。


 セイルは短い祈りを口にし、それからカイラムの額へ聖水を振った。


 冷たい。


 はずだった。


 だが、額に触れた瞬間、冷たさより先に熱を感じた。


 まるで、温められた鉄片を一瞬だけ押し当てられたような感覚。


 カイラムの目がわずかに細くなる。


「どうしました」


「……少し、熱い」


 言った途端、リオスが顔を上げた。


 セイルは何も言わず、今度は手へ聖水を振る。


 同じだった。


 やはり熱い。


 皮膚の上で、じわりと熱が広がる。


 痛みではない。


 だが、明らかに普通ではなかった。


「反応が出ていますか」


 リオスが声を落とす。


「静かに」


 セイルはたしなめるように言い、香炉を手に取った。


 白い煙が揺れながら立ち上る。


 祈りの言葉が始まる。


 低く、ゆっくりとした声音。


 簡易式の祈祷文だ。


 本来なら聞き慣れているはずのものだった。


 だが今夜は、それが妙に耳に刺さる。


 一言ごとの輪郭が鮮明すぎる。


 セイルの息継ぎの音まで聞こえる。


 喉の震えすら分かる。


 香の匂いは重い。


 祈りの声は近い。


 聖水の熱はまだ皮膚に残っている。


 五感がすべて近すぎた。


 カイラムはじっと耐える。


 逃げ出したいほどではない。


 だが、心地よくもない。


 セイルが祈りを止めた。


 香炉を祭壇へ戻し、カイラムを見る。


「もう一度」


 短く言って、再び聖水を振る。


 今度は胸元へ。


 やはり熱い。


 今度は前よりも少しだけ強かった。


 リオスが思わず息を呑む。


「……おかしい」


「何がおかしいのです」


 カイラムが問うと、セイルはすぐには答えなかった。


 枝を皿へ戻し、銀器の縁を指先でなぞる。


「穢れへの反応とは少し違います」


「違う?」


「ええ。魔物の血に深く侵されたなら、もっと濁る。拒絶も、腐食も、珍しくありません」


 彼は一度言葉を切った。


「ですが、あなたの場合……妙です」


 リオスが眉を寄せる。


「曖昧、というか……」


「そうだ。聖水が弾かれているわけではない。祈りにも拒絶はない。だが、馴染み方が不自然だ」


 馴染み方。


 その言葉が、カイラムの中に少しだけ残った。


 拒絶ではない。


 それだけは、はっきりしていた。


「問題があるのですか」


「分かりません」


 セイルははっきりそう言った。


「疲労かもしれない。王個体に触れた直後だからかもしれない。あるいは、あなた自身の資質によるものかもしれない」


 何も断定しない言い方だった。


 だが、それが逆に不気味だった。


 リオスは不満そうに言う。


「ですが、このまま放っておくのは――」


「放ってはおかん」


 セイルが遮る。


「今夜は安静にしてもらう。夜明けにもう一度浄める。それで変化がなければよい。変化があれば、その時考える」


 リオスはなお言いたげだったが、やがて口をつぐんだ。


 カイラムは祭壇の白布を見つめた。


 安静。


 見張られる、とは言わない。


 だが、半ばそれに近いのだろう。


「私は監視対象ですか」


 静かに問うと、リオスが目を見開いた。


 セイルは表情を変えない。


「そう受け取られても、否定はできません」


「正直ですね」


「濁すよりはよいでしょう」


 それはたしかにそうだ、とカイラムは思った。


 濁した言葉は、信頼より不信を生む。


 リオスが言う。


「少なくとも、今夜は野営地の外へ出ないでください。何かあるかもしれません」


「何か、とは」


「それを確かめるための浄めです」


 少し強い口調だった。


 カイラムはそれ以上言わず、小さく頷いた。


「分かりました」


 天幕を出ると、夜気が肌に触れた。


 冷たい。


 その冷たさが、天幕の中にいた時よりむしろ心地よく感じられる。


 焚き火の明かりはまだ揺れている。


 兵士たちの声も、馬の鼻息も、遠くの虫の音も聞こえる。


 そのどれもが、以前より鮮明だった。


 カイラムはそのまま天幕の脇を通り、水を張った木桶の前で足を止める。


 簡易の手洗い場だった。


 覗き込む。


 水面には、揺れた自分の顔が映っていた。


 疲れた顔ではない。


 熱もない。


 傷もない。


 だが、目だけが違った。


 暗がりの中で、瞳がわずかに光を返している。


 焚き火の光を拾っているだけかと思った。


 だが違う。


 角度を変えても、そこだけが微かに明るい。


 人の目ではないように見えた。


 カイラムはしばらくその水面を見つめていた。


 驚きはある。


 だが、嫌悪はなかった。


 目を逸らす理由も見つからない。


 むしろ、これで夜が見えるのなら理にかなっている。


 そう思った。


 水面が揺れる。


 光も揺れる。


 それでも、その目はたしかにそこにあった。


 人のものではない兆し。


 だが、カイラムは目を逸らさなかった。

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