第十一話 人の側
昼の光は高くなっていた。
だが、野営地の空気は明るくなりきらない。
兵士たちは働いている。荷をまとめ、負傷者を看、武具を磨き、森へ目を配る。手は止まらない。声もある。笑いさえ、まったくないわけではない。
それでも、何か一つだけ噛み合っていないような気配があった。
カイラムは野営地の端、干した布の影へ立ち、風に揺れる白布を見ていた。
布越しの光が目に刺さるわけではない。
だが、落ち着かない。
祈りの場を出てから、胸の内にはまた薄い渇きが戻っていた。戦いのあとに遠のいていたものが、静かな時間の中でゆっくり輪郭を取り戻している。
空腹ではない。
痛みでもない。
ただ、何かが足りない。
その感覚だけが、胸の底に浅く残っていた。
「ここにいたんですね」
声がして、カイラムは振り向いた。
リオスだった。
両腕に布束と小瓶を抱え、少しだけ肩で息をしている。結い上げた髪の先が、額に落ちかけていた。
「探していたんですか」
「見失わないようにと言われていますから」
言ってから、リオスは眉をひそめる。
「本当に、少し目を離すとすぐいなくなりますね」
「いなくなったわけではありません」
「見える場所にいないなら、同じです」
きっぱり言ってから、彼女は抱えていた荷を少し持ち直した。
布の間から乾いた薬草の匂いがする。
「仕事ですか」
「ええ。負傷兵のところへ持っていきます。手が足りないので」
そこで一瞬だけ言いよどむ。
「……手伝ってもらえますか」
カイラムは小さくうなずいた。
「構いません」
リオスはほんの少しだけ安堵したようだった。
野営地の中央寄りに設けられた簡易の治療場には、負傷兵が数人横たわっていた。大半は浅い裂傷や打撲だが、うめき声を上げる者もいる。
薬草を煮た匂い。
乾きかけた血。
汗。
布。
湯気。
それらがまとまって漂っていた。
カイラムは無意識に呼吸を浅くする。
リオスは気づかなかったらしい。手早く布と小瓶を並べ、年嵩の神官へ短く声をかける。
「これ、補充です」
「助かる」
返ってきた声は疲れていた。
リオスは次の布束を手渡しながら、自然な調子で動いている。こういう時の彼女は迷いがない。
止血布を広げる手つき。
瓶の栓を確かめる指。
容態を見て置く場所を変える目。
その一つ一つが早い。
カイラムはその傍で木桶を動かし、指示された物を運んだ。
それだけのことなのに、周囲の音が近い。
負傷兵の息づかい。
噛み締めた歯の軋み。
布が皮膚を擦る音。
血の匂いも、やはり鮮明だった。
視線が、傷口へ向きそうになる。
滲んだ赤。
裂けた皮膚。
治りかけた肉。
そこへ意識が引かれかけた瞬間、リオスの声が飛んだ。
「カイラム神官」
低い声だった。
大きくもない。だが、すぐに分かる。
カイラムは視線を上げた。
「何でしょう」
「その瓶をこちらへ」
差し出された手へ小瓶を渡す。
リオスはそれを受け取りながら、ほんの一瞬だけカイラムの顔を見た。
問いたださない。
だが、見ている。
そのことだけは、はっきり分かった。
治療場を離れたのは、それからしばらくしてからだった。
人の多い場所にいろ、というセイルの言葉通り、リオスはカイラムを野営地の中で手放さなかった。水汲み、布運び、薬草の仕分け。大きな仕事ではない。だが、絶えず誰かの目があり、誰かの声が届く場所だ。
その合間、二人きりになる瞬間は短かった。
ようやく落ち着いたのは、日が少し傾き始めた頃だった。
水場の脇に積まれた木箱へ、リオスが小さく腰を下ろす。
「少しだけ休みます」
「ええ」
カイラムも近くに立ったまま、水面を見る。
昼の光を受けた水は白く明るい。夜の時のような深さはない。だが、それでも自分の目の光り方が以前と違うことは分かった。
リオスが小さく息を吐く。
「戦っていない時の方が、気を張ります」
「あなたがですか」
「私がです」
少しだけ投げるような声だった。
「戦っている時のあなたは、危ういのに静かです。今は戦っていないのに、そちらの方が目を離しづらい」
カイラムは水面から目を離さない。
「良くないことですね」
「良くありません」
リオスは即答した。
それから少しだけ沈黙が落ちる。
風が吹き、水面が揺れた。
「……でも」
リオスが言う。
「戦っている時の方が、あなたがあなたに見えるのも事実です」
カイラムはそこで初めて彼女を見た。
リオスは前を向いたままだ。
だが、その横顔には迷いがあった。
「それは、あなたにとって困ることではないのですか」
「困ります」
返事は早い。
「すごく困ります。嫌です」
