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第四話 残る匂い

 野営地へ戻る頃には、森の上に夜が落ちかけていた。


 空はまだわずかに青みを残している。だが、木々の影はすでに濃く、焚き火の明かりだけが兵士たちの顔を照らしていた。


 負傷者のうめき声。


 治療にあたる神官たちの短い指示。


 湯を沸かす音と、血に濡れた布を洗う水音。


 戦いは終わったはずなのに、空気はまだ張り詰めたままだった。


 だが、その中で一人だけ、妙に静かな者がいる。


 カイラム・ヴァルグレイは、焚き火から少し離れた場所に立っていた。


 戦いの直後だというのに、息は乱れていない。


 身体に疲労がないわけではない。


 だが、鈍っている感じがしなかった。


 むしろ、感覚は冴えている。


 焚き火の匂い。


 煮沸した薬草の匂い。


 血の匂い。


 汗の匂い。


 それぞれが混ざらず、妙に鮮明に鼻へ届いてくる。


「カイラム神官」


 呼びかけられて振り向く。


 そこにいたのは、回収班の若い神官、リオスだった。腕には布を抱え、眉間にはわずかに皺が寄っている。


「まだ休まれていなかったのですか」


「ええ」


 カイラムは短く答える。


「あなたこそ、まだ働いているようですね」


「働かねばなりません。今日のような日ほど、仕事が増えます」


 リオスはそう言ってから、カイラムの顔をじっと見た。


「……具合は悪くありませんか」


「何故そう思うのです」


「王個体の血に触れたでしょう。あれほど濃い魔力を帯びた個体です。身体に何の異常もない方が珍しい」


 カイラムは少しだけ自分の手を見る。


 見た目に異常はない。


 血もきれいに洗い流してある。


 だが、匂いだけは残っていた。


 深く息を吸えば、まだあの鉄のような臭いが鼻の奥にある。


「今のところは、特に」


「今のところは、ですか」


 リオスは嫌な顔をした。


「本来なら浄めを受けてもらいたいところですが……」


「そうでしょうね、面倒ですが」


「面倒ではありません。必要だから言っているんです」


 言い方はきついが、本気で心配しているらしい。


 カイラムはわずかに口元を緩めた。


「分かりました。では、後で」


「本当でしょうね」


「たぶん」


「たぶん、が一番信用できません」


 リオスは深く溜め息をついたが、それ以上は何も言わず、別の負傷兵の方へ向かっていった。


 カイラムは再び夜の野営地を見渡す。


 焚き火は三つ。


 そのうち一つの火が少し弱い。


 薪が湿っているのだろう。


 そこに座る兵士の左腕には深い裂傷があり、巻かれた布の内側から血の匂いが滲んでいる。


 少し離れた場所では、馬が落ち着かない様子で首を振っていた。


 視線を向ける。


 馬が怯えている。


 何かを感じているようだった。


 カイラムはその理由を考えようとして、やめた。


 今は別のことの方が気になっていた。


 自分の感覚だ。


 見えすぎる。


 聞こえすぎる。


 匂いが近すぎる。


 それでも、不快ではない。


 むしろ、少しだけ心地よかった。


 彼は水場へ向かった。


 野営地の端に、森から引いた細い水路がある。兵士たちはそこで布を洗い、武器の血を落としていた。


 今は誰もいない。


 焚き火の光が届かず、水面は黒く沈んで見えた。


 カイラムは膝をつき、手を水に差し入れる。


 冷たい。


 その冷たさが、妙に鋭く感じられた。


 指先にまとわりつく水の流れまで分かる。


 手の甲。


 指の間。


 爪の縁。


 洗い流したはずの血の感触が、本当に消えているか確かめるように、ゆっくりとこする。


 だが、何度洗っても、匂いだけが残っていた。


 王個体の血。


 黒く、濃く、死んでなお熱を残していたもの。


 その残滓が、自分の中にわずかに入り込んでいるような感覚があった。


 カイラムは顔を上げる。


 夜の森が、よく見えた。


 本来なら闇に沈んでいるはずの木々の輪郭が、はっきり分かる。


 幹の歪み。


 枝の揺れ。


 その向こう。


 何もないはずの暗がりが、わずかに歪んだ。


