第三話 王の残滓
礼拝堂の周囲では、戦いの後始末が続いていた。
兵士たちはグールウルフの死体を荷車へ積み、負傷者は簡易の担架で森の外へ運ばれていく。
先ほどまでの混乱はない。
だが、静まった戦場には別の重さがあった。
死の重さだ。
腐臭と血の匂いはまだ濃く、土は赤黒く濡れている。
その中央で、カイラム・ヴァルグレイは動かずに立っていた。
視線の先にあるのは、グールウルフの王の死骸だった。
砕けた頭蓋。
潰れた前脚。
無残に砕けた顎。
自分が壊した箇所を、あらためて確かめるように見つめる。
不思議と、飽きなかった。
「カイラム神官」
声をかけてきたのは、ガレドだった。
応急処置は済ませたらしく、頬の血は拭われている。だが鎧の裂傷までは隠せない。
「まだここにおられたか」
「ええ」
カイラムは王個体から目を離さずに答える。
「回収の邪魔にはなっていないはずです」
「邪魔ではありません。ただ……少し気になっただけです」
ガレドは苦笑し、それから王個体へ視線を向けた。
「そんなに珍しいですか」
「珍しい、というより」
カイラムは少しだけ考えた。
「美しい」
口に出してから、自分でその言葉を反芻する。
美しい。
ガレドは目を瞬かせた。
「……それはまた、神官らしからぬ感想ですな」
「そうでしょうか」
「少なくとも、普通はそうは言わんでしょう」
それはそうかもしれない、とカイラムは思った。
だが、嘘ではなかった。
この王個体には、他の個体にはない完成があった。
喰らうための牙。
裂くための脚。
獲物を追うためのしなやかな巨体。
生きるという一点にのみ研ぎ澄まされた形。
それは人の身体より、よほど無駄がな異様に思えた。
「先ほどの誘い、断ってよろしかったのですか」
ガレド部隊長がふいに言う。
「天秤騎士団への招きなど、そうそうあるものではないでしょう」
「そうでしょうね」
「惜しくは?」
「まったく」
即答だった。
ガレド部隊長は苦く笑う。
「迷いがありませんな」
「あなたはどうです。誘われたら行きますか」
「私は喜んで行きますとも」
間を置かずに返ってきた答えに、今度はカイラムがわずかに視線を向けた。
ガレド部隊長は肩を竦める。
「栄誉ですからな。それに、あの方の下で戦えるなら得るものも多い」
「そうでしょうね」
「カイラム神官は違う、と」
「私は強い者には興味があります」
カイラムは王個体の死骸を見下ろしたまま続けた。
「ですが、強い者の下に入りたいわけではない」
ガレド部隊長はその言葉を聞いて、少しだけ黙った。
理解はできない。
だが、虚勢ではないことだけは分かる。
「変わったお人だ」
「よく言われます」
短いやり取りを残して、ガレド部隊長は別の兵へ声をかけるため離れていった。
カイラムは再び一人になる。
森の音が戻ってきた。
荷車の軋み。
兵士たちの足音。
痛みに耐える呻き声。
その中で、カイラムはゆっくりと膝を折り、王個体の傍らにしゃがみ込んだ。
黒ずんだ毛皮に手を伸ばす。
もう冷えていておかしくないはずなのに、そこにはまだわずかな熱が残っていた。
指先に伝わる感触は硬い。毛の下の筋肉も、骨も、まだ獰猛さの余韻を宿しているようだった。
手を少しずらす。
砕けた頭蓋の脇から、乾き切っていない血が指についた。
濃い、黒に近い赤だった。
カイラムはそれを見下ろす。
鼻腔をくすぐる血の匂いが、妙に鮮明だった。
腐臭に混じっているはずなのに、他のどの匂いよりもはっきり分かる。
鉄の匂い。
熱の残滓。
生きていたものの匂い。
嫌悪はなかった。
それどころか、胸の奥がかすかに熱を持つ。
先ほどの戦いが、まだ終わっていないような感覚だった。
