第二話 天秤騎士団
戦いが終わると、森は不気味なほど静かだった。
先ほどまで響いていた咆哮も、骨の砕ける音も、もうない。
残っているのは腐臭と血の匂い、それから、地に伏した獣の死体だけだった。
兵士たちは助かったという安堵より先に、一人の聖職者へ視線を向けていた。
カイラム・ヴァルグレイ。
怪物の王を素手で屠った神官。
その背に向けられる視線には、感謝だけではないものが混じっていた。
「た、助かった……」
「あれを一人で……?」
「本当に神官なのかよ……」
囁きは小さい。
だが、森の静けさの中ではよく響いた。
カイラムは振り向かない。
彼はただ、倒れた王個体を見下ろしていた。
巨大な頭蓋は砕け、牙は地に沈み、濁った目はもう何も映していない。
強かった。
それだけで、十分だった。
「カイラム神官」
部隊長が声をかける。
鎧には裂傷がいくつも走り、頬にも浅く血が滲んでいたが、その声にはまだ張りがあった。
「此度の働き、感謝する。我々だけでは被害はさらに大きくなっていた」
カイラムはようやく視線を向けた。
「あなたの初動も悪くありませんでした。指示も的確だった。新兵が多い中で、あれだけ盾を維持できたのなら上等です」
「慰めとして受け取っておきます」
部隊長は苦く笑う。
「だが、あの王個体まで出たとなれば話は別だ。こちらの見立てが甘かった」
そう言って、部隊長は地に伏した巨体を見る。
「あの存在は我々だけでは到底打ち倒せなかった。まさか、本当に単独で仕留めるとは思わなかったが」
「単独ではありません」
カイラムは答えた。
「あなた方が他の個体を引き受けていた。でなければ、もう少し面倒でした」
その言葉に、部隊長はほんのわずかに目を見開いた。
気休めではない。
事実として言っているのだと分かる声だった。
「……そういうことにしておきましょう」
部隊長は苦く笑い、それから軽く一礼した。
「ガレドです。第七警戒隊を預かっています」
カイラムは小さく頷いた。
「カイラム・ヴァルグレイです」
「ええ。今日で、よく覚えました」
ガレドがそう返した時だった。
森の奥から、再び音が響く。
軍靴の音。
だが先ほどまでのものとは違う。
乱れがない。
数がいて、なお静かだ。
訓練された者たちの足音だった。
兵士たちの顔色が変わる。
「まだ来るのか……?」
「いや、違う」
ガレドの声がわずかに低くなる。
「あれは」
木々の間から現れたのは、白銀の甲冑を纏った騎士たちだった。
無駄のない歩み。
抜き身ではない武器。
それでも分かる、歴戦の空気。
先頭には、一人の男がいた。
空気が変わる。
ざわめきではなく、緊張とも違う、張り詰めた敬意。
「……天秤騎士団」
誰かが、息を呑むように呟いた。
男は礼拝堂の前で足を止める。
白銀の外套が静かに揺れた。
年はカイラムと同じか、少し上か。
だが、その姿には年齢では測れない完成があった。
隙がない。
立っているだけで、剣であり、盾であり、規律そのもののようだった。
男は戦場を一瞥した。
散らばる死体。
砕けた骨。
負傷兵の数。
地面に刻まれた戦いの痕。
最後に、その視線がカイラムへ止まる。
「王個体がいたようだな」
低く、よく通る声だった。
ガレドが直ちに膝をつく。
「はっ。天秤騎士団団長、アルデウス殿」
他の兵士たちも慌てて倣う。
しかしカイラムだけは立ったままだった。
アルデウスはそれを咎めない。
ただ、グールウルフの王の死体を見て、その砕け方を確かめるように近づいた。
砕けた頭蓋。
前脚。
顎。
壊された箇所を一つずつ確かめてから、彼は振り返る。
「これをやったのは」
「カイラム・ヴァルグレイ神官です」
ガレドが答える。
アルデウスの視線が改めてカイラムへ向いた。
少しの沈黙。
測るような、だが値踏みとは違う目だった。
「見事だ」
その一言に、兵士たちが息を詰めた。
天秤騎士団団長アルデウス。
人の技、力、知、信仰、そのいずれも高みに至ったと噂される男。