 次の瞬間、野営地の外れで馬が短くいなないた。


 カイラムは立ち上がる。


 焚き火のそばにいた兵士たちはまだ気づいていない。


 だが、いた。


 暗がりに溶け込むような、人の形をした何か。


 痩せた四肢。


 異様に長い指。


 顔があるべき場所はのっぺりと暗く、目だけが湿った光を返している。


 木の幹に張りつくようにして、じっとこちらを窺っていた。


 兵士たちからは見えていない。


 気配も薄い。


 息を殺し、影に紛れ、首を狩るためだけに生まれたような魔物だった。


 だが、カイラムには分かる。


 匂いがある。


 わずかな体温がある。


 何より、殺意がある。


 それが動くより先に、カイラムは歩き出していた。


「カイラム神官?」


 後ろで誰かが呼んだ気がした。


 だが、足は止まらない。


 人型の魔物はなおも動かない。


 自分が見つかっていないと思っているのだろう。


 影に沈み、枝葉の揺れに紛れ、じりじりと位置を変えている。


 近い。


 三歩。


 二歩。


 一歩。


 その瞬間、魔物が跳んだ。


 低く、鋭く、喉笛を裂くための軌道。


 だが、カイラムは避けなかった。


 右手が伸びる。


 空中で、魔物の頭を掴んだ。


 止まる。


 細い首と胴が、その勢いのまま不自然に揺れた。


 兵士たちがようやく異変に気づき、息を呑む音が背後で重なる。


 魔物は暴れた。


 長い指がカイラムの腕を掻こうとする。


 だが、届かない。


 カイラムは片手でそれを持ち上げる。


 軽かった。


 あまりにも。


 頭蓋の形が、掌の中で分かる。


 薄い骨。


 湿った皮膚。


 その内側に詰まった柔らかいもの。


 握る。


 ぐしゃり、と音がした。


 魔物の身体から一瞬で力が抜ける。


 四肢がぶらりと垂れ、黒い液がカイラムの手を伝って落ちた。


 そのまま死骸を地面へ放る。


 背後には沈黙が落ちていた。


 振り返ると、若い神官と兵士が数人、顔を強張らせて立っていた。


「今の……見えていたんですか」


 神官が呟く。


 カイラムは倒れた魔物を一瞥した。


「そこにいたので」


「そこに、って……」


 兵士の一人が喉を鳴らす。


「俺たちには何も……」


 見えていなかった。


 そう言いたいのだろう。


 カイラムは死骸へ歩み寄った。


 人型の魔物。


 影に紛れることに特化した個体なのだろう。


 王個体ほどではない。


 だが、それでも普通の魔物よりはだいぶ濃い臭いがした。


 リオスが我に返ったように声を上げる。


「やはり、一度きちんと浄めを受けてください」


「後で、と言ったはずです」


「今すぐ、です」


 珍しく強い口調だった。


 だが、カイラムはその剣幕すら少し遠く感じた。


 耳には入る。


 意味も分かる。


 それでも意識のどこかが、まだ森の暗がりに残っている。


 気配を追っている。


 夜の匂いを嗅いでいる。


 戦いの余熱を惜しんでいる。


「……分かりました」


 ようやくそう返すと、神官は露骨に安堵した顔をした。


「本当にお願いしますよ」


 兵士たちは魔物の死骸を恐る恐る回収し始めた。


 カイラムは水場へ戻る。


 もう一度だけ手を洗った。


 黒い液はすぐに流れた。


 それでも。


 やはり匂いは消えない。


 焚き火の匂いに紛れても、薬草の香りに混じっても、王個体の血の残り香だけは鼻の奥に留まり続けていた。


 夜風が吹く。


 その風に乗って、野営地の外の匂いが流れ込む。


 湿った土。

 枯れ葉。

 遠くの獣。

 もっと遠くの、水。


 カイラムは静かに目を閉じた。


 分かる。

 前よりも、ずっと遠くまで。


 異常なのだろう。


 本来なら警戒すべき変化なのだろう。


 だが。


 少しも嫌ではなかった。


 むしろ、身体がようやく何かに馴染み始めたような、奇妙な感覚さえある。


 カイラムはゆっくりと目を開く。


 闇の輪郭は、なお鮮明だった。


 それは異常のはずだった。


 だが、カイラムは少しも嫌だと思わなかった。

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