「カイラム神官、それには素手で触れぬ方が」
後ろから声がした。
振り返ると、若い神官――リオスが、顔をしかめて立っていた。後ろでひとつに束ねた髪が、夜風にかすかに揺れる。
腕には血の付いた布を抱え、眉間には深い皺が寄っている。こういう時、必要以上に気を回す性分だとカイラムは知っていた。
「魔物の血は濃い穢れを含みます。まして王個体ともなれば、何があってもおかしくありません」
「……そうですね」
カイラムはもう一度、自分の指先を見る。
血の色は黒に近い。
匂いも濃い。
そしてそれだけではなかった。
王個体の死骸の周囲だけ、空気が妙に重い。
何かが、まだそこに沈んでいる。
感覚としては分かる。だが、うまく言葉にできない。
リオスは布を差し出した。
「拭ってください。念のため、後で浄めも」
「分かりました」
受け取った布で血を拭う。
だが、一度拭った程度では色が完全には落ちない。
リオスは王個体の死骸へ近寄り、仲間に合図を送った。
「慎重に運べ。牙も骨も別枠で回収するんだ。これは普通の個体とは違う」
魔物の死骸の扱いは神官の領分だ。兵士たちもそれを知っているから、若いリオスの声にも逆らわない。
「違う、とは?」
カイラムが問うと、リオスは顔をしかめたまま答えた。
「魔力の残り方が異常です。死んでいるのに、まだ濃い」
その言葉で、カイラムの中の違和感がひとつの形を得た。
魔力。
なるほど、と腑に落ちる。
血でも、腐臭でもない。
自分が感じていた重さの正体は、それだった。
「……それか」
リオスは小さく頷いた。
「普通のグールウルフなら、死ねばもっと早く散ります。こいつは……何かを溜め込んでいたのかもしれません」
王個体。
ただ大きいだけではない。
ただ強いだけでもない。
荷車へ乗せるため、兵士たちが巨体へ縄を掛ける。
ずるり、と引きずられた死骸の口から、黒い血がまた土へ落ちた。
その一滴に、なぜか目を奪われた。
落ちた血は土へ染み込む。
それだけのことなのに、ひどく印象に残る。
「カイラム神官?」
リオスに呼ばれて、カイラムはようやく視線を上げた。
「いえ。何でもありません」
それ以上は何も言わず、立ち上がる。
布で拭ったはずの指先に、まだ血の感触が残っている気がした。
森を出る頃には、空はすでに暗くなり始めていた。
木々の隙間から差し込む夕光が細くなり、影が濃く長く伸びている。
兵士たちは急ぎ足で進んでいる。
夜の森に留まるのは危険だからだ。
カイラムもその列の後ろを歩いていた。
ふと、足を止める。
風が吹いた。
湿った土の匂い。
木の匂い。
血の匂い。
遠くの獣の匂いまで、混ざり合って鼻を打つ。
鮮明すぎた。
まるで今この瞬間だけ、森そのものが近くなったように。
カイラムは無意識に自分の手を見る。
拭ったはずの血はもう見えない。
だが。
匂いだけが、消えていなかった。
それは不快ではない。
むしろ、胸の奥を静かに熱くする。
戦いの前のような。
敵を見つけた時のような。
あの高揚に似た何か。
カイラムはしばらく黙って立っていたが、やがて小さく息を吐く。
「……気のせいか」
誰に聞かせるでもない呟きは、風に溶けた。
そのまま彼は再び歩き出す。
森の奥は暗い。
だが、不思議なことに足元はよく見えた。
夜が近づいているはずなのに、影の境目がはっきり分かる。
木の根も、石も、遠くの揺れさえも。
カイラムは眉をひそめた。
ほんのわずかな違和感。
だが、それは確かにそこにあった。
礼拝堂はもう見えない。
それでもなお、王個体の血の匂いだけが鼻の奥に残っている。
まるで、何かがまだ自分の中に留まっているように。
手についた血を拭ったはずなのに、匂いだけが消えなかった。