その男が、素直に賞賛を口にしたのだ。
「神官にしておくには惜しい腕だな」
「よく言われます」
カイラムが答える。
アルデウスの口元がわずかに緩んだ。
「ならば、返す言葉も同じか」
「ええ。祈るより先に、砕くべき頭蓋もあります」
「……フフ。面白いことも言う。ますます欲しくなった。そして貴殿の言う事も、間違っていない」
即答だった。
カイラムは少しだけ眉を動かした。
反論が来るものと思っていた。
だがアルデウスは否定しない。
彼はむしろ、当然のこととして頷いた。
「祈りが人を救うことはある。だが、祈りの前に剣が要る時もある。盾が要る時もある。時に、敵を叩き潰す腕もな」
兵士たちは黙って聞いている。
アルデウスは王個体の死骸から視線を外さずに言った。
「お前は強い。ただ力があるだけではない。恐怖に呑まれず、最も速く、最も危険な個体の懐へ踏み込める」
そこでようやく、まっすぐカイラムを見る。
「それは稀有な資質だ」
「買い被りです」
「謙遜には聞こえないな」
「事実です」
アルデウスは数秒だけ黙り、そして小さく息を吐いた。
「ならば、なおさら惜しい」
兵士たちの間に、張り詰めた沈黙が広がる。
次に来る言葉を、誰もが予感していた。
アルデウスが言う。
「私の部隊に来ないか、カイラム・ヴァルグレイ」
森の音が、ひどく遠くなった気がした。
兵士たちが目を見開く。
部隊長でさえ、その表情を隠せなかった。
天秤騎士団。
それは選ばれた者たちの部隊だ。
強いだけでは足りない。
技も、精神も、忠誠も、人としての均衡も求められる。
そこへ、アルデウス自ら誘う。
それがどれほど異例か、ここにいる全員が理解していた。
だが、カイラムは少しも動じた様子を見せない。
「光栄です」
そう言ってから、彼は続けた。
「ですが、お断りします」
兵士の何人かが息を呑んだ。
アルデウスだけが表情を変えない。
「理由を聞いても?」
「私は、誰かの下で正しく在るために戦っているわけではありません」
静かな声だった。
それでも、その場の空気を変えるには十分だった。
「祈るためでもない。守るためでもない」
カイラムは、自分のメイスを見る。
砕けた骨と血で汚れた鉄塊。
「私は、戦うためにここにいます」
沈黙。
兵士たちは理解できず、部隊長は苦い顔をし、天秤騎士団の面々は無言のままカイラムを見ていた。
アルデウスだけが、静かにカイラムを見つめている。
「正直だな」
「不誠実な信仰はお嫌いですか?」
「いいや、それもまた、正しさの一つか」
アルデウスはそう言って、踵を返した。
白銀の外套が揺れる。
「遺体を回収しろ。負傷者の手当てを優先。礼拝堂周辺は封鎖。王個体が出た以上、巣はこの一帯だけではない可能性がある」
命令が飛ぶと同時に、天秤騎士団は即座に動き始めた。
速い。
それでいて静かだった。
統率とはこういうものかと、兵士たちは言葉もなく見入っている。
アルデウスは数歩進んでから、ふと足を止めた。
振り返らずに言う。
「カイラム・ヴァルグレイ」
「何でしょう」
「お前は強い。だが、その強さは危うい」
森を渡る風が、二人の間を抜けていく。
「いずれ、お前は選ぶことになる」
「何をですか」
アルデウスは少しだけ間を置いた。
「人として強くなるのか。それとも、それ以外になるのか」
そう言い残し、彼は今度こそ歩き出した。
白銀の背が木々の奥へ遠ざかっていく。
兵士たちも、騎士たちも、その後に続いた。
その場に残ったカイラムは、しばらく何も言わなかった。
やがて、足元の怪物の死骸へ視線を落とす。
砕いた頭蓋。
潰れた喉。
喰らうためだけに研ぎ澄まされた牙。
人よりも、ずっと純粋なもの。
カイラムは小さく息を吐いた。
「人として、か」
その言葉は、自嘲にも、疑問にも聞こえた。
森の奥ではまだ、腐臭が漂っている。
まるで何かが、ここで終わらないと告げているようだった。