そこまで言ってから、自分で言葉の強さに気づいたのか、彼女は眉間を押さえた。
「……すみません」
「謝ることですか」
「職務の話だけなら、もっと冷静に言うべきでした」
「本音の方が分かりやすい」
カイラムがそう言うと、リオスは苦い顔で笑った。
「あなたはそういうところだけ、時々優しいですね」
優しい。
その言葉は少し意外だった。
自分がそう見えるとは、あまり思っていなかった。
「あなたは、まだ戻れると思っていますか」
カイラムが問う。
リオスはすぐには答えなかった。
膝の上で指を組み、それからほどく。
「思いたいです」
やがて出てきた声は、思っていたよりずっと静かだった。
「戻れる、ではなく?」
「言わせないでください」
顔は上げないまま、彼女は続けた。
「神官は、戻せるものを戻し、流せるものを流すためにいる。終わらせるのは、その先です」
その最後の一言だけ、少し固かった。
終わらせる。
それがどういう意味か、二人とも知っている。
赦したまえ。人理を守るために、我らが下す人の鉄槌を。
あの聖句は、もう遠いものではなかった。
「だから」
リオスはようやく顔を上げる。
「まだ、その前であってほしい」
風が止む。
水面が静まる。
そのわずかな静けさの中で、リオスの鼓動が聞こえそうな気がした。
近い。
体温も、呼吸も、目の動きも、近すぎるほどに分かる。
カイラムは目を細める。
それが人として相手を近く感じているのか、それとも別の生き物として感覚が鋭すぎるのか、一瞬だけ分からなくなった。
リオスが立ち上がる。
「すみません。変なことを言いました」
「変ではありません」
「変です」
そう言いながら、彼女は抱えていた布束を取ろうとして、端を取り損ねた。
布が崩れ、足元へ落ちかける。
カイラムの手が先に動いた。
拾い上げる。
そのまま布を差し出した時、リオスの指先が、カイラムの手に触れた。
ほんの一瞬だった。
だが、その温度ははっきり分かった。
温かい。
人の熱だ。
鼓動を持ち、息をし、迷いながらも立っている者の熱だった。
リオスもまた、そのまま指を引かない。
指先へ視線が落ちる。
鋭くなった輪郭。
人のものから、少しだけ外れた指先。
彼女はそれを見て、それでも手を離さなかった。
「怖くありませんか」
カイラムが尋ねる。
リオスは少しだけ目を見開いた。
こんな問いが来るとは思っていなかったのだろう。
やがて、小さく息を吐く。
「怖いです」
正直な答えだった。
「でも」
触れていた指が、わずかに強くなる。
「それだけじゃありません」
カイラムは何も言わない。
何も言えなかった。
その熱が、自分の中にまだ残っている人の側の感覚へ触れているような気がしたからだ。
やがて、リオスはそっと手を離した。
布束を抱え直す。
その動作だけが少しぎこちない。
そこへ、背後から低い声が落ちた。
「抱え込みすぎるな、リオス」
振り向くと、セイルが立っていた。
いつから見ていたのか分からない。相変わらず足音の少ない男だ。
リオスははっとしたように背筋を伸ばす。
「司祭」
「お前一人で戻すものではない」
責める響きではなかった。
だが、見透かされている声音だった。
「分かっています」
「分かっている顔ではない」
セイルはそれ以上追及しない。
代わりに、カイラムを見る。
「お前もだ」
「何がです」
「人の側につなぎ止めるものを、軽く見るな」
短い言葉だった。
だが、その重みは十分だった。
セイルはそれだけ言い残し、治療場の方へ去っていく。
残された沈黙の中で、リオスが小さく息を吐いた。
「見られていましたね」
「そうですね」
「怒られた気がします」
「実際、怒られていたのでは」
その言葉に、リオスは少しだけ笑った。
本当に少しだけだった。
だが、その笑いは、朝から何度も見てきた張り詰めた表情よりずっと自然だった。
日がさらに傾いていく。
野営地の中には夕方の匂いが混じり始めていた。
煮炊きの煙。
温め直した薬湯。
冷え始める土。
遠くの森。
渇きは消えていない。
祈りは相変わらず遠い。
戦いに入れば、たぶんまた静かになれる。
それも分かっている。
だが今、胸の内にあるものはそれだけではなかった。
リオスがすぐ近くを歩く。
人の気配。
人の体温。
人の迷い。
それらがまだ、自分にとって無意味なものにはなっていない。
カイラムは歩きながら、右手を静かに握る。
鋭くなった爪先が掌へ触れる。
それでもなお、先ほど触れた彼女の熱の方が強く残っていた。
祈りはもう遠い。
だが、人の側はまだ遠くなりきっていなかった。




